あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

健康でいる必要

 最近、自分の家族や親戚のほとんどが元喫煙者だということを知って驚愕した。幼いときに喫煙反対派の祖母からネチネチ言われていたことを真に受けて、自分の血縁にはたばこを吸っている人などいないと思っていた。確かに伯父さんなんかは吸ってそうだったけれど。

 私の父親も(家族・親戚の中で一番意外だった!)実は超ヘビースモーカーで、1日1箱吸っていた時期もあるという。それが独身時代、ちょうど高度経済成長期に東京で何年か働いていたときだったようで、なんとも東京という街は素晴らしいが歪な形をした都市だという思いがした。

 そういった家庭事情は全く関係ないと思うが、私も一応、喫煙者である。1ヶ月半くらいで1箱を吸う、にわかスモーカーといったところか。ニコチンの覚醒作用はよく働くが、都合のいいことに依存作用は全く働いていないので、それこそ「いつでもやめられる」状態だ(一度もたばこを吸ったことのない方の中には、この言葉が信じられない方がほとんどだと思うが、実際に私以外にも何人かこのタイプの喫煙者を知っているから、そういう人種もいるようだ)。

 

 さて、たばこの話になると、「健康」という話題がつきまとってくる。たばこは健康に悪い。自明である。だが私はこう思う。そんなに私は、私たち人間という動物は、健康でなければならないのだろうか。

 

 今の時代は健康ブームだ、といってもいいだろう。このブームは特にふわっふわのIT産業との相性がよろしいらしく、腕にバンドをつけてイヤホンにランニングをさせられている方々をよく見かける。

 しかしこれほどまでにあらゆる産業、業界、広告が「健康!健康!」と叫び出すと、やはり私は違和感を覚える。「あったかい家が待っている」とガス会社がガス利用を促進するプロパガンダのように。「子どもには安心安全な食べ物を」と「オーガニック」「無農薬」のラベルをつけた食物を販売するプロパガンダのように。

 悲観的に過ぎるという意見もあるかもしれないが、やはり、私は、私たち人間という動物は、健康でなければならないのだろうか。不健康であることはいけないことなのだろうか。

 

 はじめにその疑問を抱いたのは、母親が「もう私はいつ死んでもいい」と言い出したことである。ふだんなら「何かあったの?」と気にするのだが、けっこう真面目な顔をして言うので、どうやらきちんとした考えがあるらしい。曰く、「私は自分の子も育て終わったし、とにかく老人ホームで自分の身の回りの始末もできなくなってまで生きていたくない」と。母親は昔から他人との距離感に敏感な質で、自分のテリトリーに勝手に侵入されることを非常に嫌う。それを踏まえれば確かになあと思う。

 だから、母親は1日1缶のビールをやめない。なんてことを言いながら、「暇だから」と最近スポーツジムに通うようになった。だから私はそんなことを言い出したことについて心配はしていない。

 この話を聞いたときに、「健康」という指針が自分をかなり拘束していたことに気づいた。長生きすることだけがいいことじゃあない、と思った。

 

 当たり前の話だが、健康に気を遣っている人、長生きをしたいと思っている人、または今の病気を治したいと思っている人はたくさんいることは知っている。そんな人に、「健康ばっか気にしてちゃダメダメ」なんてことを言うのは阿呆である。しかし、一概に「全人類は健康であるべきだ」と思っちゃってる私は不思議だなあと思ったのである。

 

 たばこに限らず、世の中にはいろんな「体に悪いもの」がある。「炭水化物が人類を滅ぼす」という本が出てからは、日本でも「糖分」ですら体に悪い、という論調が流行りだした。コンビニ弁当は食べてはいけない、スーパーの肉は危険だ、と言われることもある。

 確かにそれらは様々な理由から、科学的には体に悪いのかもしれない。しかし、一時の快楽を得られることもなく、「安全だから」「体にいいから」という理由で強制的に食事を取らされるのはたまったものではない。

 

 なぜ人は健康を尊ぶのだろう。私は大病にかかったことはあるが、特に五体満足である。だからこそそんな疑問が持てるんだ、とも思う。しかしその意見を聞いても、やはり私は疑問に思ってしまう。そもそも、「健康」という概念が不思議なのである。まるで、どこかに理想の「健康な人」がいるようではないか。その尺度は、何をもって計られるのか。

