あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

つくるさんとはかるさん

 前回の記事、「「公式」嫌い」に御園生さんがコメントされた。その返信を書いていたら、話の筋が大幅にずれて、ひとつの記事になった。それがこれです。

 

わたしはカッコイイひと、というのは、他人からカッコイイと思われることを目指していない人だろうな、(それは公式非公式にかかわらず)と思います。

(御園生先生のコメントより)

 

 カッコイイとかカッコワルイとか騒ぐのって、その人のことを何にも知らない外野の人たちなんですよね。自分がいないその世界のことを感じているだけなんです。そして自分はカッコイイとかカッコワルイとか考えながら何かをしているとき、それをしているのは自分ではなく、自分がカッコイイカッコワルイと思っている人。

 

…というのが当初予定していたコメントへの返信…だったのですが、以下、話が逸れます。

 

 

 カッコイイ/カッコワルイという言葉は二つに分けられる。「一般的に見て」カッコイイ/カッコワルイ、「自分が感じる」カッコイイ/カッコワルイの二種である。

 前者は、みんながそう思っているからそうなるのである。大半の人がそう思っているから、あの人はカッコイイのであり、あの人はカッコワルイのである。つまり道徳的に<よい>か<わるい>かに分けることができる。

 後者は、自分がそのときどんな信条を持っていて、どんな感情で、どんなところにいて…そう自分が「感じる」からそうなるのである。あの人は「私にとって」カッコイイのであり、あの人は「私にとって」カッコワルイのである。これはつまり、個人的に善か悪かに分けることができる。

 雑な説明でスミマセン。

 

 私たちがものを見るとき(判断するとき)、そこには必ず<よい>か<わるい>か、そして善か悪かが含まれている。つまり道徳的にはどうなのか、個人的にはどうなのかという評価が出てくる。

 男性のパンツ事情を例にとろう(根拠はない)。あなたが20歳だとしたら、とあるアンケート結果によると、ブリーフやトランクスよりもボクサーパンツが一番好きなはずだ。…どうだろう? 道徳的には20代はボクサーパンツが好みだという結果が出ている。しかし個人的にはブリーフが好きな人もいるだろうし、トランクスが好きな人もいるだろう。道徳的、個人的とはそういうことである。そしてこの道徳的基準、個人的基準は互いに異なってもいいし、同じでもいいはずだ。

 

 

 話は変わって、近年、評価する人とされる人、その構図が、食べログホットペッパーAmazon価格.comなどのいわゆる「レビューサイト」により可視化されている。少数の「つくる」人と、少数の「はかる」人がバランス良くいた時代が進み、今では「つくらない」人(本来関係ない人)も「はかる」ようになって、「はかる」人ばかりが急増した。人々はお互いを「はかり」まくっている。

 さて、「はかる」ためには当然だが「はかる」対象を極めて正確に客観することが必要である。研究論文の執筆などは客観しなければならない行為の例の最高峰だろう。客観することができなければ学者、研究者にはなれない。しかし現代において、真に道徳的に「はから」れた批評などごく僅かに過ぎない。その大半は、極めて個人的な好き嫌いをあたかも道徳的な<よい><わるい>にあてはめたに過ぎないものばかりだ。そしてそのことに気づかないで批評をあるがままに受け入れ、批評に隷従する人もいる。「はかる」ことすら面倒な人は、他人によって「はから」れたものを信用する(に隷従する)。それが僕の個人的な社会の縮図だ。


P.S.

以前の記事「はねやすめ - ベトナム人(ひと)と」にちゃんとそれらしいことを書いていた。すべてはウロボロスの輪のようにつながっているかもしれない…


 めちゃくちゃ勇気ある決断してる人が、それを自覚せずにやっているということが、僕の支えになった。もちろん全員じゃないんだろうけれど、めちゃくちゃ勇気あるから勇気ある決断できる、ってわけじゃない。全然そんなことなくても勇気ある決断はできるもんなんだ。そんなもんなんだ。(「はねやすめ - ベトナム人(ひと)と」より)