あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

この夏、ベトナムと瀬戸内に行ってきます。

 こんにちは。昨日長崎に上陸した台風が、そろそろ関東に近づいています。福岡にいた頃は、台風と言えば「ドガーッ!ドンガラガッシャーンッッ!!ピャオー!」といったように荒れ狂う激しいヤツというイメージでしたが、東京で感じる台風は「ホントに台風?」といった感じです。平野だからかな。

 

 さて、この夏、ベトナムホーチミン香川県は直島に行くことになりました。それぞれ飛行機を取ってあるので何が何でも行きます。

 ベトナムへは、海外滞在記録最長の3週間。ほとんど「バンメトート(Buôn Ma Thuột)」というホーチミンから北東へ250kmほど離れたところにある、コーヒーの街に滞在します。ベトナムはコーヒーの生産量が世界第2位、という話は何度かこのブログでも取り上げましたが、今回は「じゃあコーヒー農場見たいなー」という思いで行って参ります。今度は授業ではなく単身で行くわけですが、同じように事前学習をして(といっても去年ほどしっかりやってはいない)、現地で尻を汚し、写真を撮ったりメモメモしたりして、帰国後再調査、という形をとりたいと思います(論文…にはならないと思うけれど、エッセイなりブログなりで成果を形にしたいとは思っています)。

 かっちり決めているわけではありませんが、今回のベトナムの大きなテーマは今のところ、「コーヒー、カフェという異文化がどのようにベトナムで咀嚼されているのか?」です。フランス統治下においてコーヒーやカフェといった「異文化」がベトナムにもたらされたわけですが、ベトナムの人々はどうやって、何を思い、それを受け入れたのか、というところが見えればいいなと思っています。今回は気鋭の先生陣がいらっしゃらないので(今回の旅の計画には多いにご協力を賜っております!ありがとうございます!)どうしても現地の人に深掘りインタビューすることはできませんが、まあ旅行も兼ねておりますので、気楽に自分の見たままを記録していこうと思います。

 

 なんとなく、気になったんですよね。ホーチミンで見てきたカフェ文化。屋内外問わず日本と同じようなものから全く異なるものまで、オシャレなところから大正ロマンを感じるところから安っちいプラスチッキーなところ(そこが好き)まで、どこにでもカフェがあるホーチミンカントーへ行くバスの車窓からも、周りに家のないところにぽつんと「Cà phê(カフェ)」とかかれたトタンの家が見えました。おもしろいなと思いました。こんなに深くまで浸透している「カフェ」というミームが。日本でいうところのコンビニですね。

 では、そのコンビニくらい無数にかつ広範囲にあるカフェ、そこに何が置いてあるのかというとコーヒー豆です。では、そのコーヒー豆はどうやってつくっているのか? もちろん地産地消しているところもあるだろうが、世界に輸出しているほどだ、どこかでプランテーションを作ってやっているに違いない。だとしたらそれはどこで、そこでどんなことをやっているんだ? 自分が安らぎと涼しさをもらっている目の前のこの一杯のコーヒーはどんな思いでここにやってきてるんだ?

 

 前回執筆したベトナム論文*1の最後に、「私たちは、自分が受けている恩恵を誰が、どうやって作っているのか、一度くらい見に行ってもいいんじゃないかな」という趣旨の文章を書きました。今の自分にその言葉が突き刺さっています。使命感とはちょっと違うけれど、「まあ行くよね」という感覚です。

 ちょっと鼻息荒く書いてしまいましたが、ゆるゆるとした気持ちでまたベトナムに負けてこよう。

 あと、今回は頑張ってベトナム語ちったあ覚えていこうということで、今年度のベトナム授業(そう、僕らにも後輩がいるのです!わーい!)で指定教材として挙げられていたこの本を読んでおります。完璧に話せるようになろうとは思っていないので、読み物として。でも、タオダン公園の鳥カフェの人たちに自己紹介できるくらいには話せるようになりたい!!

