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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

自分の音楽ストリーミングサービスの使い方

 最後の音楽ストリーミング・ブーム(2016年9月29日のSpotify日本上陸)から半年ほど経ちました。その余熱はまだ感じられますが、はたして今、日本の音楽リスナーはどうやって音楽を聴いているのでしょうか。

 

 私の音楽体験の歴史といえば微々たるもので、まず私は高校にあがるまで意識的に音楽を聴こうとする習慣がありませんでした。テレビで流れる音楽や音楽番組、オリコンランキングの楽曲はほとんど知らず、友人間でも音楽の話が盛り上がることはありませんでした。ただ幼い頃から母親の好みでクラシック、ジャズ、EnyaABBAなどのイージーリスニングCulture Clubあたりのポップスを曲名も分からず聴かされていました。

 高校でスマホを持たされ、当時から少しずつ発展していた「消費の場としてのインターネット」市場に飲まれ(要はAmazonに登録し、YouTubeで音楽発掘をするようになった)、アルバムをちょこちょこ買うようになって自分の好みを開拓していくようになりました。はじめはJ-POPから始まり、高校卒業の時期には当時隆盛を誇っていたEDMにハマりました。

 そして大学に入学してまもなく、Apple Musicの登場で日本の音楽ストリーミング・ブームがはじまりました。Apple Musicはこのときからずっと使い続けています。その後TSUTAYAの味を覚えApple MusicとTSUTAYAにどっぷりと浸かり、Spotifyが日本に上陸する(2016年9月29日)3ヶ月ほど前にアメリカ版のSpotifyに登録してSpotifyにもハマりました。

 

 現在はApple MusicとTSUTAYASpotifyが主な音源入手先になっています。情報収集は音楽雑誌や街で流れる音楽、ラジオなどから行うこともありますが、Apple Music、Spotifyのレコメンド機能から行うこともあります。

 

 音源入手先の使い分けですが、Apple Musicは自分の好きな楽曲を繰り返し聴くために利用しています。他サービスと比べて「自分の保有しているアルバム」がしっかり並べられるためです。Spotifyは新しく楽曲を発見するために利用しています。

 Spotifyは他サービスよりもレコメンド機能の質が秀でています。自分が一生触れることのなかったであろう楽曲を見つけてきてくれるという点で満足しています。また、いわゆるレコード会社の呼ぶ「ワールド」ミュージックも豊富に紹介してくれます。例えばイラン音楽やアフリカ音楽などを聴く場合、Apple Musicでは収録楽曲としては存在しますが、あまりレコメンドはされない印象を受けます。その点Spotifyは一度そういった種類の音楽を聴けば、その界隈の音楽を的確にレコメンドしてくれます。Spotifyの方がレコメンド機能においては信頼できそうです。

 TSUTAYAは、特に邦楽、つまり自分の身近にあるのに見えないアーティストを発見するのに役に立ちます。例えば東京インディーズ。あとは、Apple Music(AAC 256kHz)やSpotify(無料会員はMp3 96-160kHz)で特に気に入った楽曲をCD音質で聴きたいと思ったときに、TSUTAYAでアルバムを借ります。

 

 自分が受けた音楽ストリーミングサービスの恩恵は、詰まるところ「いろんな種類の音楽を聴くようになった」故に、「いろんな種類の音楽の『たのしみ』を理解できた」というところに尽きると思います。そこを若いうちに体験させて生涯課金させるように彼らは仕向けているわけですが。ストリーミングがなければ、ジャズのスウィングを理解することも、琴の響きを理解することも、佐野元春あたりの渋みを理解することも、アイスランド・インディーズに出会うことも、アフリカン・ポップスに出会うことも、インドの伝統音楽に出会うこともありませんでした。「音楽といえば楽しくなきゃ!」とJ-POPやクラブミュージックなどの日本のメインストリームに留まっているよりも幅広くたのしみが広がったと思います。

 

 日本発の音楽ストリーミングサービスは私には合いませんでした。LINE MUSICとAWAをそれぞれ無料期間を利用して1ヶ月利用してみたことがあります。LINE MUSICは「友人と音楽を楽しむ」という体験にフォーカスしている印象を受けました。LINE MUSICでは、LINEで友だちになっている他のLINE MUSICユーザーがどんな曲を聴いているのか、ランキング形式で紹介する機能があります。AWAは「誰かと音楽を楽しむ」という体験にフォーカスしており、誰でもプレイリストを公開することができ、そのプレイリストを聴くユーザーが多ければ自分のIDとともにアプリのトップに表示される…というような機能があります。

