あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「公式」嫌い

 昔からかなりYouTubeと縁があるのだけれど、僕の好きだったYouTuberの人たちが少しずつYouTubeから離れる動きが最近あった。しかも結構人気だった人たちだ。そのうちのひとり、「ビロガーのアリ」としてYouTubeにニュース動画を投稿していたアリさんが、「ぼくがYouTubeに、動画を投稿しなくなった理由は……」という動画をFacebookに投稿した。

 

 

 

 僕もYouTuber経験があり、考えていることこそ違えど、アリさんの気持ちがとてもよく伝わってきた。

 

 YouTubeはここ2,3年ほどで、もともとあった「アングラ」感を一蹴し「夢の舞台」へと姿を変えた。日本ではニコニコ動画に「アングラ」を譲り、YouTubeは日本最大MCNである「UUUM」(有名なYouTuberのいわばマネジメント業務をしている会社)と協力して日本の中でも「YouTuber」という夢を売ってきた。 

 それに違和感を感じたのがアリさんだった。「なんか違うんですよね」と。

 

 僕は高校生のときにYouTuberになり、受験を機に一度業界から一歩引いた。そのときに初めて冷静に「YouTuberとしての自分」を見た。

 何かを演じることは大好きだ。動画を編集することは大好きだ。リズムよく、テンポよく、パンパンパンと続いていく自分の動画を見るのが好きだ。そしてそれをみんなに見てもらう、それを数字で知ることになる。すごく好きだ。けれど、そのあたりから何か「違う」気がし始めるのだ。

 

 当たり前だが、ビジネスはお客様に気に入られてナンボの世界だ。つまり気に入られなければ話にならない。気に入られることには質と量があって、大半のビジネスはそこで量を取りに行く。コンビニやアマゾン、出版社、不動産会社、、、は特にそうだ。

 そしてクリエイターにも、質の高い作品を作るか、量のある作品を作るかで調節つまみがある。もちろん手塚治虫さんや秋元康さんのように両方のつまみが上がりきっている人たちもいる。

 

 今のところ僕が尊敬するクリエイターは、質に極めてフォーカスしている人たちだ。1日10杯限定だけど、私が世界中練り歩いて探した豆にミル、フィルター、水を使って丁寧に作りました、というコーヒーみたいに。

 だが、資本主義社会で表に出てくるのは、常に「スピード感がある」「大量生産できる」「多くの人に認識される」作品だ。つまりは量だ。そんな中で質にこだわり量をおろそかにするような人は使えないと断言される。渋谷のスクランブル交差点から見える景色がそれだ。その景色が日本のメインカルチャーだ。

 しかし、やっぱり多様性があっておもしろい、それぞれ全く違う味を突きつけてくるのは常にサブカルチャーだ。戦争の時代に防空壕に隠れながら「焼夷弾かっけえ!」と喜ぶ少年であり、不況の時代に「あたしたち、カワイイでしょ?」と写真集を売りさばく少女である。

 

 先日のベトナム勢飲み会でも出た話だけれど、幸せな話よりも不幸せな話の方が人間は興味があるし、何しろ面白い。幸せな話はみんな似通っていて時間的にも変化がないが、不幸せな話は千差万別で刻一刻と変わっていく。傑作映画に「幸せいっぱい」モノはひとつもない。

 なぜそれがおもしろいのか。その違いを考えてみると、実は不幸せな話にはきちんと「終わり」が設定されている。それがいつか分からないから不安なのだが。例えば彼氏が浮気しているという話なら「彼氏と別れる私」という終わりが見えている。自転車から転げ落ちるという話なら「転げ落ちてケガをする私」という終わりが見えている。しかし幸せな話には終わりが見えない。せいぜい「いつまでも幸せでいられますように」と言う漠然とした望みしか持つことができない。

 私たちは何かと「分かりたがる」生物である。つまり「分けたがる」のだ。分けられないもの、つまり分からないものには本能的に恐怖を抱く。恐怖とはこのときに生まれる感情である。夜道は暗いから自分の後ろに何があるか「分からない」。風景がどこまでも黒で分けられず、何がいるか分からない、から怖い。

 それも関係しているのかもしれない。「終わる」というのは「分ける」ということだ。人生には節目が必要だ、という言葉もここから来ているのだろう。私たちは学生を終えたり独身時代を終えたり人生を終えたりする。それは「分かりたがる」人間に必要なインフラなんだろう。

 

 つまり「終わり」や「不幸」という言葉に対し「ネガティブ」なイメージを持つことに必然性は全くない。むしろ変化が好きな質の人なら喜ぶべきなのだ。そこから全く新しい世界が始まっていく。ただし「誰もその先の予定を立てていない」という条件の下で。

 

 やっと本題に来た。今日御園生先生がおっしゃっていた、事前学習の目的について。

 

