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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「あの人はこういう人」をやめてみる

 ゼミに二股をかけることになり、現象学を研究されている遠藤教授のゼミにお邪魔しています。そのきっかけを作ってくれた友人が貸してくれた本です。この本を読んでから、また「学問自体に惚れ込む病」にかかってしまったのですが。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 筆者は「分人」という新たな概念を提案します。私の言葉で強引にまとめてみると、人にはいろいろな顔があって当たり前なのだから、はじめから自分や他人を「個人(individual=分けられない)」と捉えるのでなく「分人(dividual=分けられる)」として捉えよう、というものです。日常生活のあらゆる面で、自分や他人を「個人」と捉えることによって生じる問題を挙げ、それらを「分人」として捉え直すことを提案しています。おそらく説明が粗雑ですので、深く理解したい方はぜひ一読ください。

 

 私が「分人」という概念を取り入れるととても楽になるな、という思うのが、SNSです。インターネットが普及して真っ先に起こった問題が、よく知っている友人のサイトを除いたら「こんなヤツだったのか!」と衝撃を受ける、というものでした。それが今のSNSになっています。普段接しているとおっとりしているように見えるヤツのFacebookを覗くと友達が1万人以上いる超有名人だったり、真正直で誠実なヤツのTwitterを覗くと会社の愚痴ばかりツイートしていたり…。そうしたことが原因になって会社から追放されたりする時代のようです。私も新卒採用担当者が志望者のTwitterをチェックして採用を決めたりしている会社がある…なんて話を聞いたりすることもあります。

 でもよくよく考えてみれば、実際に会って話すときのAさんと、Twitter上のAさんから受ける印象は、全く違うはずなのです。それだけでなく、Aさんのブログや本、手紙、電話、講義や演説などから受けるAさんの印象は、それぞれ全く違うものです。それは、その印象を文字から受け取っているか音声から受け取っているかの根本的な違いから始まり、Aさんが何を見て(スクリーン? 紙? 私? 他人? その他大勢の人々?)話しているかによっての違いまで様々です。

 

 自分について言えば、自分に対する印象も、それぞれの媒体に自分が出している「分人」によって違います。もちろん、その分人たちを見る人によっても。そうした印象を巧みに操るのが(もしくは操るべきなのが)いわば「有名人」と呼ばれる人々です。

 

 私がこの概念を賛美するのは、「Aさんはこういう分人も持っているんだな」というBさんの気づきが、Bさんをより寛容にさせてくれたらと願うからです。というのも、私は小学4年生のころからコンピュータとインターネットに触れ、その世界の虜になって生きてきているため、私の様々な分人がインターネット上に存在しています。例えばTwitter上の私の分人。その私を見て、「あなたのツイートはしんどいよ」と、実際に会って話しているときにその分人について感想を言ってくる人に「うぅん…」と思ってしまうからです。

 例に出したTwitterであれば、フォローを外せば私のツイートは見えなくなるはずです。インターネットにはそういう性質があります。そこにアクセスさえしなければ、嫌いなものは見なければ、その人の発言や言動は一切見えなくなる。「自分の好きなものいっぱいカフェ」が実現できる、それがインターネットの良いところであり、悪いところです。偶然驚くようなAさんの分人を見てしまったとしても、「あの人腹の底ではこんなこと思ってるんだコワ…」と思い、現実に会っているAさんにその色眼鏡を使う必要はありません。「Aさんはこういう人」という思い込みが、Bさんを不寛容にさせていってしまうのです。とはいえ、私はよくいろいろな人のことを「こういう人」と思い込んでしまうのですが…反省。

 

 少し過去記事を探してみたら、確かベトナム滞在中に書いた日記で、これに近いことを書いていました。日本語学校で日本語を学んでいるベトナムの学生を見ながら考えたことで、言語はシチュエーションによっていくらでも変化するという内容です。

 それぞれシチュエーション、つまり文字を書いているのか実際に会って話しているのかで選ぶ言葉はすべて異なるのだから、それぞれのシチュエーションにおいて場数を踏まないと言語学習に偏りが出てしまう…という一つの言語も完璧にマスターしていない私の戯れ言でした。

 

 実際、ひとつの分人でも、日々人の体調は本当に水のように変わっていくわけで、個人に対して変わらないことを求めるなどお門違いです。そのことにうっすら気づき始めていたところに、この本の「分人」という概念がぴったり合いました。