 

ベトナム語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

ベトナム語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

 

 

 

 

 加えて、瀬戸内海に行くことになりました。これは2泊3日という、ベトナムに比べれば大変忙しい日程です。荒川ゼミとして行きます。

 瀬戸内海に浮かぶ直島をはじめ、小豆島、女木島などなど8つの島にて、3年に1回「瀬戸内国際芸術祭」というトリエンナーレ(芸術祭)が開かれています。直近では2016年に第3回が行われました。

 特にこの芸術祭の中心が直島という島です。人口3000人強、戦後三菱マテリアルの銅精錬所を受け入れ、現在は現代アートの島として知られる「変わった」島です。

 

 まだあまり事前学習が進んでいませんが、これまで自分の島を「観光地」として考えていなかった住民の方々が、今や現代アーティストの展示を受け入れている、ここにいったい何があったのか気になって気になってしかたがありません。時間と勇気があれば住民の方にも詳しい歴史を聞いてみたいと思っています。ベトナムのテーマともつながるし。

 

 

 改めて読み返してみると、なんだか「旅だいちゅき!」な人みたいですね笑。でも、本当にこう書くしかないんですが、なんとなくこうなってしまったんです。本当は大学も3年生なのだから、このご時世、インターン行った方がいいんじゃーねーの? とも思ったりしておりますが、どうもこの「インターン」というシステムがうまく自分の中で咀嚼できなくて。特に大企業のインターンなんか、働きもしないし。「どうして?」が分からないと、分かりたいと思わないと、動けない、言い訳だらけの、青春。(は?)

 SPIの勉強くらいはそろそろ始めようかなあと思いますが、最近歴史(日本史+世界史)に興味がもりもり湧いてきて、「家庭教師のトライ」でおなじみ映像授業の「Try IT(トライイット)」で勉強を始めるくらいで。SPIの勉強よりこっちの方がしっくり来てる…。うーむ、困った次男である。自分でもそう思うのだから、両親は本当に大変だなあ。うん。

 

 愚痴はともかく、まあせっかくこうしていろいろなところを見てくるんだから、というわけで、ぼちぼち新しいカメラを買おうと考えています。

 今僕が持っているカメラは「PowerShot SX 50 HS」という、もう5年前になりますか、誕生日とクリスマスとお年玉と土下座と気合いで親に買ってもらったデジタルカメラです。一眼レフのような図体をしておりますが、50倍ズームできるレンズだからというだけで、実際にはデジカメです。

 大学に入り、映像を扱うサークルに入ったこともあり周りにキラキラした一眼レフをお持ちの方々も増えましたが、なんとなく愛着もあるし、金も高いしで新しい一眼レフを買うのを躊躇しておりました。

 そんななか、小さなライカを持っている友人を見つけたり、Saul Leiter(ソール・ライター)の写真展で感激したりなどなどを通して、「ああ小さいカメラで、『きれいに撮りすぎない』カメラもよかやなかですか」と思い始め。ここ2週間ほどカメラを漁っております。

 

 今のところ、一周回ってデジタルカメラ「GR II」にしようかなと思っています。ミラーレス、一眼レフ、フォーサーズと回ってきたのですが、「画質良し、ズームせずともしっかりボケる、そこそこ明るいレンズ、きれいに撮れすぎない」となるとやはりこれかな、と。もし提案といいますか、GR IIに近い質感の写真の撮れるカメラがあれば教えていただきたいですが…、こればっかりは感性の問題、自分でどうにかするしかない。

 

 長々と夏の計画について書いてみました。hẹn gặp lại ở Hồ Chí minh!

*1:昨年授業として行ったベトナムホーチミンのカフェ文化の観察結果を自分なりにまとめたものです。なんとなくまだ公開する時期ではないかなあと思い、特段公開はしていません。

わたしのすきなラーメン屋

 ラーメンが大好きです。インターネットの次に好きです。

 特に言っちゃあ悪いが小汚い、でも丹念に拭かれた大釜から、これまた丹念に拭かれたテーブルに出されるラーメンが大好きです。

 この典型的なラーメンが屋台ラーメンなのですが、(エセ)博多っ子なのに屋台に行ったことがないという…。行きたくないわけじゃないけれど、行く機会がないという、アレです。

 

 ラーメン自体も好きなのですが、ラーメン屋自体も好きです。小奇麗にしてある観光客向けの「これぞ!」「元祖!」「ゑい!」と打ち出してあるのではなく、ああこの人本気でラーメン屋やってるなあと思う店主のいるラーメン屋です。

 ラーメン屋の店主の本気というのは、かすったこともない私が言うのもなんですが、「一生この店でやっていくぜ!がんばるぜ!」みたいなギラギラした本気、ではないんです。「任しときぃや!学生のあんたならチョイと安くしとっちゃあぜぃぃ!」という感じではなく。かといって売る気のない目の死んだ店主、というわけでもなく…。わがままというか、憧憬を照らしているだけでしょうか。

