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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

まじめおばけミッケ

 

 

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 この世で一番、扱いづらいもの。どんな人でも、その時が来れば自然と取り憑かれてしまうもの。取り憑かれると、いろんなことが気になってしまい、人によってはイライラが収まらなくなったり、鬱々とした気分になってしまったり、泣き出してしまったりしてしまいます。そうやって感情が爆発しさえすれば、スッキリしてそれで終わり、というケースもあるけれど、普段からあまり感情を表に出さないようにしていると、そういう状態が一週間、一ヶ月、一年と長い間続いてしまう。しかも取り憑く人によって、形も性格も手段も違うもの。

 

 それがまじめおばけです。

 まあ、これから書くファンタジー小説の設定を、文章を書きながら考えていると思ってください(まじめに読まないでください)。

 

 このおばけに取り憑かれると、例えば久しぶりの友だちを見つけたとき、声をかけるかかけないかでものすごく迷うようになります。声をかけたくない、そういう気分でないのならかけなければいいし、声をかけて久しぶりの話に花を咲かせるのもいいでしょう。でも、どちらか決める前にどちらの場合も考えてしまいます。かなり隅々まで。ときには「あっちが声をかけてきたなら話をしよう」なんてことも考えます。「あっち」は声をかけてくれないだろうと思いながら。

 また、声をかけたらかけたで、今度はどうしたら「スマートに」「この場に合うように」話をすることができるのかを常に考えます。自分から話題を振ることはありません。なぜなら、それが「適切な」話題なのかが分からず、それが分からない自分を責めている間に会話が終わってしまうからです。4,5人で話しているときはなおさらです。自分以外のひとで話が進んでいるようなら、それを聞いて楽しむことに徹します。
 さらに、いつも何をしていてもそれに熱中することができなくなってしまいます。映画を見ていても、友だちとだらだら、ひとりでだらだらしていても、遠くへ出かけていても、勉強していても、常に「こんなことをしていていいのだろうか」と気にかけます。この時間で、もっと他のことがいろいろできたのではないかと、自分の今と過去の時間の使い方を責めます。一時も家を出なかったことを、目の前の友だちに生返事を返させてしまったことをを嘆きます。

 

 どうです? 思い上がったヤツでしょう?

 それがまじめおばけに取り憑かれた状態の私です。

 

 そのときそのときに思い浮かべる「ベストの自分」に自分をいじめさせます。そうして自分を過大評価します。「なぜこれができないんだろう?」という一見反省しているように見える疑問を持ちながら、「本当は私はもっとできるはずなのに」と思っています。または、「本当に私はできないヤツだ」と決め込みます。とりあえず、自分はできるヤツなのかできないヤツなのか、そればかりを考えています。

 少しでも暇になると、まじめおばけは私に取り憑こうとします。今の時間、もっと楽しくベタベタしているカップルがいるぞとか、もっとしっかり技術を身につけて頑張っているヤツがいるぞと言ってきます。

 

 

 「今、この人にはまじめおばけが憑いてるんだな」と思うと、なんだかその人がかわいく思えてきます。「なんでこの人はこんなことで怒ってるんだろう?」とか、「なんでこの人はこんなに冷たいことを言うんだろう?」とか。「あ、今自分にまじめおばけが憑いてる」と思うと、少し楽になったりします。

 あたりまえですが、決めつけはよくありません。でも、「おばけ」だから何でもありなんです。とりあえず、自分が落ち着ければそれでいいんです。だから「あんた、まじめおばけ憑いてるぞ」なんて言う必要はないんです。

 

 「まじめ」とは、今ある形と自分の思っている「ベストの形」が異なるときに、今ある形を一生懸命「ベストの形」に近づけようとする様子です(という意味で使っています)。語源としては、「まじめ」という言葉は「まじろぐ」という言葉から来ているそうです。「まじまじ見る」という言葉がありますが、その「まじまじ」は「まじろぐ」が形容詞になったものです。「たじろぐ」が「たじたじ」になったりするように。「ベストの形」をまじまじ見て、それに近づこうとする。