 

 本のご紹介でした。

 

 

P. S.

 このように、ある人の物事の捉え方について研究していくのがざっくり言うと現象学、と捉えているのですが、現象学に精通している方、よろしいでしょうか。

好きと嫌いは同じもの

 YouTuberなるものが好きでして、高校生のころからちょくちょくチェックしているのですが、私のお気に入りのYouTuberさんで、シバターさんという方がいます。

 


 サムネイルを見ても分かるとおり(これはまだマシな方)、過激な方です。汚い言葉が嫌いな方はご覧にならないことをおすすめします。いわゆる「炎上商法」をおそらく日本のYouTubeで初めて使い、自室のドアにチェーンソーで穴を開けたり他のYouTuberさんの批判動画を上げたりされています。

 

 シバターさんの声を聞き始めてから、YouTuberという存在をより客観的に見ることができるようになったと思います。YouTuberをタレント化して大きく売り出そうとする大手事務所が出てきたり、Googleの公式CMに使われたりと何かと「公式」扱いをされてきているYouTuberに中指を立てる彼。言われてみればそうかもしれない、と思わせる一本撮りの話術は本当に巧みです。

 

 

 彼の衝撃のおかげで、最近、「好きと嫌いは同じもの。好きの反対は無関心」という誰かが言っていた言葉がようやく腑に落ちました。頭では分かっていたのですが、ようやく本当だ、と受け入れることができました。

 彼はYouTuberに対して(結構大物のYouTuberに対しても)、人格は否定することなく、その行動を徹底的に批判していきます。一見するとその批判の相手が嫌いなように見えるけれど、彼はその相手の方のことを気に入ってるんだろうな、頑張ってほしいんだろうな、と思えてくるのです。不思議と。これは本人も自ら「本当に大嫌いなYouTuberの動画はまず見ない」と述べていることからおそらくそうなんだろうと思います。

 

 こういう好み方?もあるんだなあ、と気づきました。好きな相手の行動や成果をとことん批判する。

 

 思えばこの一年(そう、もうこのブログを書き始めてから1年になるんです!)、ブログにも登場しましたベトナム研修の先生方からも、文章論の先生からも、このことは学んでいたはずなんです。「自分のこと嫌いなのかなこの人?」と思っても一度踏みとどまって考えてみること。ベトナムの先生は「そうやって本人に聞いてみもしないでこっちの感情理解しようとするの傲慢じゃないですか?」とおっしゃり、文章論の先生は「今の子は教えづらいよ、ちょっと批判されたらもう逃げちゃうの」とおっしゃいました。思い返してみると確かにつながってるなあ。

 

 そういえば、サークルの後輩にひとりそういう子がいまして。何かにつけて声高に批判したがる男の子なんです。「あんたの頭には脳みそ詰まってるンですか!」と先輩相手に言っちゃうような子で。

 そんな彼、学校の映画祭で自分の映画が新人賞に選ばれたんですね。審査員2名にもよく褒められて、浮き立っていたんです。部室に帰り、数人でその子を取り囲み「すごいね〜」なんて話をしていたら、彼がぽろりと、「褒められるの慣れてないんですよね」とすごく照れていまして。ああ、彼はただ批判することが好きだとかそういうことではなくて、ただ褒められたり褒めたりした経験が少ないからそうしているんだな、と。まあ、かわいい笑

 

 

 子どもの発達なんかを勉強していますと、小学生の男の子が自分の好きな女の子をいじめる、なんていうエピソードがでてきます。その逆も然り。自分が本当は好きな相手をいじめたり、無視したり、無条件に貶したりする。

 それは小さい子だけの話じゃないんだなあと、当たり前のことですが再認識しました。むしろ、そういう表現をしてくる相手に対して「じゃあ素直に好きっていえばいいじゃない」とは言ってはいけない

 

 先ほどのシバターさんもある動画の中で述べていましたが、そうやってストレートに自分を褒めてくれたり、好きだと言ってくれるイエスマンだけを周りに固めているとろくなことになりません。それを冷静に批判してくれる目、素直に嫌いだと言ってくれる人が必要なんです。のぼせないために。

 逆に、自分もそうやって、自分が好きな人ほど批判していかなくちゃな。必要とあらば演技して。

 