 この「音楽をみんなで楽しむ」という感覚が私には奇妙に思えました。現実にみんなで集まってみんなで音楽を聴くのは楽しいのですが、アプリで他者とつながりながら「友だちがこの曲を聴いているから私も聴いてみよう」というのはちょっと違うかなと思います。一人で音楽聴くときくらい一人にさせてくれよ、と思ってしまいました。

 

 また、Apple MusicとSpotifyにはWeb埋め込み(下)機能があり、ネットから音楽情報を仕入れることも多い私はよくこの埋め込みを見ます。

 

 

 
 

 

  

 このあたりを見ると、ネットにおける音楽配信の場を、この2つのサービスはそれなりに是正しているようにも思えます。というのも、Web埋め込みでよく見かけるのは実はコレ↓だからです。

 

 

 

 

 この動画はClassic Mood Experienceという公式チャンネルからアップロードされていますが、公式にアップロードされているものではなく、アーティストにお金が一銭もいかないものがWebに埋め込まれていることも少なくありません(むしろそこを意識して埋め込んでいる人は少ないかも…)。これらがApple MusicやSpotify上で再生されることで、アーティストへのお金の移動が適切に行われます。こうした社会的な課題を意識しているのも、この2つを(特にSpotifyはこの問題の解決策としてメディアに取り上げられることがある)利用したくなる動機のひとつです。

 

 私の個人的な音楽体験を踏まえて、自分の思う音楽ストリーミングサービスの利点を並べてみました。アーティストとリスナーという構図の文脈から見れば、インターネットが登場して音楽の違法アップロードが続いていた中で、ストリーミングはその関係を是正するいいシステムだと思います。おそらくこの先も音楽体験は変化していくでしょうが、一度こうしたツールを通して音楽発掘の楽しさを覚えた人は、これからも音楽を探し続けるのかなあと思います。それはそれで豊かではないでしょうか。

必死さ

 私は自分も含めて、人の「必死さ」に恐怖を覚えることがある。何かをするのに必死な人には、あまり近づきたくなくなる。

 ただこの「必死さ」は、あくまでも自分がそう受け取るものであって、それを醸している当事者にとっては別に必死でもなんでもないのかもしれない。必死な人に対して「そんなに必死にならなくてもいいじゃん」と言い放つようなことは傲慢だと思う。けれど、そんなことは言わないしおくびにも出さないけれど、そう思っている自分はいる。

 同時に、過去の自分に対して「あのときの自分は必死だったな、こわ」と思うこともある。周りの状態を冷静に眺めることを忘れ、とにかく目の前のことだけに思考なしに反応するだけ。何かに執着しようとして、慌ててその何かを固持するだけ。

 自分もそういうときがあるからこそ、たまたま自分が冷静でいたときに、目の前にいる誰かが必死な状態でいると、余計それを気にして見てしまう。とりあえず落ち着いてからお話ししましょう、という気分になる。

 

 

 

 

 

 

 大学に入って初めて出会った友人の中で、いまだ自分の愚論に付き合ってくれる人がいるのだが、彼と1月の最終日、久しぶりに会った。「久しぶりに話そうか」と突然私がLINEを送りつけることができるくらいだから、私がどれだけ厚かましく彼を信頼しているかが分かるだろう。

 彼は私と同じく(少なくとも私が感じている中では私も彼も同類だ)、常に何かを考えずにはいられない人だ。それが日常生活に役に立とうが立たまいが。

 

 昼の2時から夜10時に至るまで延々と話してきたが、その中で彼は私にとても大事なことを教えてくれた。彼曰く、私はどうも、他人から「考え方」を与えられた際、すぐにそれを盲信してしまう癖があるという。例えば、占いの結果をかんたんに信用してしまうように。すぐに自分の核心に他人の考え方を寄せてしまうようだ。彼は自分の知っている情報を私に教えてくれるが、私がそれを真に受けてしまうのが非常に残念で、たまにその情報を与えることを躊躇してしまうそうだ。

 私は分からないものが怖い。正確には、分からないものと付き合わされるのが怖い。自分が分からないものがこの世界にはあるということは自覚しているつもりだけれど、それが自分と関わりを持ってくると、たちまちそれが怖くて仕方がなくなる。だから、それを理解するための考え方なり筋道のようなものに必死に食らいつこうとする。それが今の自分の探究心を育ててくれたのだが、いつまでも必死になって他人の意見を探していては、自分の意見なり筋道なりを見出せなくなる。彼は私のそういうきらいを危惧してくれたのかもしれない。