 「まじめ」自体はいいことでも悪いことでもありません。ただのおばけです。使いどころによって、それがいいことになったり悪いことになったりするんです。掃除をするときは「まじめ」であることにこしたことはありませんが、必要以上の「まじめ」はただ自分が辛くなるだけです。

 

 ただ、今はどうもこの「まじめおばけ」の扱いが自分にはよく分かっていません。突然やってきます。やってきたときは気づかないで、追いやったときにやっと「ああ、まじめおばけに憑かれてた」と気づきます。

 どうしたっちゃこいつはやってくるので、頑張ってうまい使い方を「まじめ」に見つけていこうと思います。か、放置するかだな。

記憶に残るのは悲しい方

 嬉しい、楽しい、気持ちが良い、快い、俗に言うプラスの感情を伴う物語は似たり寄ったりで、悲しい、辛い、気持ちが悪い、妬ましい、羨ましい、つまらない、退屈な、皮肉な、俗に言うマイナスの感情を伴う物語はそれぞれ違う。多様性至上ではないけれど、私が「おもしろい」と感じるのは、断然後者。「他人の不幸は蜜の味」と言うし、少林寺拳法で出会った私の師範は「お前の不幸は俺の幸せ、お前の涙は俺の栄養」と言っていた。なんちゅうやっちゃ、と思っていたけれど、自分もそうだった。

 実際、ドラマや映画、とにかく「物語」という看板を掲げて繰り広げられる珍道中のほとんどは、プラスもマイナスもない平坦な時間に、突如マイナスが訪れ、それを克服してプラスに持っていったりその結果マイナスに戻ったりする。日常生活をただ映すだけのドラマに興味を抱く人はなかなか少ない、そんな内容のドラマがヒットしたことは未だかつてない。

 少なくとも、私にはそのように見える。

 

 「プラスの感情を伴う物語『は似たり寄ったり』、マイナスの感情を伴う物語『はそれぞれ違う』。」この構造が当てはまるものがもうひとつある。新しいものと古いものである。「新しいもののもたらす物語『は似たり寄ったり』、古いもののもたらす物語『はそれぞれ違う』。」

 今、というより、その時代その時代に生きていた人々にとっての「今」は、いつだって激変の時代である。今はそれが空間を超えて、可視化されやすくなっただけだ。その時代その時代に生きていた人々にとっての「今」、つまり歴史は、多種多様である。日本の歴史でさえ、数十種類の時代に分類されるし、地域ごとの歴史認識がまるで違うことなど当たり前である。しかしそれが、「激変」であったことには変わりはない。これが、新しいもののもたらす物語が似たり寄ったりである、ということの根拠である。同時に、古いもののもたらす物語、つまり歴史はそれぞれ違う。温故知新とはこのことを述べているのかもしれない。一般的に、古いものに焦点を当て、その古いものが人々の注目を集める手伝いをするのは新しいものである。そう考えると、新しいものも古いものもあまり価値としては変わりないとも言える。

 

 

 

 私は物事が、物語(Narrative)として自分の中に消化されないと、その物事を記憶に止めておくことができない。私が追憶できるすべての思い出は、物語という形で残っている。ここで使っているNarrativeという言葉は、当方感覚的にしか意味を理解していないので、こちらの記事を読んで自分なりの定義を見つけてほしい。別の言葉で言い表すならば、例えば、自分が写っているある写真を自分が久しぶりに見つけたとしよう。その写真に撮られたときの自分の感情、自分がそこで何をしていたのか、そこはどこなのか、なぜそこにいるのか、撮影したのは誰か、自分とその人はどんな関係か、そういったことを、瞬時に思い出すことができたなら、それがNarrativeである。そこで自分が思い出した物語は、例えば「祖父母の家に帰省する」という物語(Story)の一部かもしれない。Narrativeという言葉を、そうした始まりと終わりのあるStoryの一部分のことの意味として使っている。

