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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

現れた責任と失われた期待

 年の瀬、この一年で自分はどう変化したのだろうと思う。そうやって無理矢理「今年一年頑張ったね」的なこと自分に言い聞かすのそろそろやめたら? という皮肉アンテナが働くが無視する。

 

 今年一年で得たもの、「責任」。今年一年で失ったもの、「期待」。

 

 まず「責任」。これを感じずにはいられなかった。自分が犯した過ちに対する責任ももちろんあるが、それ以上に、英語で言うところのResoponsibility(Responseできる状態にあること)さえあれば何でもできるんだなと気づいた。責任と聞くと、責めを受ける任を負う、というなんだか重い罰でも受けるような気がするが、Responsibilityなら分かりやすい。要は、自分がしたことについて、していることについて、する予定のことについて、ちゃんといつでもResponse(返事)ができる状態にあればよいのである。それが「責任を果たす」ということ。誰からもResponseが来ることがなくても、いつ来てもいいという気持ちでいること。これが責任感。

 このResponsibilityを持って仕事だったり制作だったりをすると、結果が予想外にいいものになった。反対にそうでなければ、「自分がしなくてもいい」気がしてあまり身が入らなかった。タイムカードを打って終わったことにすれば、責任は一切持たずに済んだ。でもこれは自分の仕事ではないなと感じた。

 

 自己肯定感(肯定だけ?)とか、やりがい(のどごし的な?)とか、本当の自分(偽りの自分って何?)とか、そういったふわふわしてものを探したり身につけようとしたりすることに対して違和感を覚えた。それは神様がどこにいるのかを探すようで、ひどく浮き世離れしているような気がした。

 今年はこういう言葉から距離を置いた。「んなもんあるわけねえだろ」を前提にした。そして、「地に足を付ける」というのを意識した。地に足を付ける、って、どういうことをいうんだろう。地に足の付いた食事、地に足の付いた会話、地に足の付いた動き、地に足の付いた恋愛。ちょっと意識してやってみるだけで、これは地に足付くわけないな、というものと、これなら地に足付けられる、というものがなんとなく分かった(人間関係系統、要は「別の意志」が絡むものは絶対に足が付かない)。

 地に足を付けるというのは、落ち着くということではない。前衛的なことを諦めるということでもない。ただ、何をするにしても、しっかり地に足を付けて行動するというだけだ。他人の気持ちなどまずは思いやらなくていいから、とにかく筋は通す。このブログでも過去に批判を受けたが、他人の気持ちが分かるわけがない。気持ちが分かったと思っても、それは100%自分の思い込みである。その思い込みが他人の気持ちだと思うこと自体「思い上がってる」、という考え方を聞いた。でもとにかく、少なくとも自分がしていること、したことについて責任を持つ。自分がしていること、したことを理解しておく。そして、何か問われたときに何らかのResponseができる状態にしておく。それが地に足を付けるということ。

 

 考えてみれば、この地に足を付けるという感覚が、責任感だった。昔教師に「お前は責任感がない」と言われ、かっこ付きの責任感なるものを探しに行ったこともあったが、当然の如く見つけられなかった。責任感は、自分や世界について理解しようと努力することから生まれるのかもしれない。しっかり理解していれば、何らかのResponseができるはずだからだ。理解できていなくても、理解しようと努力していれば、それを自分が理解できていないことも分かる。そしてそれをResponseできる。

 責任感がなくともResponseはできるが、Responseに責任感があると人に感じてもらえれば、自分のできることが増える。書けることが増える。言えることが増える。ある学問を学べば、その学問の議論に参加することができる。私は知らない人のこと、知らないもののことを怖がり嫌悪しがちだが、それは自分がその人やもののことを知らないからだと分かれば、全く怖くない。知っていれば、Responseすることができる。それがResponsibility(責任感)。

 

 

 そしてそれに伴い失ったもの、「期待」。自分に対しても他人に対しても自然に対しても、すべてに対して期待をすることをやめた。意識的にというより、自然にやめていた。期待こそ、思い上がり(信じること)から生まれるものだ。「きっとやってくれるはず」という思いには、何の理由も保証もない。

 でも、子どもに対する期待とか、そういう愛おしいものに対する期待は思い上がりなんかじゃない。確かにそうだ。その期待と私が失った期待は異なる。子どもが幸せになってほしいと期待するのは万国共通の人情だと思いたい。でも、そう思って育てた子どもが幸せにならなかったら。もしそうだとしても、決してその子を見捨てたり責めたりしない。それが私の言いたい「期待」をしないということだ。