 余談ですが、映画「ラ・ラ・ランド」を見てから、演技というものがやっぱり自分にも必要なんだなと考えを改めました。最近は自分の思ったことしか言わず、やりたいことしかやらずという生活でした。しかし「ラ・ラ・ランド」で映画のようなロマンを楽しむふたりを見ながら「ああやっぱいいもんですなー」と鼻をふんふん言わせながら思っておりました。演技も大事。

 

 

 

 結局、好きと嫌いと無関心の尺度って、こんな感じなのでしょうか。

 

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 とはいえ、「いやよいやよも すきのうち」はヘンタイストーカーの一歩手前です。男性のみなさん、いやよ3回で諦めた方がいいみたいですよ、うちの親父曰く。

 

 

 

 

 

 

自分の音楽ストリーミングサービスの使い方

 最後の音楽ストリーミング・ブーム(2016年9月29日のSpotify日本上陸)から半年ほど経ちました。その余熱はまだ感じられますが、はたして今、日本の音楽リスナーはどうやって音楽を聴いているのでしょうか。

 

 私の音楽体験の歴史といえば微々たるもので、まず私は高校にあがるまで意識的に音楽を聴こうとする習慣がありませんでした。テレビで流れる音楽や音楽番組、オリコンランキングの楽曲はほとんど知らず、友人間でも音楽の話が盛り上がることはありませんでした。ただ幼い頃から母親の好みでクラシック、ジャズ、EnyaABBAなどのイージーリスニングCulture Clubあたりのポップスを曲名も分からず聴かされていました。

 高校でスマホを持たされ、当時から少しずつ発展していた「消費の場としてのインターネット」市場に飲まれ(要はAmazonに登録し、YouTubeで音楽発掘をするようになった)、アルバムをちょこちょこ買うようになって自分の好みを開拓していくようになりました。はじめはJ-POPから始まり、高校卒業の時期には当時隆盛を誇っていたEDMにハマりました。

 そして大学に入学してまもなく、Apple Musicの登場で日本の音楽ストリーミング・ブームがはじまりました。Apple Musicはこのときからずっと使い続けています。その後TSUTAYAの味を覚えApple MusicとTSUTAYAにどっぷりと浸かり、Spotifyが日本に上陸する(2016年9月29日)3ヶ月ほど前にアメリカ版のSpotifyに登録してSpotifyにもハマりました。

 

 現在はApple MusicとTSUTAYASpotifyが主な音源入手先になっています。情報収集は音楽雑誌や街で流れる音楽、ラジオなどから行うこともありますが、Apple Music、Spotifyのレコメンド機能から行うこともあります。

 

 音源入手先の使い分けですが、Apple Musicは自分の好きな楽曲を繰り返し聴くために利用しています。他サービスと比べて「自分の保有しているアルバム」がしっかり並べられるためです。Spotifyは新しく楽曲を発見するために利用しています。

 Spotifyは他サービスよりもレコメンド機能の質が秀でています。自分が一生触れることのなかったであろう楽曲を見つけてきてくれるという点で満足しています。また、いわゆるレコード会社の呼ぶ「ワールド」ミュージックも豊富に紹介してくれます。例えばイラン音楽やアフリカ音楽などを聴く場合、Apple Musicでは収録楽曲としては存在しますが、あまりレコメンドはされない印象を受けます。その点Spotifyは一度そういった種類の音楽を聴けば、その界隈の音楽を的確にレコメンドしてくれます。Spotifyの方がレコメンド機能においては信頼できそうです。

 TSUTAYAは、特に邦楽、つまり自分の身近にあるのに見えないアーティストを発見するのに役に立ちます。例えば東京インディーズ。あとは、Apple Music(AAC 256kHz)やSpotify(無料会員はMp3 96-160kHz)で特に気に入った楽曲をCD音質で聴きたいと思ったときに、TSUTAYAでアルバムを借ります。

 

 自分が受けた音楽ストリーミングサービスの恩恵は、詰まるところ「いろんな種類の音楽を聴くようになった」故に、「いろんな種類の音楽の『たのしみ』を理解できた」というところに尽きると思います。そこを若いうちに体験させて生涯課金させるように彼らは仕向けているわけですが。ストリーミングがなければ、ジャズのスウィングを理解することも、琴の響きを理解することも、佐野元春あたりの渋みを理解することも、アイスランド・インディーズに出会うことも、アフリカン・ポップスに出会うことも、インドの伝統音楽に出会うこともありませんでした。「音楽といえば楽しくなきゃ!」とJ-POPやクラブミュージックなどの日本のメインストリームに留まっているよりも幅広くたのしみが広がったと思います。