 それから私は、人と話しているときも、本を読んでいるときも、何か情報を得るときには、その情報を一歩引いてみるようにした。初めて会う人について、その人と既に会った人からその人の印象を聞かされても、「それはあくまでその人の感じ方、自分がどう感じるかは会ってみなきゃ分からない」と思うようになった。

 

 

 おかげで「必死」になることは少なくなったように思う。もちろん、新しい環境、新しい人、新しい情報が目の前にくれば必死になってしまうのだけど。そしてその必死さを楽しみにちょっくら知らない路地を横切る自分もいるのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 私は、自分や他人の「必死さ」に敏感に反応するアンテナ、そして「他人の意見」を真に受けて自分の意見と勘違いしないセンサーを搭載した。それから、自分がどうしても惹かれてしまう、「人間(=自分=自然)とは何か」という問いを追いかけることにした。このことについては拙文「自分の説明書」で述べたとおりだ。

 


 とはいえ、今はとにかく基礎知識をつける段階だと思っている。いや、段階というか、やっていることはそれくらいである。というわけで関連書籍を読みあさっているわけだが、こうやってブログに文章として今の自分の立ち位置を定期的に書いていかないと、ほろりと書籍を盲信してしまいそうになる自分がいるので書いているわけだ。

 今月号のMUSIC MAGAZINEのインタビューで、最近アルバム「Prisoner」をリリースしたRyan Adamsが「僕は自分の感情を落ち着かせるために音楽をやっているかもしれない」と言っていたが、彼にとっての音楽が私にとっての物書きだ。

 

 最後に、この類いの文章を書いていると、「どうかオレ、カルト宗教だけにはハマるんじゃないぞ」と自分を鼓舞したくなる。書いている文章を読むと、後からどうもクサく感じる。

 私はいかなる宗教にも属さないつもりでいる。多くの宗教で見られる「私たちは救われる!私たち以外は滅びる!イェーイ!私たち万歳!!」とか、「あの人は偉い。あなたも含めて私たちは偉くない。だからあの人を敬うのだ」いう雰囲気が嫌いなので。社会的には既に属しているけれど、気持ちの上では宗教に捕らわれることなく、むしろ宗教はじめ諸々に対し批判的な目を向けていきたい。ほーら、クサい。臭い臭い。

ブログとTwitterの使い分け

 夢で、絵本を作っていた。ちびっこの絵本作りを手伝うようなイベントのお兄さんをやっていて、私が物語の大まかな骨組み(プロット)を作っていた。私が担当していた子は、私がその骨組みを作っている間に、自分の好きなように物語を作っていた。骨組みを作り終えた後、その子の作った物語を見て驚いた。簡潔も簡潔だった。自分の作った物語の文章は、ひどく回りくどく、この子(小学生くらいだったと思う)には絶対に読んでもらえないだろうと思えるものだった。

 このブログのもそうだが、私の文章は冗長だと自覚している。書こうと思えば短く簡潔に書けることを、ただ長くしているようだと感じることもある。

 しかし、短く簡潔に書く練習は140字しか書けないTwitterで充分だ。どうあがいても140字単位でしか文章を投稿できないあの環境は、常に文章を短くせよと自分に圧力をかけてくる。このブログでは、Twitterでは「言葉の裏を読んでくださいませ」という部分も文章化してみようと思う。言葉の裏は、なかなか残りにくいものだから。

健康でいる必要

 最近、自分の家族や親戚のほとんどが元喫煙者だということを知って驚愕した。幼いときに喫煙反対派の祖母からネチネチ言われていたことを真に受けて、自分の血縁にはたばこを吸っている人などいないと思っていた。確かに伯父さんなんかは吸ってそうだったけれど。

 私の父親も(家族・親戚の中で一番意外だった!)実は超ヘビースモーカーで、1日1箱吸っていた時期もあるという。それが独身時代、ちょうど高度経済成長期に東京で何年か働いていたときだったようで、なんとも東京という街は素晴らしいが歪な形をした都市だという思いがした。

 そういった家庭事情は全く関係ないと思うが、私も一応、喫煙者である。1ヶ月半くらいで1箱を吸う、にわかスモーカーといったところか。ニコチンの覚醒作用はよく働くが、都合のいいことに依存作用は全く働いていないので、それこそ「いつでもやめられる」状態だ(一度もたばこを吸ったことのない方の中には、この言葉が信じられない方がほとんどだと思うが、実際に私以外にも何人かこのタイプの喫煙者を知っているから、そういう人種もいるようだ)。