 「こうなるはずだ」と思っていて、そうならなかった。原因が何であれ、そうならなかったのは事実なのだから、「どうしてこうならなかったのか」を考えたり責めたりすることはお門違いである。過去に怒ったすべての物事に、理由はあるが、意味はない。「こうなるはずだ」と思うことはあるだろうが、そうならなかったときに怒ったりイライラしたりするのはなんだか違う気がするなあ、と思うようになった。

 「期待」という言葉を分けた方がいいのかもしれないが、語彙がない。

 

 「いい人なんかほとんどいないよ。みんなクズ野郎だよ」と言い放つ社会人と出会った。「ああ、そういうお前がクズ野郎ってことに自分が気づいてないいつものパターンかな」と初めは思った。しかしこの人は違った。自分もみんなと同じクズ野郎だと自覚していた。

 自分も含めて、みんなクズ野郎だと思っている。クズ野郎には期待しない。これは、イライラしたりヘコんだりしないためのひとつの作戦だなと思った。「みんなクズ野郎なんだから」と思っていると、目の前の出来事がすべてやんわりとしたものになる。盲信することもなくなる。みんなクズ野郎なのだから、立場は「常に対等」である。ここがとても好きだ。

 少し話が逸れるが、私はかねてから、日常会話での敬語廃止論者である(もちろん社交として普段は敬語を使っている)。なぜ年上に敬語を使わなければならないのか分からないし、そもそも「年上だから」という理由だけで即敬うべき存在になるという儒教の発想の意味が分からない。「年上だから自分よりすごいことしてそう」という発想は思い上がり、盲信である。そうではなくて、みんな対等にタメ口で話すことができたらな、と本当に思う。友人はもちろん、教師にも、お店の店員にも、偉そうな人にも、通りすがりの人にも。

 期待をしないということは、立場を対等にするということでもある。

 

 

 とはいえ、この文章が地に足の付いた文章なのかは自分では分からないし、読んでくれている人が私の成長なり私の文章力(?)の成長なりを感じられているのかは分からない。感じていただけたらと願うばかりで、それは僕にはどうにもできないことだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生と死、それを媒介する「別の意志」の存在について

 人間は体のいろいろな機能を退化させてきた。爪を短くし、耳もコンパクトにし、瞬発力も体毛もなくしていった。そしてその分の労力を、人間同士でコミュニケーションを取ることに注いだ。そのために言葉を話し、言葉を記録した。一緒に大きな動物を狩るために、いつでもリズムを合わせられるように音楽を奏でた。自分が持っていない能力を持っている人と協力したり、自分が持っている能力同士で競い合い、その能力を高めていった。そんな人間がひとりで暮らすという状態は、死に例えられるかもしれないと思った。ひとりで暮らしていくと決意した人でなくとも、誰でもひとりになる時間はあるだろう。どれだけ忙しい人でも。

 人間の私は社会的動物だ。人と会っているとき、あるいは人の作った作品を使ったり見たり聞いたりしているとき、つまり人と関わっているとき以外の状態を死と例えるなら、私が生きているのは人と関わっているときのみになる。人と関わっているときに生を感じ、ひとりでいるときに死を感じる。

 だからこそ、死を感じている状態で自分の周りの世界を見ると、自分の気持ちやその世界の気持ちに敏感になることができる。そしてそれに従順になる。自分や世界の気持ちを感じることは、心臓の鼓動や胃の消化などと同じで、自分では止めることのできない不随意運動だ。まるで別の意志が働いているかのように、私は死の状態において敏感になる。死という状態で私がしていることは、この「別の意志」との対話である。この「別の意志」は、生という状態では多くの場合無視されてしまう。目に見えない「別の意志」よりも、目に見える明瞭な「別の意志」(=他人)の方が話しやすいからだ。

 

 おそらく、今よりも前の時代に遡れば遡るほど、その時代に住む人は他人に会うのに苦労したはずだ。通信手段はない、交通手段もない、他人と関わる方法自体を自分で切り開いていく必要があった。そしてその代わりに、「邂逅」の機会が多くあっただろうと思う。その時代に住む人に比べれば、今の時代は、何もせずとも他人の方から関わってくる。多くの場合それは経済的理由である。あなたでなくとも、誰でもいいから関わりたい、という人や団体が増えた。