 そのようにして物事を認識しなければ、私は物を学べない、記憶に残ることもない。物理や数学、化学など、ややもすれば数字のみ扱い始める学問を学ぶのには本当に苦労した。その公式によって、例えば車のエンジンがどのように作動するのか、それが分からなければ、その公式を覚えることができなかった。

 

 以上のことからなのか、私は自分の幸せだった時間(今思えば幸せだったんだなと思う時間)を思い出そうとしても、あまり鮮明に思い出すことができない。特に、激しい嬉しさ、涙を流すような感動体験のない、いわゆる「平凡な幸せ」はほとんど思い出せない。しかし、今も含めて、この種の幸せを感じている時間の方が物理的には長いはずなのだ。

 「あなたは何をしていますか(What do you do?)」と聞かれて、「基本ぼーっとしていますが」と答えるのは、私にとってはあながち間違いではないのかもしれない。時間も記憶も、それほど盲信するに値しないものなのかもしれない。

移動にもっと手段を

 自転車が好きだ。という記事をまた書く。

 特に東京、広げて関東は走りやすい大通りが多い。江戸時代の街道もそのまま残っているから、ほとんど原付バイクのように走ることができる。それなのになぜこんなに電車と車ユーザーが多いのか。

 そもそも私は自分が運転せずにどこかに連れて行かれる感覚があまり好きではない。特に毎日同じ場所を行ったり来たりするなら、断然自分で運転した方が楽しい。自分で運転しなければ、どの道をどのように通ったのかが分からなくなるではないか。今はインターネットさんが種々の地図を用意してくださっているから問題ないが、地図がなければどうするのか。どっちに富士山があって、どっちに自分の家があるのか、どこにいてもだいたい検討がつく方がなんとなく安心しませんでしょうか。

 電車や車でよく聞くのが、誰かと二人か三人くらいで乗り物に乗り、乗っている最中の会話に困るというもの。だから電車には広告や車窓などの「目のやり場」があるし(だから車窓の黒い地下鉄は大嫌いである)、車にはカーラジという「耳のやり場」がある。別に二人でいるのなら楽しく会話をし続けなければならないという決まりがあるわけではないが、それにしてもあれほど複雑な気持ちになる場所はない。電車にしても車にしても、それらの生い立ちを見れば、あれはただの「動く倉庫」だと見える。倉庫をいくら飾り付けしようが倉庫は倉庫だ。そして、私はそういう倉庫が嫌いである。鉄道各社は満員電車を効率よく「流して」いくために、ICカードの導入やら空いているドアへの誘導やらを行っているが、いくら先進的ロジスティクスを発揮しようが人がいるからには満員電車は満員だ。もっと「満員電車に乗ること」に迎合せず、他の乗り物で通勤・通学する人が増えたらと切に思う(社会人経験がないから何とも言いにくいが)。

 そうなると、車は渋滞するからやはり二輪車ということになるだろう。二輪車は四駆車よりはハンドルもよく効くし、税も低ければガソリンも少ない(はず)。確かに荷物を運ぶのなら四駆車やトラックが必要だが、私がいつも隣を走る車を見ている限りでは、荷物や同乗者がパンパンに詰まっている車はほとんどない。ほとんどの人は、車という空間を十分に活用できていないのである。

 さらに車の方が一般的には優れていると思われている点として、「なんかカッコイイ」というのと「エアコンが効く」というのがある。前者については人それぞれ好みがあるから何とも言えないが、私個人としてはブランドに対する理解が全くないので無視するしかない。どでかいルイ・ヴィトンの財布よりも、後ろポケットにすっと入る結婚式の引き出物の牛革長財布の方が何倍もよろしい。ポケットが少なくボールペンやらガムやらタバコやらが中で縦横無尽に駆け抜けるコーチのバックなんて想像したくない。ボルボに乗ってデートに「はあい♪」なんてやって来る彼氏にキュンキュンしてるバブル女の時代は終わったのだ。後者については、着込めばよろしい。私が人一倍寒さに鈍感であるせいもあるが(私を超える恒暖動物、常に体温の高い人は今まで2人しか見たことがない)、エアコンなどただガソリンを余計消費するだけで、まさしくエコエコと叫びながら平気で「機密情報は紙で」と述べる文科省さながらである。ユニクロヒートテック1500円を引っかけてこよう。