 

 さて、たばこの話になると、「健康」という話題がつきまとってくる。たばこは健康に悪い。自明である。だが私はこう思う。そんなに私は、私たち人間という動物は、健康でなければならないのだろうか。

 

 今の時代は健康ブームだ、といってもいいだろう。このブームは特にふわっふわのIT産業との相性がよろしいらしく、腕にバンドをつけてイヤホンにランニングをさせられている方々をよく見かける。

 しかしこれほどまでにあらゆる産業、業界、広告が「健康!健康!」と叫び出すと、やはり私は違和感を覚える。「あったかい家が待っている」とガス会社がガス利用を促進するプロパガンダのように。「子どもには安心安全な食べ物を」と「オーガニック」「無農薬」のラベルをつけた食物を販売するプロパガンダのように。

 悲観的に過ぎるという意見もあるかもしれないが、やはり、私は、私たち人間という動物は、健康でなければならないのだろうか。不健康であることはいけないことなのだろうか。

 

 はじめにその疑問を抱いたのは、母親が「もう私はいつ死んでもいい」と言い出したことである。ふだんなら「何かあったの?」と気にするのだが、けっこう真面目な顔をして言うので、どうやらきちんとした考えがあるらしい。曰く、「私は自分の子も育て終わったし、とにかく老人ホームで自分の身の回りの始末もできなくなってまで生きていたくない」と。母親は昔から他人との距離感に敏感な質で、自分のテリトリーに勝手に侵入されることを非常に嫌う。それを踏まえれば確かになあと思う。

 だから、母親は1日1缶のビールをやめない。なんてことを言いながら、「暇だから」と最近スポーツジムに通うようになった。だから私はそんなことを言い出したことについて心配はしていない。

 この話を聞いたときに、「健康」という指針が自分をかなり拘束していたことに気づいた。長生きすることだけがいいことじゃあない、と思った。

 

 当たり前の話だが、健康に気を遣っている人、長生きをしたいと思っている人、または今の病気を治したいと思っている人はたくさんいることは知っている。そんな人に、「健康ばっか気にしてちゃダメダメ」なんてことを言うのは阿呆である。しかし、一概に「全人類は健康であるべきだ」と思っちゃってる私は不思議だなあと思ったのである。

 

 たばこに限らず、世の中にはいろんな「体に悪いもの」がある。「炭水化物が人類を滅ぼす」という本が出てからは、日本でも「糖分」ですら体に悪い、という論調が流行りだした。コンビニ弁当は食べてはいけない、スーパーの肉は危険だ、と言われることもある。

 確かにそれらは様々な理由から、科学的には体に悪いのかもしれない。しかし、一時の快楽を得られることもなく、「安全だから」「体にいいから」という理由で強制的に食事を取らされるのはたまったものではない。

 

 なぜ人は健康を尊ぶのだろう。私は大病にかかったことはあるが、特に五体満足である。だからこそそんな疑問が持てるんだ、とも思う。しかしその意見を聞いても、やはり私は疑問に思ってしまう。そもそも、「健康」という概念が不思議なのである。まるで、どこかに理想の「健康な人」がいるようではないか。その尺度は、何をもって計られるのか。

 私がどこに違和感を覚えているのかと言えば、その「理想の健康な人」という概念と、あともうひとつ、「不健康な人は(すぐさま)健康になるべきだ」というなんとなく漂う風潮である。

 個々人が健康であることを望んでいるならまだしも、そもそも自分が健康であるか不健康であるか全く関心がない人もいる。その人に「あなたは不健康です」と言って健康になることを勧めるのはどうなのだろう。

 

 そんなことを言う私は、やっぱりこの毎日が続いてほしいとまだ思えているから、適当に健康に気を遣っているのだけれど。

自分の説明書

 今回は久々に自分についてのお話です。

 

 私が究極的にやりたいことといえば、自分を含めた人はじめ動物や自然の理をすべて理解することにあると思います。当然それは実現不可能ですが、そこに近づけたときに、一般的な「楽しい」ときに感じるもの以外の快感を覚えます。知識欲が満たされるときの快感ともいえます。

 なぜそんなことを知りたいのかについて。なんでそんな「理」を知りたいのだろうか。そのはじまり、きっかけのようなものは私の人生にあったのかしら、と思い、過去の記憶を漁ってみました。