 

 日本発の音楽ストリーミングサービスは私には合いませんでした。LINE MUSICとAWAをそれぞれ無料期間を利用して1ヶ月利用してみたことがあります。LINE MUSICは「友人と音楽を楽しむ」という体験にフォーカスしている印象を受けました。LINE MUSICでは、LINEで友だちになっている他のLINE MUSICユーザーがどんな曲を聴いているのか、ランキング形式で紹介する機能があります。AWAは「誰かと音楽を楽しむ」という体験にフォーカスしており、誰でもプレイリストを公開することができ、そのプレイリストを聴くユーザーが多ければ自分のIDとともにアプリのトップに表示される…というような機能があります。

 この「音楽をみんなで楽しむ」という感覚が私には奇妙に思えました。現実にみんなで集まってみんなで音楽を聴くのは楽しいのですが、アプリで他者とつながりながら「友だちがこの曲を聴いているから私も聴いてみよう」というのはちょっと違うかなと思います。一人で音楽聴くときくらい一人にさせてくれよ、と思ってしまいました。

 

 また、Apple MusicとSpotifyにはWeb埋め込み(下)機能があり、ネットから音楽情報を仕入れることも多い私はよくこの埋め込みを見ます。

 

 

 
 

 

  

 このあたりを見ると、ネットにおける音楽配信の場を、この2つのサービスはそれなりに是正しているようにも思えます。というのも、Web埋め込みでよく見かけるのは実はコレ↓だからです。

 

 

 

 

 この動画はClassic Mood Experienceという公式チャンネルからアップロードされていますが、公式にアップロードされているものではなく、アーティストにお金が一銭もいかないものがWebに埋め込まれていることも少なくありません(むしろそこを意識して埋め込んでいる人は少ないかも…)。これらがApple MusicやSpotify上で再生されることで、アーティストへのお金の移動が適切に行われます。こうした社会的な課題を意識しているのも、この2つを(特にSpotifyはこの問題の解決策としてメディアに取り上げられることがある)利用したくなる動機のひとつです。

 

 私の個人的な音楽体験を踏まえて、自分の思う音楽ストリーミングサービスの利点を並べてみました。アーティストとリスナーという構図の文脈から見れば、インターネットが登場して音楽の違法アップロードが続いていた中で、ストリーミングはその関係を是正するいいシステムだと思います。おそらくこの先も音楽体験は変化していくでしょうが、一度こうしたツールを通して音楽発掘の楽しさを覚えた人は、これからも音楽を探し続けるのかなあと思います。それはそれで豊かではないでしょうか。

必死さ

 私は自分も含めて、人の「必死さ」に恐怖を覚えることがある。何かをするのに必死な人には、あまり近づきたくなくなる。

 ただこの「必死さ」は、あくまでも自分がそう受け取るものであって、それを醸している当事者にとっては別に必死でもなんでもないのかもしれない。必死な人に対して「そんなに必死にならなくてもいいじゃん」と言い放つようなことは傲慢だと思う。けれど、そんなことは言わないしおくびにも出さないけれど、そう思っている自分はいる。

 同時に、過去の自分に対して「あのときの自分は必死だったな、こわ」と思うこともある。周りの状態を冷静に眺めることを忘れ、とにかく目の前のことだけに思考なしに反応するだけ。何かに執着しようとして、慌ててその何かを固持するだけ。

 自分もそういうときがあるからこそ、たまたま自分が冷静でいたときに、目の前にいる誰かが必死な状態でいると、余計それを気にして見てしまう。とりあえず落ち着いてからお話ししましょう、という気分になる。

 

 

 

 

 

 

 大学に入って初めて出会った友人の中で、いまだ自分の愚論に付き合ってくれる人がいるのだが、彼と1月の最終日、久しぶりに会った。「久しぶりに話そうか」と突然私がLINEを送りつけることができるくらいだから、私がどれだけ厚かましく彼を信頼しているかが分かるだろう。

 彼は私と同じく(少なくとも私が感じている中では私も彼も同類だ)、常に何かを考えずにはいられない人だ。それが日常生活に役に立とうが立たまいが。

 