 

 そもそもラーメン屋って何だか不思議な感じがするんですね。表にキラッキラの広告を出していない店とか。見るからに綺麗とはいえない、ゴキとかハエとか、いや、いないんだけどもいてもおかしくないような。床は脂でギトギトがデフォルト。店主は何だか高圧的。注文しても「はいよ」としか言わないし、ラーメン出すときも「はい、ラーメン」としか言わない。間違っても「お熱くなっておりますのでお気を付けてお召し上がりください♪」なんて言わない。なのに客がいる。うまそうに食ってる。

 たぶんそういうお店って、いわゆる下町とか、一昔前は「人情あふれる」なんて言われた町に行けば、いくらでもあると思うんです。でも、そういう町になんとなく足が向かない、ちょっと「他人に身を委ねることができない」孤立症候群にかかってる我が身としては、「そこにラーメンが売っている」という名分があるだけで、なんとなく親近感が湧いて入れたりするんです。酒好きが居酒屋はしごするようなもんです。たぶん。居酒屋はしごするほど金がなくてやったことないけど。

 

 たぶん一生ラーメン屋通うんだろうなあ。どれだけお金持ちになって、ラーメンなんかよりもっと健康にいい、おいしい料理が食べられるようになっても。というか死ぬ気で探すわ。食べに行くわ。

 

 いろんなところに行ってみたい。住んでみたい。まだ自分が行ったことがないところ。そういう気持ちがあるにはあるけれど、行ったら行ったで前いたところのラーメンが恋しくなる。いや人もそうなんだけども、やっぱりラーメン。かも。

 

 ところで私がどこのラーメン屋を前提に話しているのか、私が最近よく行くラーメン屋の名前を挙げておきます。「せい家」は家の近くにあるから。「まるきん」も。あとは、だいたい毎月通っているヘアサロン(理容室? 床屋? 3000円くらいでカットしてくれる理容師さんの店、の気取ってない言い方が分かりません)の近くにある「町田商店」。町田商店なんかは面白いですよ。うるさいし。麺あげる男の人が「中麺いきます!」って言ったら周りの若い衆が「お願いします!」って言って客に配りに行く。たまに「オネガイシマス!」ってアニメみたいな声でやってる人もいるし、ポジティブに言えばノリがいい。あとはあまり見かけなくなった「スープまで飲んだら」特典があるところ。10杯で1杯無料。最高です。

 なんだかんだチェーン店ばかりでした。

 

 いや、東京でも、個人でやってらっしゃるラーメン屋さんいくつか目星つけてるんです。次郎みたいな個人ラーメン屋に見せかけたチェーン店、ではなく。でも入らない。入りづらくもないんだけれど、むしろ勝手にこっちで親近感覚えちゃったりしてるんだけど。なんとなく。

 突然ですが、ここらへんの感覚は、自分の他人との距離感のはかり方と似ているところがあります。別に彼のこと嫌いではないんだけれど、まあ今はそんなに深入りするタイミングじゃないかな、みたいな。だから私が面接で「私10秒で誰とでも仲良くなれます!」とか言い出したら「何か辛いことでもあったの?」と聞いてください。たぶんあります。

 相手からぐいぐい来られるときはそのぐいぐいに適当に合わせるんですが、自分からそんなに無理してぐいぐい行くことはないかなあ。コミュニケーションの苦手なヤツ、と言われればそれまでなんだろうけど、なんだろう、暇さえあれば人に話しかけるという姿勢は私には辛いような気がします。

 そういう感覚がなんとなく私にはあるので、そうやって目星をつけてる店は増えていくばかりなのです。

 

 

 誇大して言ってしまえば、「泥臭い」の、好きなんですよね。今やってる配達のアルバイトもそういうところはある。「この仕事大好き!私の天職!」というわけでは決してないし、「一生この仕事やっていきます」なんて気は全くないけど、なんとなく好きなんです。好き、というより、お気に入り、の方がしっくり来るかな。その仕事自体も、それをやっているときの自分も。

 かといって、じゃあお前明日から家出てゼロから人生たたき上げてみろ!社会の底辺を見てからモノ言わんかいボケェ!というのは辛すぎます。「下積み時代」を盲信する気は全くないのですが、それでも自分の生活範囲の中にある「泥臭さ」の中に身を置いときたい感覚はあります。

 

 だからでしょうか、「まほろ駅前多田便利軒」が好きなのは。

 

 