 特に強く、「他人が何を考えているのかを知りたい」と思ったのは、やはりいじめに遭ったときでした。自分をいじめている子が何を考えているのか、それが中学校を卒業するあたりまで、ずっと私の「学ぶこと」に対する意味づけでした。そのときの私にとって、「学ぶこと」というのは、他人が何を考えているのかが分かるようになること、即ち占いや心理学でした。当たり前ですがそんなものが単独の理論で説明できるはずがなく、何度も何度も「きっとこうだ!」という一概な理論にすがりついて自分を慰めてきたわけです。これが今の私の知識欲に繋がっていると思います。

 具体的なことを晒しますが、当時私はクラス全員の友人の名前をExcelで表にし、誰が自分の味方であるのか、敵であるのか、なぜそうなのか、私が何をしたのか、味方から敵あるいは敵から味方に変わったのはいつでなぜか、などなどを逐一メモしておりました。中学の頃には、そういった蓄積を分析・分類し、こういった体型や目をしている人はこういう人で、味方になる可能性が高いか敵になる可能性が高いかを予測していました。

 そこまで行ったところで、ある日その分類メモを自分の席の引き出しに入れて帰宅し、翌朝学校に来たらすべてペンで塗りつぶされおり、大人の字で「見たけど君って ひどいんだね 見損なったよ」というメッセージが書かれていました。

 今考えると恐ろしい限りですが、当時はこうでもしないと学校の中で安心できなかったんだと思います。誰がどういう人なのか、つまりは自分に攻撃を仕掛けてくるのかこないかを早く知る必要があったんです。

 今はといえば、こういった「こういう人はこうである」という基準をいったん客観的に見つめる技術を会得したため、極端にひとつの基準を思い込むことは少なくなったように思います。むしろ、そういった基準、理論を多く、深く知ることに快感を覚えるようになりました。しかし考えてみれば、自分が「学ぶ」ということに対して少しでも誠実になろうと思えたきっかけは、ものすごく乱暴で攻撃的な目的から始まっていたんですね。

 

 これは「平和」や「平等」という概念が生み出される過程と似ているような気がします。「全人類が平和でありますように」「すべての人が平等な社会を目指す」という言葉に代表されるように、この言葉は「平和でない(not平和)」「平等でない(not平等)」ときに生み出されたものです。本当に平和な社会に住んでいれば、「平和」なんて言葉は生まれなかったはずです。当たり前のことは、人間の意識には上らないのですから。

 

 抽象的な話にしますが、人間に限らず生物が進化するためには、一般的に私たちの考えるマイナスの出来事が必要になると思います。長期的な進化においても、短期的な、個人的な成長においても。厳しい環境においたトマトの方が甘くなりますし、今生き残っている生物は地球のあらゆる場所で起こった気候変動に耐えられたから生き残っています。

 なんてなことを言いますが、だからといって自ら苦行に取り組もうなどとストイックになる気は毛頭ありません。楽になりたい、安心したいという純粋な欲望があってこそ苦行に取り組むことができると思うので。

 

 

 その自分のはじまりを見つけたとき、少しだけ自分がやるべきことが見えたような気がしました。私が注目すべきは人類学です。人類学(自然人類学、文化人類学に大まかに分けられる)がどんな学問なのかは私もあまり分かっていないので説明を割愛します。人類学という視点からいろんな学問を見てみると、個人的にはそそる学問が多いように見えます。人間が生み出す「文化」の様態にはどんなものがあるのか(文化人類学)の理由を探るためには、そもそも人間とはどういう動物なのか(自然人類学)を知る必要があります。そう考えると、人類学は理想の体系をしているなあ、と。

 

 

 ときたま自分の所属している「キャリアデザイン学部」の言う、「キャリアデザイン学」が何を目的としているのか、よく分からなくなることがあります。キャリアデザインという概念自体、日本では平成になってから活発に使われだしたようなので、よく分からないもので当たり前と言えば当たり前なのですが。

 学部のホームページを見ると、

 

法政大学キャリアデザイン学部は、このような社会の急激な変化に力強く、かつ柔軟に対応するために、自ら学び、考え、行動できる自立/自律的な人を育てています。同時にまた、そのような自立/自律的な生き方を求めている人たちを支援できる「人の専門家」を育てることを目ざしています。

(キャリアデザイン学部とは | 法政大学キャリアデザイン学部より引用)

 

とあります。

 ここで書かれている「人の専門家」という文字に、入学当初私はとても興味を惹かれました。その理由が今になって分かったように思います。

 

 

 またひとつ、自分がどういう人間かを捉える枠組みを得ました、というご報告でございました。