 

 これまた社会人経験がないから何とも言えないが、特に出勤時間などが決まっていない人も最近は増えているだろうから、そういう人ほど二輪車、できれば自転車で移動するべきだと思う。最大の理由は、移動するときに通る地域の特色がなんとなく分かるから。車で通りやすい大通りだけを疾走してしまうと見逃す「色」がたくさんある。一歩路地に入れば、旧道の雰囲気を思い出させる道はたくさんあるし、こんな家がこんなところに!という発見もたくさんある。道に関して少し深掘りすれば、今の大通りと呼ばれる道はすべて、車が通りやすいようにそれまでそこにあった集落などを排除して生まれた、それ以前の常識としてはいささか「おかしな」道路だ。建築家によれば、もともと車が走る前までは、人間の身体感覚に合わせて道路の幅も決められていたそうだ(それが残っているのが旧道や路地)。車ユーザーを辺鄙な場所に連れ回してタイヤがすり減るようにすれば自社が儲かると息巻いて創刊された飲食店ガイドが社会的地位を得るくらい車という乗り物は一般的になってしまったが、そんなに車って大事なものなんでしょうか。車という閉鎖的空間にこもって移動するよりも、きっとその場所により近づけるのではないかなあと思う。地理の勉強は嫌いでもこういう探検が好きな人はぜひ自転車を(バイクだとノロノロ道路を走るのが難しいだろうから)。まあ、大通りがなければAmazonでポチって翌日到着、なんてこともできないのだろうけれど。

 また、自転車ならば免許もいらないから、小さいころから遠くの地域まで自分の意志で行くことができる。高校生になるまで自分の地域から自分では一歩も出たことがなかった私からすれば、自分の子どもには早くからそういう経験をさせておきたいなあと思う(親の理想の押しつけです)。

 

 しかし、自転車運転もなかなかハードである。特に走りやすい大通りを走るときは、バイクや車ユーザーとほぼ同等の注意力、集中力が必要である。当たり前だが左側通行もあるし、右折時斜め後方確認も欠かせない。スクランブル交差点を越えるときにできるだけそこを歩く人に不要な恐怖を与えないように通過する方法だの、決して楽ではない。閑静な住宅街でさえ、角からのお子様の飛び出しにも注意しなければならない。まずはこうしたことを学んでおかなければ自転車乗りとしては失格なのだが、それにしても自転車乗りの立場は微妙だ。東京で自転車で1時間かけて通学していると言うと、「危な」とまず言われる。でも慣れてしまえば本当に車や電車よりも気が楽だ。もっと自転車信仰者を増やしたいものである。

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

 私は「すっとやる」ができない症候群だ。何をするにも仰々しく取りかかっているなと思っている。

 冬の今など、外に出るのにも一苦労だ。まず自分が何をしに外に行くのかを考える。外に出るのに必要なものを揃える。そして身につけたり用意したりする。午前中には出かけようと思っていたのに、午後2時を回る。もちろん人と約束をしているときなどはこんなことはしないが、自分の用事で、いつ行っても特に何の問題もないものは、大抵こうなる。

 掃除をしようとしても体は動かない。しかし一度何かのきっかけで部屋を掃いたりすると、とたんに掃除欲が湧く。だから私の部屋は、「洗濯物が詰まった洗濯機、洗い物がそのままになっているシンク、埃のかぶった床や机」の状態になっている日と、スッキリしている状態になっている日との差が非常に激しい。

 雨の日など、今のご時世100円で傘やビニール袋を買える時代なのに、それを買うのを面倒くさがる。ちょっとの雨だからこれくらいいいだろう、と、雨の中に自転車で繰り出す。そしてちょっとどころじゃないほど濡れる。家に帰り、ああ雨に濡れたけど100円損せずに済んだ、などと正当化していく。