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映画「まほろ駅前多田便利軒」のワンシーンより

 

  この映画を「泥臭い」の一言で済ませるなんて絶対にあり得ない!と強く思うほどこの映画は私の中に染みこんできちゃってる(内在化されてる)のですが。こういう感じです、こういう感じ。(少なくとも私の持っている)言葉では語れないこの感じ。がんばって書いてみるか。「非日常に根を下ろしたまま暮らす日常」「儚い…、うーん。きちんと伝わるんだろうか心配。

 

 眠くなったので寝ます。というより寝なきゃやばいので寝ます。夕食のせい家のラーメンにかけたニンニクのせいで疲れ果ててるのに眠れません。がんばります。お休みなさい。

キリスト教の歴史的流れを知った

前置き

 いつもお越しいただいてる読者の皆様、ありがとうございます。今日から試しに、日記を書いてみようと思います。自分の伝える力の底上げが目的です。1日起きたこと、考えたことを定期的に(半ば強制的に)まとめる訓練です。

 私のライフサイクルがバレるようで恥ずかしい気持ちもありますが…。隠すべきところは書きませんから。ね。

 まあ、いつまで続くかは私にも分かりません。毎日やる気もありません。これまで通りゆるくお付き合い願います。

 

 

 

 

 10時半起床。昨日のEゼミ(機会あればこの中身も後ほど書きます)の飲み会で、昨晩は就寝が遅かった。

 最近の習慣として、眠っていた頭を動かすのにマイクラ(Minecraft)をやることにしている。か、マイクラの実況か。マイクラは自分がやっていても他人がやっている様子を見ていても、なんとなく頭が冴えてくる。ランニングの方が身体的にはいいんだろうけど。

 その後Eゼミの課題、インタビュー練習のときに取った音声の文字起こし作業を小一時間。文字起こしはだいたい録音時間の3倍くらいの時間で終わらせられるようだ。

 マイクラ実況を見ていたら、でかける時間になった。しかしこのまま学校に行って3限を受けてしまうと、文字起こしをした文章をまとめる時間がない。

 というわけで、3限をサボった(通算2回目)。

 

 3限が始まる時間に学校に行き、図書館のPCスペースへ。まず、自転車で学校に来るまでに湧いてきた、Aゼミの発表の構想を一部実践してみる。

 文章をまとめる。インタビューを受けてくれた人が、話し方に少しクセのある人で、自分にとっての平易な文章に直す。意味のつながりを分かりやすくするために入れ替えたり、書き言葉に直したり、「てにをは」を挿入したりする。

 さらっと自分が改良した文章を読んでみると、インタビューを受けた人「らしさ」のようなものが消えていた。他人に分かりやすく伝える文章であって、タレントのインタビュー記事ではないから…。まあいいか、と思う。インタビュー音声を文字起こしして文章にする、という作業が初めてだったので、こういうことに新鮮味を覚えた。

 

 今回の課題の感想文も末尾に載せ、時間ギリギリに作業を終えて4限の宗教論に出る。4限中も校正をしながら講義を聞く。今日はキリスト教の歴史のつづき。イエスの死後、どのようにキリスト教が受け継がれてきたかを概観する。西方教会東方教会(orthodoxy)、ローマ・カトリック教会プロテスタント教会英国国教会ピューリタン。オーソドックス(orthodox)はここから来たのかぁ、ピューリタン(Puritan)の語源はpure(純粋)かぁ、と感嘆。世界史をまともに受けていない(大航海時代しかやっていないように思う。理系クラスだったから)私にとってはこういう歴史のとっかかりを教えてくれる講義は楽しい限り。メモがはかどる。

 講義を終えてアルバイトへ。営業所にゴキブリが出た。そういえばゴキブリを見たのは2年ぶりくらいかもしれない。一度足で踏んだら、ゴキッと音を立てて足が折れた。先輩が窓拭き用の洗剤を吹きかけた。死ななかったが弱っていた。そのまま紙ですくってゴミ袋に入れた。

「あの人はこういう人」をやめてみる

 ゼミに二股をかけることになり、現象学を研究されている遠藤教授のゼミにお邪魔しています。そのきっかけを作ってくれた友人が貸してくれた本です。この本を読んでから、また「学問自体に惚れ込む病」にかかってしまったのですが。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 筆者は「分人」という新たな概念を提案します。私の言葉で強引にまとめてみると、人にはいろいろな顔があって当たり前なのだから、はじめから自分や他人を「個人(individual=分けられない)」と捉えるのでなく「分人(dividual=分けられる)」として捉えよう、というものです。日常生活のあらゆる面で、自分や他人を「個人」と捉えることによって生じる問題を挙げ、それらを「分人」として捉え直すことを提案しています。おそらく説明が粗雑ですので、深く理解したい方はぜひ一読ください。