事前学習の目的は自分のまとっている殻(イメージ)を一枚づつ脱ぎ捨てて、身軽になっていくための作業→「常識」を捨てること

1、社会の支配的な考えをそぎ落としていく過程

  それまで身につけてきた知識や規範を一つ一つそぎ落としていく過程→【身軽になる】

2,「多数の人の意見が正しい」という迷信から抜け出る過程

3,自分をさらけ出す過程→余計なものを排除し、自分の全身で確かめる過程

 

(中略)

 

※何か新しいものを初めて観察することではなく、古いもの、古くから知られていたもの、または誰の目にもふれていたが見逃されていたものを、新しいもののように観察することが独創的なフィールドワークを生む。

(今週のプリントから引用)

 

 さらに僕のブログの一番はじめの記事「如水」に、この前兆になるようなコメントがされていた。 

 

現地(決して旅先ではない)の情報を仕入れることと、偏見を持つこととは決してイコールではありませんけど。

(御園生先生のコメントを引用)

 

  知ることは、何かを身につけるということ(足し算)ではなく、それまで持っていた(持たされていた)偏見を脱ぎ捨てるということ(引き算)なのだ。

 「学ぶ(まなぶ)」という言葉の語源は「真似ぶ(まねぶ)」だという。自分の外にある概念を真似する、つまりいったん内在化させる(袖を通す)ことによって「これは自分とは違うものの真似なんだ」とはっきり自覚することができるようになる。学ばなければ、外にある概念は自分の知らぬ間に自分の中に入ってきて、あたかもそれが自分であるかのように振る舞ってしまう。キティちゃんが好きだったのは本当はクラスの隣の席にいた子なのに、その子から影響を受けて自分がキティちゃん好きになってしまうように。

 何かを真似することで、その真似する対象と一体化する。しかしそれはあくまで真似だということがはじめから分かっているから、それを一歩引いてみることができる。それが「脱ぎ捨てる」という行為の内容だ。

 

 僕はYouTuberのまねごとをしていた。そしてYouTuberになった。一時期はYouTuberとしての自分とそうでない自分を同一視していた。けれどその違和感に正直になったときに、YouTuberの周りに広がる世界を俯瞰することができたのだ。前述のアリさんも、今、学べたのだと思う。

 

 僕はこのことが理由で、「公式」というものに鳥肌が立つようになった。もちろん毛嫌いしているわけではないのだけれど、基本的には信用していない。TwitterFacebookYouTubeが、ある程度の知名度を持ったアカウント、チャンネルに対し「公式マーク」をつけるなど、「信頼」できなくなった人たちがどんどん「これは信頼できますよ」と平然な顔をして私たちに吠えてくる。

 当たり前だが、公式にはいろんな人が注目する。「アツい」。お金も人もよく動く。

 

 林くんと授業の帰りになんとなく歩きながら話していたときに、「留学は興味ないの?」と聞かれた。僕は外に出ることに興味があるし、言語も好きだ。だけれど、留学という「留学支援先が明らかに『こういう人材を育てよう』と頑張っている感じのするプログラム」には僕はあまり気が乗らない。もちろん、それを活用するのが近道の場合もあるだろうし、僕も活用したことがある。けれど、海外に行きたい!→じゃあ留学死よう!という考えは安直すぎやしないかと思う(別に林くんはそんなことを聞いたんじゃない)。

 留学して、留学支援先が何もかもやってくれる。飛行機を取るのもホテルに泊まるのも学校に連絡して授業を受けさせてくれるよう依頼するのも、金さえ払えばあるいは実力を支援先に見せつければ喜んで「やってもらえる」。その時点で気づかないか。それは自分の力にはなっていない。単に、「お金を払えばやってもらえることはこんなにあるんだ」と気づくだけだ。

 

 公式とはそういうものだ。

 何度も言うけれど、公式を活用して自分で日々の生活において挑戦してすごいカッコイイ人になった人たちを僕は見たことがある。だから公式であることに対して、何の感情も抱いていない(と思う)。けれど、公式を「使う」はずが公式に「使われる」ことになっている人たちもいる。それが嫌で、自分はできないのだ。

 

 僕はもう、染まれないのだ。正確には、染まり切ることができないのだ。一度骨の髄まで染まりきって、それを芯まで粉々に砕いて新しい白骨を生やしたから。そういう意味では、失敗を恐れている愚か者であるだけかもしれない。けれど、堕落していたい。好きなときに、好きな場所で、好きなひとと、堕落していたい(「堕落」というのは坂口安吾の影響だ)。

 今回のベトナムプログラムにもいささか躊躇した。もし大学側がオラオラ出てきて「お前らこんなことせんかい」的なアプローチをぶんぶん振り回してきたらどうしようと思っていた。そしたらほぼ似たような境遇の人たちばかりだった。ある意味で同じ、ある意味で全く異なる人たちばかりだ。

 

 変わらないために、変わり続ける。染まらないために、染まり続ける。自分の感じる「恐怖」は「変化」だ。そして僕は「変化」が好きだ。という結果が出るのはいつなのだろう。

 

 さて、公式ヘイトスピーチが終わったところで、テーマ、何にしよう。