 私がどこに違和感を覚えているのかと言えば、その「理想の健康な人」という概念と、あともうひとつ、「不健康な人は(すぐさま)健康になるべきだ」というなんとなく漂う風潮である。

 個々人が健康であることを望んでいるならまだしも、そもそも自分が健康であるか不健康であるか全く関心がない人もいる。その人に「あなたは不健康です」と言って健康になることを勧めるのはどうなのだろう。

 

 そんなことを言う私は、やっぱりこの毎日が続いてほしいとまだ思えているから、適当に健康に気を遣っているのだけれど。

自分の説明書

 今回は久々に自分についてのお話です。

 

 私が究極的にやりたいことといえば、自分を含めた人はじめ動物や自然の理をすべて理解することにあると思います。当然それは実現不可能ですが、そこに近づけたときに、一般的な「楽しい」ときに感じるもの以外の快感を覚えます。知識欲が満たされるときの快感ともいえます。

 なぜそんなことを知りたいのかについて。なんでそんな「理」を知りたいのだろうか。そのはじまり、きっかけのようなものは私の人生にあったのかしら、と思い、過去の記憶を漁ってみました。

 特に強く、「他人が何を考えているのかを知りたい」と思ったのは、やはりいじめに遭ったときでした。自分をいじめている子が何を考えているのか、それが中学校を卒業するあたりまで、ずっと私の「学ぶこと」に対する意味づけでした。そのときの私にとって、「学ぶこと」というのは、他人が何を考えているのかが分かるようになること、即ち占いや心理学でした。当たり前ですがそんなものが単独の理論で説明できるはずがなく、何度も何度も「きっとこうだ!」という一概な理論にすがりついて自分を慰めてきたわけです。これが今の私の知識欲に繋がっていると思います。

 具体的なことを晒しますが、当時私はクラス全員の友人の名前をExcelで表にし、誰が自分の味方であるのか、敵であるのか、なぜそうなのか、私が何をしたのか、味方から敵あるいは敵から味方に変わったのはいつでなぜか、などなどを逐一メモしておりました。中学の頃には、そういった蓄積を分析・分類し、こういった体型や目をしている人はこういう人で、味方になる可能性が高いか敵になる可能性が高いかを予測していました。

 そこまで行ったところで、ある日その分類メモを自分の席の引き出しに入れて帰宅し、翌朝学校に来たらすべてペンで塗りつぶされおり、大人の字で「見たけど君って ひどいんだね 見損なったよ」というメッセージが書かれていました。

 今考えると恐ろしい限りですが、当時はこうでもしないと学校の中で安心できなかったんだと思います。誰がどういう人なのか、つまりは自分に攻撃を仕掛けてくるのかこないかを早く知る必要があったんです。

 今はといえば、こういった「こういう人はこうである」という基準をいったん客観的に見つめる技術を会得したため、極端にひとつの基準を思い込むことは少なくなったように思います。むしろ、そういった基準、理論を多く、深く知ることに快感を覚えるようになりました。しかし考えてみれば、自分が「学ぶ」ということに対して少しでも誠実になろうと思えたきっかけは、ものすごく乱暴で攻撃的な目的から始まっていたんですね。

 

 これは「平和」や「平等」という概念が生み出される過程と似ているような気がします。「全人類が平和でありますように」「すべての人が平等な社会を目指す」という言葉に代表されるように、この言葉は「平和でない(not平和)」「平等でない(not平等)」ときに生み出されたものです。本当に平和な社会に住んでいれば、「平和」なんて言葉は生まれなかったはずです。当たり前のことは、人間の意識には上らないのですから。

 

 抽象的な話にしますが、人間に限らず生物が進化するためには、一般的に私たちの考えるマイナスの出来事が必要になると思います。長期的な進化においても、短期的な、個人的な成長においても。厳しい環境においたトマトの方が甘くなりますし、今生き残っている生物は地球のあらゆる場所で起こった気候変動に耐えられたから生き残っています。