 

 私が「分人」という概念を取り入れるととても楽になるな、という思うのが、SNSです。インターネットが普及して真っ先に起こった問題が、よく知っている友人のサイトを除いたら「こんなヤツだったのか!」と衝撃を受ける、というものでした。それが今のSNSになっています。普段接しているとおっとりしているように見えるヤツのFacebookを覗くと友達が1万人以上いる超有名人だったり、真正直で誠実なヤツのTwitterを覗くと会社の愚痴ばかりツイートしていたり…。そうしたことが原因になって会社から追放されたりする時代のようです。私も新卒採用担当者が志望者のTwitterをチェックして採用を決めたりしている会社がある…なんて話を聞いたりすることもあります。

 でもよくよく考えてみれば、実際に会って話すときのAさんと、Twitter上のAさんから受ける印象は、全く違うはずなのです。それだけでなく、Aさんのブログや本、手紙、電話、講義や演説などから受けるAさんの印象は、それぞれ全く違うものです。それは、その印象を文字から受け取っているか音声から受け取っているかの根本的な違いから始まり、Aさんが何を見て(スクリーン? 紙? 私? 他人? その他大勢の人々?)話しているかによっての違いまで様々です。

 

 自分について言えば、自分に対する印象も、それぞれの媒体に自分が出している「分人」によって違います。もちろん、その分人たちを見る人によっても。そうした印象を巧みに操るのが(もしくは操るべきなのが)いわば「有名人」と呼ばれる人々です。

 

 私がこの概念を賛美するのは、「Aさんはこういう分人も持っているんだな」というBさんの気づきが、Bさんをより寛容にさせてくれたらと願うからです。というのも、私は小学4年生のころからコンピュータとインターネットに触れ、その世界の虜になって生きてきているため、私の様々な分人がインターネット上に存在しています。例えばTwitter上の私の分人。その私を見て、「あなたのツイートはしんどいよ」と、実際に会って話しているときにその分人について感想を言ってくる人に「うぅん…」と思ってしまうからです。

 例に出したTwitterであれば、フォローを外せば私のツイートは見えなくなるはずです。インターネットにはそういう性質があります。そこにアクセスさえしなければ、嫌いなものは見なければ、その人の発言や言動は一切見えなくなる。「自分の好きなものいっぱいカフェ」が実現できる、それがインターネットの良いところであり、悪いところです。偶然驚くようなAさんの分人を見てしまったとしても、「あの人腹の底ではこんなこと思ってるんだコワ…」と思い、現実に会っているAさんにその色眼鏡を使う必要はありません。「Aさんはこういう人」という思い込みが、Bさんを不寛容にさせていってしまうのです。とはいえ、私はよくいろいろな人のことを「こういう人」と思い込んでしまうのですが…反省。

 

 少し過去記事を探してみたら、確かベトナム滞在中に書いた日記で、これに近いことを書いていました。日本語学校で日本語を学んでいるベトナムの学生を見ながら考えたことで、言語はシチュエーションによっていくらでも変化するという内容です。

 それぞれシチュエーション、つまり文字を書いているのか実際に会って話しているのかで選ぶ言葉はすべて異なるのだから、それぞれのシチュエーションにおいて場数を踏まないと言語学習に偏りが出てしまう…という一つの言語も完璧にマスターしていない私の戯れ言でした。

 

 実際、ひとつの分人でも、日々人の体調は本当に水のように変わっていくわけで、個人に対して変わらないことを求めるなどお門違いです。そのことにうっすら気づき始めていたところに、この本の「分人」という概念がぴったり合いました。

 

 本のご紹介でした。

 

 

P. S.

 このように、ある人の物事の捉え方について研究していくのがざっくり言うと現象学、と捉えているのですが、現象学に精通している方、よろしいでしょうか。

好きと嫌いは同じもの

 YouTuberなるものが好きでして、高校生のころからちょくちょくチェックしているのですが、私のお気に入りのYouTuberさんで、シバターさんという方がいます。

 