 こういう記事を書くのにも一苦労だ。「こういうことを書いておきたい」と構想が浮かんだら、すっとパソコンを開けばいいのに、開かない。そうしているうちに、別のことが頭を埋め尽くす。あの本を読みたい、コーヒーを淹れたい、音楽を聴きたい、クリーニングも出さなきゃ。こうして私の脳の彼方へ消えていった構想は計り知れない。

 

 私は何かに「自主的に」執着する、ということをあまりしない。「こいつを持ってないと外を歩けない」とか「手を洗わなきゃご飯を食べられない」ということもない。体一つで駅まで出てこいと言われればできる。

 しかし、一度何かを所有して、それを手放すとなると話は別だ。すっと手放すことができない。本ならブックオフや別の持ち主へ、服ならフリマや買い取りへ持っていけばいいのだが、それができない。執着心や愛着心は微塵もない。それらが自分のものならば、たとえ火事で焼失してしまっても悲しくなることはない。けれど自らそれを手放しに行くことは、結果的にしない。

 

 メールなどもそうだ。近頃は「メッセージを送り合う機能」を担うサービスがメールからLINEへと移行しつつあるが、私はLINEでさえ送るのが面倒くさい。まずスマホを開くのでさえ面倒くさい。私の使っているiPhoneは、一年ほど前から指紋認証で端末のロックを開けるようになったが、それすら面倒くさい。何かをし始めることが面倒くさい。

 

 面倒くさいだけなら、ただの面倒くさがり屋ということで「そうか、自分は面倒くさがり屋なんだ」と落ち着けるのだがそうはいかない。そうやって面倒くさいことをやらないでいると、次第に鬱々としていく。LINEのメッセージが自分に何も来ないことにさみしさを覚える。「人とつながりたい」という何とも侘しい願いを真剣になって思い浮かべる。寒くなったから窓を閉める、という行為ですらありがたみを感じる。そして外の音が聞こえなくなることにさみしさを覚え、また開けに行く。この行為自体うっとうしいものであるはずなのだが。

 

 さらにそういう「すっとやらない」自分を気にする自分もいるから厄介だ。「もっとすっとやっていれば…」とないものねだりを真剣にする。一通り考え尽くしたところで、「ああめんどくさ」と諦める。

 

 

 

 

 物には流れがある。この「物」というのは、生きていても死んでいても、生死が感じられないものでも関係なく、すべてを指す。葉っぱも人も、コオロギも電線も、すべて物とする。物には流れがある。

 その流れが止まると、その物は腐ってしまう。廃墟は、人が建てたのに人がいなくなったことで人の流れが止まり物の流れが止まった空間である。よく大企業でも、社員同士の癒着を解消するために社員を定期的に入れ替える(転勤させる)という話を聞く。

 しかし、後者の人の例のように、私たちはそうやって腐った空間に安堵する感性も持ち合わせている。長年使っているものに愛着を抱いたり、長年付き合っている人が失われると悲しみを覚える。特に日本では、「古い物」は役に立たないものでも価値が高いものと見なされる。もちろんここでも、「物」は、人や動物などすべての物を指す。

 

 

 

 

 私はこの年末、上京してから3度目の帰省をした。祖父母の家にも顔を見せに行った。祖父母の家も、私の実家も、そして私の地元も変わらない顔で私を迎えてくれた。しかし以前私が暮らしていたとき、以前私が帰省したときと一緒ではなかった。当たり前のことなのだけれど、その違和感は私の中に残り続けた。以前と同じようにはできなかった。以前と同じように居間に集まって正月料理を食べることはできなかった。家族で神社に初詣に行くこともできなかった。市街地をぶらぶら歩くこともできなかった。友人と自転車を漕ぎながら話すこともできなかった。それ自体はしたのだけれど、依然と同じようにはできなかった。なぜなら私は地元にはもう住んでいないし、地元の学校には通っていないし、定期的にその店に顔を出しているわけではないからだ。