 そう考えると、前の時代に住んでいた人は生に対する欲求が高かったのだと思う。確かに何もせずとも他人が自分に会いに来ることは当然あっただろう。しかし自分も同じように会いに行かなければ、社会階層などの要因がなければ誰もから忘れ去られてしまう。それでは死の状態が長すぎてしまう。しかし今の時代はその真逆で、死に対する欲求が高いように思う。都心など他人の多いところは特にそうで、ひとりの時間を豊かにしてくれるサービス(ネットカフェ、イヤホン/ヘッドホン、)が急激に増え、死の状態をなんなく過ごすのに苦労しないようになった(しかし先ほど申し上げたように、死の状態とは人と関わらない、人が作ったものにも関わらない状態を指すことにしているため、正確にはこれらのサービスを用いて享受する死は幻である。死には、いかなる他人も関わらないものだ)。

 その原因は、文字という「記録」媒体である。この文字が生まれた当初は、人と時空を超えて関わる目的で使用されていた(書簡、置き手紙、記録など)。しかし、今度はこの文字が独自の世界を持つようになり、世界が文字を中心に回りだした。自分が行ったことのない山の向こうにぶどうがたくさんある、という文字を見た人同士がそれを共通認識(常識)として扱うようになった。ただ文字でしか見ていない、信用するに足りない情報のはずなのに。現代、このことは当たり前になり、共通認識を持たない者は会話するのにも苦労するようになった。

 文字は初めて人類に「仮想世界」を与えた。その仮想世界をもっと立派な宮殿にするべく、音声記録媒体や映像記録媒体をはじめ、さまざまな仮想世界の主人公(媒体)が乱立することになった。

 話が逸れたが、そのようにして今の時代に、死の状態を体験することは非常に難しくなった。これが死の状態だと思っても、それは他人の世界の中(=生の状態)かもしれないからだ。

 

 しかしいつの時代にもある、誰にも奪うことのできない、死の状態への入り口となる行為がある。それが「つくる」ということだ。何かを「つくる」とき、私は必ず死ななければならない。自分の意見や思っていること、空想などを、今まさに私がしているように自分の外の道具(文字)にするとき、私は必ず自分の中の「別の意志」と対話しなくてはならない。そうでなければ、私は何も書くことができない。

 死の状態への「入り口」と書いたのは、何かを「つくる」ためには自分の中の「別の意志」との対話と同時に、他人との対話(生の状態)も必要だからだ。何かを「つくる」ためには道具が必要だ。今の私の場合、「日本語」という道具が必要である。日本語と対話しながら、自分の中の「別の意志」との対話を日本語に翻訳していく。だから「つくる」ということはあくまで「入り口」なのである。

 もちろん共同作業で何かを「つくる」こともあるだろう。それを「つくる」環境には他人が存在する。しかしその場合でも、目の前の作業をするためには自分が死ぬ必要がある。死を以て自分の中の「別の意志」と対話し、それを他人と共有することが共同作業である。

 

 ここまで読んでふと考えると、どうも「人間中心主義(ヒューマニズム)」に過ぎるなあと感じるかもしれない。この考え方(私のフィルター)を通して世界を見ると、その世界は自然を排除しているように見えるかもしれない。

 しかし忘れないでほしい。「私」という存在自体が自然なのである。「私」の中には「私」ではないものが含まれている。「私」でないものによって「私」が形成されているといってもいいだろう。なぜなら「私」は他人によって作られたものだからだ。自然はどこか遠くにあるものではなく、極めて内在的なものだ。自然の風景を見て心癒やされる体験をするのは、普段他人が作った作品ばかりを見ていたところにそれが登場し、自分の中の自然を思い出すからだ。そして当然、この自分の中の自然というのが、先から出ている自分の中の「別の意志」なのである。

 

 本来私は、ひとりでは生きていくことができない。だからひとりでいる状態は死の状態なのである。しかし、死を感じなければ生を感じることもない。もちろん生を感じなくとも、生を意識しなくとも、生きることはできる。しかし自らの生に疑問を感じ、悩み、ふさぎ込んでしまったとき、死を感じてみれば新しく生を感じ、新しく生き始めることはできる。

 疑問を感じないで生きた方がよいのか、それとも死を感じ生を感じながら生きた方がよいのかは分からないし、そのふたつに評価を下すことはできない。しかし、前者は後者の存在を知らないが、後者は前者の存在を知っていることは明らかだ。生は死を知らない。死は生を知っている。死を知っている生は、そのうちに死を秘めている。生と死は決して混ざらない。このふたつは陰陽太極図のように回り続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしたって苦手な人