 サムネイルを見ても分かるとおり(これはまだマシな方)、過激な方です。汚い言葉が嫌いな方はご覧にならないことをおすすめします。いわゆる「炎上商法」をおそらく日本のYouTubeで初めて使い、自室のドアにチェーンソーで穴を開けたり他のYouTuberさんの批判動画を上げたりされています。

 

 シバターさんの声を聞き始めてから、YouTuberという存在をより客観的に見ることができるようになったと思います。YouTuberをタレント化して大きく売り出そうとする大手事務所が出てきたり、Googleの公式CMに使われたりと何かと「公式」扱いをされてきているYouTuberに中指を立てる彼。言われてみればそうかもしれない、と思わせる一本撮りの話術は本当に巧みです。

 

 

 彼の衝撃のおかげで、最近、「好きと嫌いは同じもの。好きの反対は無関心」という誰かが言っていた言葉がようやく腑に落ちました。頭では分かっていたのですが、ようやく本当だ、と受け入れることができました。

 彼はYouTuberに対して(結構大物のYouTuberに対しても)、人格は否定することなく、その行動を徹底的に批判していきます。一見するとその批判の相手が嫌いなように見えるけれど、彼はその相手の方のことを気に入ってるんだろうな、頑張ってほしいんだろうな、と思えてくるのです。不思議と。これは本人も自ら「本当に大嫌いなYouTuberの動画はまず見ない」と述べていることからおそらくそうなんだろうと思います。

 

 こういう好み方?もあるんだなあ、と気づきました。好きな相手の行動や成果をとことん批判する。

 

 思えばこの一年(そう、もうこのブログを書き始めてから1年になるんです!)、ブログにも登場しましたベトナム研修の先生方からも、文章論の先生からも、このことは学んでいたはずなんです。「自分のこと嫌いなのかなこの人?」と思っても一度踏みとどまって考えてみること。ベトナムの先生は「そうやって本人に聞いてみもしないでこっちの感情理解しようとするの傲慢じゃないですか?」とおっしゃり、文章論の先生は「今の子は教えづらいよ、ちょっと批判されたらもう逃げちゃうの」とおっしゃいました。思い返してみると確かにつながってるなあ。

 

 そういえば、サークルの後輩にひとりそういう子がいまして。何かにつけて声高に批判したがる男の子なんです。「あんたの頭には脳みそ詰まってるンですか!」と先輩相手に言っちゃうような子で。

 そんな彼、学校の映画祭で自分の映画が新人賞に選ばれたんですね。審査員2名にもよく褒められて、浮き立っていたんです。部室に帰り、数人でその子を取り囲み「すごいね〜」なんて話をしていたら、彼がぽろりと、「褒められるの慣れてないんですよね」とすごく照れていまして。ああ、彼はただ批判することが好きだとかそういうことではなくて、ただ褒められたり褒めたりした経験が少ないからそうしているんだな、と。まあ、かわいい笑

 

 

 子どもの発達なんかを勉強していますと、小学生の男の子が自分の好きな女の子をいじめる、なんていうエピソードがでてきます。その逆も然り。自分が本当は好きな相手をいじめたり、無視したり、無条件に貶したりする。

 それは小さい子だけの話じゃないんだなあと、当たり前のことですが再認識しました。むしろ、そういう表現をしてくる相手に対して「じゃあ素直に好きっていえばいいじゃない」とは言ってはいけない

 

 先ほどのシバターさんもある動画の中で述べていましたが、そうやってストレートに自分を褒めてくれたり、好きだと言ってくれるイエスマンだけを周りに固めているとろくなことになりません。それを冷静に批判してくれる目、素直に嫌いだと言ってくれる人が必要なんです。のぼせないために。

 逆に、自分もそうやって、自分が好きな人ほど批判していかなくちゃな。必要とあらば演技して。

 

 余談ですが、映画「ラ・ラ・ランド」を見てから、演技というものがやっぱり自分にも必要なんだなと考えを改めました。最近は自分の思ったことしか言わず、やりたいことしかやらずという生活でした。しかし「ラ・ラ・ランド」で映画のようなロマンを楽しむふたりを見ながら「ああやっぱいいもんですなー」と鼻をふんふん言わせながら思っておりました。演技も大事。

 

 

 

 結局、好きと嫌いと無関心の尺度って、こんな感じなのでしょうか。

 

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 とはいえ、「いやよいやよも すきのうち」はヘンタイストーカーの一歩手前です。男性のみなさん、いやよ3回で諦めた方がいいみたいですよ、うちの親父曰く。