 自分がどれだけ無知で、安全地帯に暮らしていたのかがありありと分かった。それに気づくことができるということは、自分が(人間的に?)成長したということだ。上向きの成長ではないかもしれないけれど、少なくとも自分が以前とは変化したということだ。けれどそのせいで生じた「違い」が、無性に寂しかった。自分が帰ってくる場所を失ったようだった。

 

 先に書いたように、私はすべての物に執着をしない。けれど、そうやって「いつの間にか」失われたものに対する執着心、失われていく過程を自覚せず、ある日突然それが失われていたことに気づくときに生じる恐怖は、自分の中に激しくあった。足元の地面が崩れていく感覚がして、怯えた。

 

 何かをやるには、何かを失わなければならない。おいしい料理を赤の他人に作ってもらうと、お金を失う。外の世界を知れば、自分がいる世界を盲信する幸せを失う。若い自分が年を取ることに歓びを感じていれば、私を育ててくれた人たちが老いるのを感じる。何かをやるには、その恐怖を忘れるか、知らないでおくか、正当化するか、とにかく何かしらの方法で克服しなければならない。

 

 

 

 

 山が好きだ。実家は山の麓にあり、私の地元はどこへ行っても山が見える環境だった。地元が扇状地にあったからだ。そのおかげで、山の見えない関東平野に暮らすのは大変である。山を求めて平野の淵まで行かなくてはならない。海も好きだが、やはり住むなら山の近い方がいい。

 衛星写真を見れば分かるけれど、日本の国土のほとんどは山だ。平野(=都会)に住んでいると忘れがちなことだ。だから日本には、山を神とする風習が今でもある。山の頂上に神社が建っているケースは本当に多い。

 山の何が好きなのか、いまいちよく分からないけれど、ひとつの理由として、死んでいる物に囲まれる空間が好きだというのが挙げられる。山は、土が重なってできている。土は、死んだ物に固まりである。「土に還る」という表現があるが、人だろうが物だろうが化学製品だろうがなんだろうが、時間の長短はあれどすべての物は必ず土に還る。かつて生きていた物が、誰かに使われることで生きていた物が、土として死んでいる。その大量の土に会うことができるのが、山だ。

 その土の上に、今生きている私、そして生きている植物が生えることもある。なんとなくその構図がいい。

 

 山に行くと、特に登る人が少ない山の場合は、先人たちが歩いたことで踏み固められてできた道がある。そこだけは少し凹んでいて、植物も生えておらず、歩きやすくなっている。その道は何千回も先人たちが歩いたことで残されたもので、さらに今も私がその道を歩くことによってその道を作っている。

 

 いろんな流れが山にはある。

 

 

 

 私は、自分が何かをするというより、何かをさせられていると感じることの方が多い。そして、何かをさせられていると感じて何かをするときの方が、大抵うまくいく。やり遂げられるし、なんとなく楽しい。Mなのかもしれない。

 とはいえ、ずーっと変わらず働き続けるとか、ずーっと同じ場所に閉じ込められるとか、ずーっと同じ人と話すとか、そういったことは大嫌いなわけで、そういうときはそういうのを嫌がっている自分の話をうんうんと聞いてあげて場所を移らなければならない。

 非常にうっとうしい。非常にうっとうしい。でもそれに、私は反応している。

 

 

 

 

 

 

 

ほしいものを作ってあげる

 「ブッタとシッタカブッタ」という本がある。小泉𠮷宏さんという方が描かれた、4コマ漫画だ。

 

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  実家に帰省して、自分の部屋の本棚から見つけ、本当に久しぶりに読み返した。

 この本は、私がまだ漢字もろくに読めないときから、枕元に置いてあった。当時は母親と同じベットで寝ていた。母親が好んで置いていた本の中に、この本があった。はじめはなんか面白いブタだなあ、ふんわりしたブタだなあ、という感覚しかなかった。このブタをマネして描くのが楽しかった。読み返していくうちに、だんだんとこの本が、帰ってくる場所のような存在になった。学校や家で嫌なことがあったとき、この本を読んで落ち着くようにもなった。