 なんてなことを言いますが、だからといって自ら苦行に取り組もうなどとストイックになる気は毛頭ありません。楽になりたい、安心したいという純粋な欲望があってこそ苦行に取り組むことができると思うので。

 

 

 その自分のはじまりを見つけたとき、少しだけ自分がやるべきことが見えたような気がしました。私が注目すべきは人類学です。人類学(自然人類学、文化人類学に大まかに分けられる)がどんな学問なのかは私もあまり分かっていないので説明を割愛します。人類学という視点からいろんな学問を見てみると、個人的にはそそる学問が多いように見えます。人間が生み出す「文化」の様態にはどんなものがあるのか(文化人類学)の理由を探るためには、そもそも人間とはどういう動物なのか(自然人類学)を知る必要があります。そう考えると、人類学は理想の体系をしているなあ、と。

 

 

 ときたま自分の所属している「キャリアデザイン学部」の言う、「キャリアデザイン学」が何を目的としているのか、よく分からなくなることがあります。キャリアデザインという概念自体、日本では平成になってから活発に使われだしたようなので、よく分からないもので当たり前と言えば当たり前なのですが。

 学部のホームページを見ると、

 

法政大学キャリアデザイン学部は、このような社会の急激な変化に力強く、かつ柔軟に対応するために、自ら学び、考え、行動できる自立/自律的な人を育てています。同時にまた、そのような自立/自律的な生き方を求めている人たちを支援できる「人の専門家」を育てることを目ざしています。

(キャリアデザイン学部とは | 法政大学キャリアデザイン学部より引用)

 

とあります。

 ここで書かれている「人の専門家」という文字に、入学当初私はとても興味を惹かれました。その理由が今になって分かったように思います。

 

 

 またひとつ、自分がどういう人間かを捉える枠組みを得ました、というご報告でございました。

まじめおばけミッケ

 

 

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 この世で一番、扱いづらいもの。どんな人でも、その時が来れば自然と取り憑かれてしまうもの。取り憑かれると、いろんなことが気になってしまい、人によってはイライラが収まらなくなったり、鬱々とした気分になってしまったり、泣き出してしまったりしてしまいます。そうやって感情が爆発しさえすれば、スッキリしてそれで終わり、というケースもあるけれど、普段からあまり感情を表に出さないようにしていると、そういう状態が一週間、一ヶ月、一年と長い間続いてしまう。しかも取り憑く人によって、形も性格も手段も違うもの。

 

 それがまじめおばけです。

 まあ、これから書くファンタジー小説の設定を、文章を書きながら考えていると思ってください(まじめに読まないでください)。

 

 このおばけに取り憑かれると、例えば久しぶりの友だちを見つけたとき、声をかけるかかけないかでものすごく迷うようになります。声をかけたくない、そういう気分でないのならかけなければいいし、声をかけて久しぶりの話に花を咲かせるのもいいでしょう。でも、どちらか決める前にどちらの場合も考えてしまいます。かなり隅々まで。ときには「あっちが声をかけてきたなら話をしよう」なんてことも考えます。「あっち」は声をかけてくれないだろうと思いながら。

 また、声をかけたらかけたで、今度はどうしたら「スマートに」「この場に合うように」話をすることができるのかを常に考えます。自分から話題を振ることはありません。なぜなら、それが「適切な」話題なのかが分からず、それが分からない自分を責めている間に会話が終わってしまうからです。4,5人で話しているときはなおさらです。自分以外のひとで話が進んでいるようなら、それを聞いて楽しむことに徹します。
 さらに、いつも何をしていてもそれに熱中することができなくなってしまいます。映画を見ていても、友だちとだらだら、ひとりでだらだらしていても、遠くへ出かけていても、勉強していても、常に「こんなことをしていていいのだろうか」と気にかけます。この時間で、もっと他のことがいろいろできたのではないかと、自分の今と過去の時間の使い方を責めます。一時も家を出なかったことを、目の前の友だちに生返事を返させてしまったことをを嘆きます。

 

 どうです? 思い上がったヤツでしょう?