 どうしても苦手な人っているもので。特に何か嫌なことをされたとか、逆に自分が何かをしたとか、そういったことも全くないのに、すごい苦手な人。申し訳ない、本当に申し訳ない、全部オレのせいなんだが、どうしても苦手なんだ。と心の中で叫んでいる。

 

 昔苦手だった人に似ているからかと思い、過去に苦手だった人を思い返して似ているか比較してみるも、どうもそういうことではない。

 嫌よ嫌よも…とも言うから、もしかしたら好きな気持ちの裏返しか? と思い、おお、確かにそうかも! と盛り上がるが、まだ、その苦手な人を自分は本当は好きなんだと自分を納得させるには早すぎる。し、無理。受け入れられない。

 

 そういえば、「苦手な人」と「嫌いな人」は、自分の中で意味が違う。うまく説明するのは今は無理だが、「嫌いな人」というのは、自分に人を殺める勇気があれば即殺したい人もしくは自分が自由にその人のいる場所を出て行けるのなら即出て行きたい級の人である。要は「とりあえず目の前から消えてくれ」「会わないなら会わないでいい」という人だ。それに対し、「苦手な人」というのが複雑で、会わないと寂しいというか、何か違う気がするが、会っている間はずーっと違和感が自分の中にはびこっている状態をもたらす人である。

 もし嫌よ嫌よも…と言うのなら、僕の場合はその人は「嫌い」なのではなく「苦手」、なのかもしれない。

 

 さきほど「嫌いな人」の説明でだいぶ荒ぶる表現をしてみたが、とりあえず現段階で僕の「嫌いな人」は5人にも満たないので大丈夫(何がだ)。

 

 自分の苦手な人に対しては、本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。これに関しては「オレはお前が苦手だー!」とは言えないし、言う必要もない。僕がなんとかすればいい。苦手だと感じてしまう人とどう折り合いをつけるのか考えればいい。だから、折り合いがつくまでは待っていてほしい。とかなんとか思い始めて、かれこれ20年が経とうとしています。

※100%自分のための備忘録です。この記事は特に。

 

 「何かをはじめようとするとき、何からはじめていますか。」

 夢を持たないための呪文のようなものです。

 新しい挑戦をしようとするとき、ついついこれまで属していた環境をすべて無視したり、成し遂げた先にあるものの皮算用を始めてしまいがちです。

 でも、「挑戦するぞ!」と粋がるエネルギーがあるのなら、今の環境で、全く変わらない今の環境でできることをはじめた方がいいんですよね。

 完全同意していますので、石黒浩さんの意見を引用させていただきます。

 私の好きな(片思い)方のひとりです。

 

 

 

 「オレは絶対NYに行って成功してやるんだ!」と豪語する野心家。最近はあまり見かけなくなりましたが、亜種・ワナビーは未だに大量発生していますね。

 

 いきなり自分の環境をガラリと変えて、新しい環境に飛び込もうとすること。さまざまなきれいな物語にされて、消費情報として大量頒布されていますが、そのきれいな物語の汚い部分を2つ書きます。

 

 まず、それまでの自分の環境から突如ドロンする失礼さ、無謀さ。自分を育ててくれた環境、環境で広すぎるならば人でもいいでしょう。全員に自分の気持ちを説明する必要はないけれど、少なくとも絶対に説明して応援してもらうべき人、環境はいる/あるはずです。

 例えば日本に生まれてどっぷり日本の文化に浸かっていた日本人が、とある国の民族音楽を歌っても、それはとある国の民族音楽ではなく、「日本人の歌う」とある国の民族音楽です。これは事実で、ここには何の思想もありません。

 あなたが子どもで、母親がいたとします。8つのとき母親が突如失踪してしまい、別人の母親がやってきたとします。子どもはその母親を母親と認めるのに、多かれ少なかれ時間を要するはずです。「いや、母親の愛情さえあればそんなことはない!」と言い切れることは絶対にないでしょう。

 自分を突然変化させることはできません。明日から自分は上野のパンダの息子です! とはなりません。過去、今、未来は地続きであって、「自分は変われた」と思い込んでいたとしても、いつか過去の自分はちらちら見えてきます。

 

 もうひとつは、「なめんなよ」という話です。例えばあなたがプロのカメラマンだったとして、ある日あなたの勤めている事務所に、突然若者がやってきてこう言います。「オレをカメラマンにしてください!」アポ無しで飛び込んでくるとは何とも無礼な話ですが、その熱意に感動したとしてそれを許したとしましょう。「で、君はどんな写真や動画を撮っているのか、見せてくれないか」「いえ! まだ写真や動画は撮っていません! カメラ触ったこともありません! だから一からご指導ご鞭撻いただきたいのです! お願いします!」