 

 

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 まあこの先、この本を深刻に受け止めすぎて自己啓発本中毒者になっていくのだから、なかなか皮肉なものである(何が皮肉なのかはこの本を読んでいただければきっと)。

 

 話は変わるが、私は他の人が欲しがっているものを作ってあげることがとても好きだと思う。たぶん。

 そうなのかなあと思った発端は、年賀状を手書きで書いたときだった。年賀状の裏面のデザインを父から任され、イラレでいじいじ作ったのだが、肝心のプリンターの調子が悪い。プリンターを直すのに少し時間がかかることになり、年賀状は見送りになった。

 ところが私宛に、正月、ひとり友人から年賀状が届いていた。そもそも友人同士で年賀状を送り合うことも珍しい時代だから、こうして年賀状を出してくれた友人には早めに返事をしておこうと、手書きで年賀状を書くことになった。思えば、まっさらの年賀状をすべて手書きで書くのは初めてだった。新年の挨拶と、自分の近況と、ちょちょいとイラストなどをちりばめて書いておいた。

 そのとき、自分が思いの外自らの近況を書けたことに驚いた。なんだか、改めて自分の状況を自分で見つめた気がした。こんなことは、自分が常日頃「自分は何をしているんだろう?」と考えている間には出てこないことだった。

 スマホやパソコンで年賀の挨拶を済ませてしまう時代だから…というよりも何よりも、手紙の良さは、手で自分について、自分の思いについて、伝えたいことについて、きちんとまとめることによって、それらをきちんと客観視できることにあると思う。結局、手紙は人のために書くものではなく、自分のために書くものではないか。

 

 高校生の時から映像制作を断片的に続けているが、自分が作りたい映像というのはあまりうまくいかないことがほとんどだった。うまくいっても、後から見るとおもしろくなかったり、何がしたいのか分からないあるいは何がしたいのか分からないということすら伝わっていない動画になってしまったりしていた。自分のために何かをすることは別段何を思うわけでもなくすんなりとこなせるのだけれど、こと何かを「作る」ということに関しては、特定個人(対は不特定多数)が要求するものを作ることしかできなかった。

 同じように、私は「日記」というものを持続させたことがない。自分の近況をただあてもなく綴ることにあまり興味が持てなかったのかもしれない。けれど、手紙には宛てがある。しかも手紙は、このブログのように不特定多数に読まれるものではなく、極めて個人的なものだ。そこでしか出てこない、自分の言葉の言い回しなどもあるだろう。手紙を書くことによってしか、自分の中にあるその言葉には出逢えない。

 

 

 特定の「誰か」に向けて何かを作ることには、ある程度の制限がある。例えばまず、少なくともその「誰か」には、自分の伝えたいことが伝わらなければならない。この制限が実は心地よいのかもしれない。自分の制作意欲を前に進めてくれるのかもしれない。その反対に、自分の考えていることをあてもなく綴るというのは、思いの外時間がかかるし、頭を使う作業だ(しかしこのブログの文章はすらすらと書くことができる。読みやすさなどはあまり考慮していないにせよ、あまりにもすらすらと書ける。なんでだろう)。

 このことは、映像制作や物書き以外にも当てはまると思う。料理も、話も、ちょっとしたDIYも、特定の相手がいなければうまくいかないことが多いなあと思う。それは、「その人のために作ったものだから」というほんわりハートウォーミングぅな理由からではなく、とても切実な理由からだ。人に悩みを打ち明けるとすっきりする、というのも同じだ。

 

 「ブッタとシッタカブッタ」は、読み返すと「ああ同じこと考えてる人いるんだな」「こんなにすっきり言ってもらうと分かりやすいなあ」と思う。この本は、作者小泉さんなりのひとまずの完成品なのだ。私が共鳴することのできる完成品に出逢えたのも、何かの縁なのだろう。

 

 まったくまとまらなかったが、「伝える」というのはほんとに難しい。