 それがまじめおばけに取り憑かれた状態の私です。

 

 そのときそのときに思い浮かべる「ベストの自分」に自分をいじめさせます。そうして自分を過大評価します。「なぜこれができないんだろう?」という一見反省しているように見える疑問を持ちながら、「本当は私はもっとできるはずなのに」と思っています。または、「本当に私はできないヤツだ」と決め込みます。とりあえず、自分はできるヤツなのかできないヤツなのか、そればかりを考えています。

 少しでも暇になると、まじめおばけは私に取り憑こうとします。今の時間、もっと楽しくベタベタしているカップルがいるぞとか、もっとしっかり技術を身につけて頑張っているヤツがいるぞと言ってきます。

 

 

 「今、この人にはまじめおばけが憑いてるんだな」と思うと、なんだかその人がかわいく思えてきます。「なんでこの人はこんなことで怒ってるんだろう?」とか、「なんでこの人はこんなに冷たいことを言うんだろう?」とか。「あ、今自分にまじめおばけが憑いてる」と思うと、少し楽になったりします。

 あたりまえですが、決めつけはよくありません。でも、「おばけ」だから何でもありなんです。とりあえず、自分が落ち着ければそれでいいんです。だから「あんた、まじめおばけ憑いてるぞ」なんて言う必要はないんです。

 

 「まじめ」とは、今ある形と自分の思っている「ベストの形」が異なるときに、今ある形を一生懸命「ベストの形」に近づけようとする様子です(という意味で使っています)。語源としては、「まじめ」という言葉は「まじろぐ」という言葉から来ているそうです。「まじまじ見る」という言葉がありますが、その「まじまじ」は「まじろぐ」が形容詞になったものです。「たじろぐ」が「たじたじ」になったりするように。「ベストの形」をまじまじ見て、それに近づこうとする。

 「まじめ」自体はいいことでも悪いことでもありません。ただのおばけです。使いどころによって、それがいいことになったり悪いことになったりするんです。掃除をするときは「まじめ」であることにこしたことはありませんが、必要以上の「まじめ」はただ自分が辛くなるだけです。

 

 ただ、今はどうもこの「まじめおばけ」の扱いが自分にはよく分かっていません。突然やってきます。やってきたときは気づかないで、追いやったときにやっと「ああ、まじめおばけに憑かれてた」と気づきます。

 どうしたっちゃこいつはやってくるので、頑張ってうまい使い方を「まじめ」に見つけていこうと思います。か、放置するかだな。

記憶に残るのは悲しい方

 嬉しい、楽しい、気持ちが良い、快い、俗に言うプラスの感情を伴う物語は似たり寄ったりで、悲しい、辛い、気持ちが悪い、妬ましい、羨ましい、つまらない、退屈な、皮肉な、俗に言うマイナスの感情を伴う物語はそれぞれ違う。多様性至上ではないけれど、私が「おもしろい」と感じるのは、断然後者。「他人の不幸は蜜の味」と言うし、少林寺拳法で出会った私の師範は「お前の不幸は俺の幸せ、お前の涙は俺の栄養」と言っていた。なんちゅうやっちゃ、と思っていたけれど、自分もそうだった。

 実際、ドラマや映画、とにかく「物語」という看板を掲げて繰り広げられる珍道中のほとんどは、プラスもマイナスもない平坦な時間に、突如マイナスが訪れ、それを克服してプラスに持っていったりその結果マイナスに戻ったりする。日常生活をただ映すだけのドラマに興味を抱く人はなかなか少ない、そんな内容のドラマがヒットしたことは未だかつてない。

 少なくとも、私にはそのように見える。

 

 「プラスの感情を伴う物語『は似たり寄ったり』、マイナスの感情を伴う物語『はそれぞれ違う』。」この構造が当てはまるものがもうひとつある。新しいものと古いものである。「新しいもののもたらす物語『は似たり寄ったり』、古いもののもたらす物語『はそれぞれ違う』。」