 おそらく「カメラマンなめんなよ」と思うと思います。少なくともあなたは学校に通ったり自分で勉強したりして写真や動画の撮り方を学び、たくさんの実戦経験を積んでプロのカメラマンになっているのに、そのノウハウを一から教えろと言われたら。

 何事も順番というものがあります。その順番をこなすスピード、やり方はひとそれぞれで、工夫のしがいもあるでしょう。それでも、いきなり順番をすっ飛ばしてぽーんと自分が変わるなんてことはありません。

 

 やりたいことがあるというのは幸せな話です。やりたいことが分からないという人がほとんどなのだから。だからこそ、やりたいことをできることからやり始めればいいんです。ずっと同じことをやっていても成長がないのは確かですが、それはその同じことをやってからの話です。

 

 「何からはじめていますか。」

 

 

 

 

▼とりあえずはじめろよ

 

"ラクダのラッパ" 森山直太朗

"NOW" Charisma.com

"四月になれば" 森山直太朗

"やってるか [ska remix]" 竹原ピストル

"Sad Machine" Porter Robinson

 

 

 

 

 

見栄張るな

 「見栄張るな」「かっこつけるな」「目を覚ませ」。話し相手の言葉尻になんとなくクサい感じがしたときにポロッと出る言葉ですね。これが私にとって、一番怖い言葉です。

 

 なぜって、「今の自分」を完全否定されたように感じるから。私の場合、こう言われると「うっ…」と黙り込んでしまいます。この言葉の含意は、「今のお前は着飾ってるぜ、素の自分を出せよ」ということです。「素の自分」を探そうとして黙り込んでしまうのです。

 「素の自分」って、考えて出るものでしょうか。

 

 アンジャッシュ児嶋一哉さんのピンネタに「待ち合わせ」というものがあります。デートの待ち合わせの場所で、児島さんが彼女を待っているという設定です。

 

 

 自分をかっこよく見せるためにポーズを模索していた児島さんは、いつの間にか「自分の普通が分からなく」なってしまいます。「自分の普通」を意識すればするほど、「自分の普通」が分からなくなること、本当によくありますよね。

 「自分の普通」を意識しながら何かをすることは、自分のことをじっと近くで見ている人がいる前で何かをすることと同じです。なんとなく落ち着かなくなってしまう状態。普通にやっていることをより普通にやろうとするから、結局普通ではなくなるのです。

 

 これと似たような現象として、「人間らしく」作られたロボットが人間らしくならない現象が挙げられます。大阪大学石黒浩教授が中心となって制作されたジェミノイドというアンドロイドがありますね。このロボットは、本当に人間によく似ています。しかし、私たち人間にはそれがロボットだと分かってしまいます。

 

 

 「人間らしく」作ったロボットが、実は人間らしく見えない。この現象は石黒教授も著書の中で存在を認めていらっしゃいます。

 他にも、落語家はそばをすする所作をするとき、そばをつかんだ箸を額のあたりまで上げてからすすり出すそうです。これも、本当にいつも自分がしている所作をそのまま演じてしまっては、リアリティーに欠けるためです。

 

 

 確かに、「見栄を張るな」と言われただいぶ後にそのときの自分を省みてみると、「ああ確かに見栄を張っていたなあ」と思うこともあります。もっとちゃんと話を聞けばよかった、もっと正確に自分の思っていることを言えばよかった、と思うこともあります。なぜ今になって、そんなことを思いつくのだろう、と。

 けれど、そのときの自分にはその行動をとることしかできなかったと思うのです。別にその行動をとることを選んだわけではないし、選んだ自覚もないのだけれど、そういう行動しかそのときの自分には「できなかった」はずなのです。

 

 だから、「見栄張るな」と言われたときには、何も考えない方が得策ではないかと思うのです。もしかしたらその人には、自分が見栄を張っているように見えてしまっているけれど、自分は何も考えずにそれをやっていることもあるからです。「見栄張るな」と言われて「見栄を張っていない自分」を瞬時に見つけ出すことは不可能です。そのことばに捕らわれるより、とりあえず適当にその場をごまかしておいて、話を続けた方がいいと思うのです。

 

 というのも、つい最近まで「見栄張るな」「かっこつけるな」「目を覚ませ」と言われたときに「見栄を張っていない自分」「かっこつけていない自分」「目を覚ました自分」を模索してしまう癖があったからこそなのですが。

 自分は絶対に変わりません。というのが私の結論です。