 昼の2時から夜10時に至るまで延々と話してきたが、その中で彼は私にとても大事なことを教えてくれた。彼曰く、私はどうも、他人から「考え方」を与えられた際、すぐにそれを盲信してしまう癖があるという。例えば、占いの結果をかんたんに信用してしまうように。すぐに自分の核心に他人の考え方を寄せてしまうようだ。彼は自分の知っている情報を私に教えてくれるが、私がそれを真に受けてしまうのが非常に残念で、たまにその情報を与えることを躊躇してしまうそうだ。

 私は分からないものが怖い。正確には、分からないものと付き合わされるのが怖い。自分が分からないものがこの世界にはあるということは自覚しているつもりだけれど、それが自分と関わりを持ってくると、たちまちそれが怖くて仕方がなくなる。だから、それを理解するための考え方なり筋道のようなものに必死に食らいつこうとする。それが今の自分の探究心を育ててくれたのだが、いつまでも必死になって他人の意見を探していては、自分の意見なり筋道なりを見出せなくなる。彼は私のそういうきらいを危惧してくれたのかもしれない。

 それから私は、人と話しているときも、本を読んでいるときも、何か情報を得るときには、その情報を一歩引いてみるようにした。初めて会う人について、その人と既に会った人からその人の印象を聞かされても、「それはあくまでその人の感じ方、自分がどう感じるかは会ってみなきゃ分からない」と思うようになった。

 

 

 おかげで「必死」になることは少なくなったように思う。もちろん、新しい環境、新しい人、新しい情報が目の前にくれば必死になってしまうのだけど。そしてその必死さを楽しみにちょっくら知らない路地を横切る自分もいるのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 私は、自分や他人の「必死さ」に敏感に反応するアンテナ、そして「他人の意見」を真に受けて自分の意見と勘違いしないセンサーを搭載した。それから、自分がどうしても惹かれてしまう、「人間(=自分=自然)とは何か」という問いを追いかけることにした。このことについては拙文「自分の説明書」で述べたとおりだ。

 


 とはいえ、今はとにかく基礎知識をつける段階だと思っている。いや、段階というか、やっていることはそれくらいである。というわけで関連書籍を読みあさっているわけだが、こうやってブログに文章として今の自分の立ち位置を定期的に書いていかないと、ほろりと書籍を盲信してしまいそうになる自分がいるので書いているわけだ。

 今月号のMUSIC MAGAZINEのインタビューで、最近アルバム「Prisoner」をリリースしたRyan Adamsが「僕は自分の感情を落ち着かせるために音楽をやっているかもしれない」と言っていたが、彼にとっての音楽が私にとっての物書きだ。

 

 最後に、この類いの文章を書いていると、「どうかオレ、カルト宗教だけにはハマるんじゃないぞ」と自分を鼓舞したくなる。書いている文章を読むと、後からどうもクサく感じる。

 私はいかなる宗教にも属さないつもりでいる。多くの宗教で見られる「私たちは救われる!私たち以外は滅びる!イェーイ!私たち万歳!!」とか、「あの人は偉い。あなたも含めて私たちは偉くない。だからあの人を敬うのだ」いう雰囲気が嫌いなので。社会的には既に属しているけれど、気持ちの上では宗教に捕らわれることなく、むしろ宗教はじめ諸々に対し批判的な目を向けていきたい。ほーら、クサい。臭い臭い。

ブログとTwitterの使い分け

 夢で、絵本を作っていた。ちびっこの絵本作りを手伝うようなイベントのお兄さんをやっていて、私が物語の大まかな骨組み(プロット)を作っていた。私が担当していた子は、私がその骨組みを作っている間に、自分の好きなように物語を作っていた。骨組みを作り終えた後、その子の作った物語を見て驚いた。簡潔も簡潔だった。自分の作った物語の文章は、ひどく回りくどく、この子(小学生くらいだったと思う)には絶対に読んでもらえないだろうと思えるものだった。

 このブログのもそうだが、私の文章は冗長だと自覚している。書こうと思えば短く簡潔に書けることを、ただ長くしているようだと感じることもある。

 しかし、短く簡潔に書く練習は140字しか書けないTwitterで充分だ。どうあがいても140字単位でしか文章を投稿できないあの環境は、常に文章を短くせよと自分に圧力をかけてくる。このブログでは、Twitterでは「言葉の裏を読んでくださいませ」という部分も文章化してみようと思う。言葉の裏は、なかなか残りにくいものだから。