 今、というより、その時代その時代に生きていた人々にとっての「今」は、いつだって激変の時代である。今はそれが空間を超えて、可視化されやすくなっただけだ。その時代その時代に生きていた人々にとっての「今」、つまり歴史は、多種多様である。日本の歴史でさえ、数十種類の時代に分類されるし、地域ごとの歴史認識がまるで違うことなど当たり前である。しかしそれが、「激変」であったことには変わりはない。これが、新しいもののもたらす物語が似たり寄ったりである、ということの根拠である。同時に、古いもののもたらす物語、つまり歴史はそれぞれ違う。温故知新とはこのことを述べているのかもしれない。一般的に、古いものに焦点を当て、その古いものが人々の注目を集める手伝いをするのは新しいものである。そう考えると、新しいものも古いものもあまり価値としては変わりないとも言える。

 

 

 

 私は物事が、物語(Narrative)として自分の中に消化されないと、その物事を記憶に止めておくことができない。私が追憶できるすべての思い出は、物語という形で残っている。ここで使っているNarrativeという言葉は、当方感覚的にしか意味を理解していないので、こちらの記事を読んで自分なりの定義を見つけてほしい。別の言葉で言い表すならば、例えば、自分が写っているある写真を自分が久しぶりに見つけたとしよう。その写真に撮られたときの自分の感情、自分がそこで何をしていたのか、そこはどこなのか、なぜそこにいるのか、撮影したのは誰か、自分とその人はどんな関係か、そういったことを、瞬時に思い出すことができたなら、それがNarrativeである。そこで自分が思い出した物語は、例えば「祖父母の家に帰省する」という物語(Story)の一部かもしれない。Narrativeという言葉を、そうした始まりと終わりのあるStoryの一部分のことの意味として使っている。

 そのようにして物事を認識しなければ、私は物を学べない、記憶に残ることもない。物理や数学、化学など、ややもすれば数字のみ扱い始める学問を学ぶのには本当に苦労した。その公式によって、例えば車のエンジンがどのように作動するのか、それが分からなければ、その公式を覚えることができなかった。

 

 以上のことからなのか、私は自分の幸せだった時間(今思えば幸せだったんだなと思う時間)を思い出そうとしても、あまり鮮明に思い出すことができない。特に、激しい嬉しさ、涙を流すような感動体験のない、いわゆる「平凡な幸せ」はほとんど思い出せない。しかし、今も含めて、この種の幸せを感じている時間の方が物理的には長いはずなのだ。

 「あなたは何をしていますか(What do you do?)」と聞かれて、「基本ぼーっとしていますが」と答えるのは、私にとってはあながち間違いではないのかもしれない。時間も記憶も、それほど盲信するに値しないものなのかもしれない。

移動にもっと手段を

 自転車が好きだ。という記事をまた書く。

 特に東京、広げて関東は走りやすい大通りが多い。江戸時代の街道もそのまま残っているから、ほとんど原付バイクのように走ることができる。それなのになぜこんなに電車と車ユーザーが多いのか。

 そもそも私は自分が運転せずにどこかに連れて行かれる感覚があまり好きではない。特に毎日同じ場所を行ったり来たりするなら、断然自分で運転した方が楽しい。自分で運転しなければ、どの道をどのように通ったのかが分からなくなるではないか。今はインターネットさんが種々の地図を用意してくださっているから問題ないが、地図がなければどうするのか。どっちに富士山があって、どっちに自分の家があるのか、どこにいてもだいたい検討がつく方がなんとなく安心しませんでしょうか。

 電車や車でよく聞くのが、誰かと二人か三人くらいで乗り物に乗り、乗っている最中の会話に困るというもの。だから電車には広告や車窓などの「目のやり場」があるし(だから車窓の黒い地下鉄は大嫌いである)、車にはカーラジという「耳のやり場」がある。別に二人でいるのなら楽しく会話をし続けなければならないという決まりがあるわけではないが、それにしてもあれほど複雑な気持ちになる場所はない。電車にしても車にしても、それらの生い立ちを見れば、あれはただの「動く倉庫」だと見える。倉庫をいくら飾り付けしようが倉庫は倉庫だ。そして、私はそういう倉庫が嫌いである。鉄道各社は満員電車を効率よく「流して」いくために、ICカードの導入やら空いているドアへの誘導やらを行っているが、いくら先進的ロジスティクスを発揮しようが人がいるからには満員電車は満員だ。もっと「満員電車に乗ること」に迎合せず、他の乗り物で通勤・通学する人が増えたらと切に思う(社会人経験がないから何とも言いにくいが)。

 そうなると、車は渋滞するからやはり二輪車ということになるだろう。二輪車は四駆車よりはハンドルもよく効くし、税も低ければガソリンも少ない(はず)。確かに荷物を運ぶのなら四駆車やトラックが必要だが、私がいつも隣を走る車を見ている限りでは、荷物や同乗者がパンパンに詰まっている車はほとんどない。ほとんどの人は、車という空間を十分に活用できていないのである。

 さらに車の方が一般的には優れていると思われている点として、「なんかカッコイイ」というのと「エアコンが効く」というのがある。前者については人それぞれ好みがあるから何とも言えないが、私個人としてはブランドに対する理解が全くないので無視するしかない。どでかいルイ・ヴィトンの財布よりも、後ろポケットにすっと入る結婚式の引き出物の牛革長財布の方が何倍もよろしい。ポケットが少なくボールペンやらガムやらタバコやらが中で縦横無尽に駆け抜けるコーチのバックなんて想像したくない。ボルボに乗ってデートに「はあい♪」なんてやって来る彼氏にキュンキュンしてるバブル女の時代は終わったのだ。後者については、着込めばよろしい。私が人一倍寒さに鈍感であるせいもあるが(私を超える恒暖動物、常に体温の高い人は今まで2人しか見たことがない)、エアコンなどただガソリンを余計消費するだけで、まさしくエコエコと叫びながら平気で「機密情報は紙で」と述べる文科省さながらである。ユニクロヒートテック1500円を引っかけてこよう。

 

 これまた社会人経験がないから何とも言えないが、特に出勤時間などが決まっていない人も最近は増えているだろうから、そういう人ほど二輪車、できれば自転車で移動するべきだと思う。最大の理由は、移動するときに通る地域の特色がなんとなく分かるから。車で通りやすい大通りだけを疾走してしまうと見逃す「色」がたくさんある。一歩路地に入れば、旧道の雰囲気を思い出させる道はたくさんあるし、こんな家がこんなところに!という発見もたくさんある。道に関して少し深掘りすれば、今の大通りと呼ばれる道はすべて、車が通りやすいようにそれまでそこにあった集落などを排除して生まれた、それ以前の常識としてはいささか「おかしな」道路だ。建築家によれば、もともと車が走る前までは、人間の身体感覚に合わせて道路の幅も決められていたそうだ(それが残っているのが旧道や路地)。車ユーザーを辺鄙な場所に連れ回してタイヤがすり減るようにすれば自社が儲かると息巻いて創刊された飲食店ガイドが社会的地位を得るくらい車という乗り物は一般的になってしまったが、そんなに車って大事なものなんでしょうか。車という閉鎖的空間にこもって移動するよりも、きっとその場所により近づけるのではないかなあと思う。地理の勉強は嫌いでもこういう探検が好きな人はぜひ自転車を(バイクだとノロノロ道路を走るのが難しいだろうから)。まあ、大通りがなければAmazonでポチって翌日到着、なんてこともできないのだろうけれど。

 また、自転車ならば免許もいらないから、小さいころから遠くの地域まで自分の意志で行くことができる。高校生になるまで自分の地域から自分では一歩も出たことがなかった私からすれば、自分の子どもには早くからそういう経験をさせておきたいなあと思う(親の理想の押しつけです)。

 

 しかし、自転車運転もなかなかハードである。特に走りやすい大通りを走るときは、バイクや車ユーザーとほぼ同等の注意力、集中力が必要である。当たり前だが左側通行もあるし、右折時斜め後方確認も欠かせない。スクランブル交差点を越えるときにできるだけそこを歩く人に不要な恐怖を与えないように通過する方法だの、決して楽ではない。閑静な住宅街でさえ、角からのお子様の飛び出しにも注意しなければならない。まずはこうしたことを学んでおかなければ自転車乗りとしては失格なのだが、それにしても自転車乗りの立場は微妙だ。東京で自転車で1時間かけて通学していると言うと、「危な」とまず言われる。でも慣れてしまえば本当に車や電車よりも気が楽だ。もっと自転車信仰者を増やしたいものである。