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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

話しかけ、美しく、つくる、ダークサイド。

 自分について語るのは恥ずかしい限りだけれど、ちゃんと自分と向き合って考えるという意味で、べらぼうにブログに自分を晒すようにする。

 

 僕は何かを「つくる」ことが好きで、ただ「つくる」までの行程※が長すぎの人間だ。初めてパソコンを持った小学生のときにPowerpointで「そらとぶくじら」というなんとも切ないストーリー(だったような気がする)の紙芝居を作ってみたり、中学生の時に両親の結婚20周年を記念した飲み会に家族で行く様子をビデオカメラを回して番組風の動画を作ってみたり(これが初めて動画編集に触れたときだった)、Macは縦に置いて保管するとスマートでカッコイイと気づき段ボールで手作りMacスタンドを作ってみたり(母親に誤って燃えるゴミの日に捨てられた)、とにかくつくっていた。何かをつくっていたかった。

※「つくろうかな…どうしようかな…」→「つくろうかな…どうしようかな…」→「つくろうかな…どうしようかな…」→「よし! つくるぞ! うーん、でもなあ…」………

 ただ唯一僕がつくれないもの、あるいはつくったことがなくてうまくつくれないだけかもしれないもの、それが「会話」であると最近気づいた。そしてこの2日間、そのリハビリをバイトでしてきた。

 

 

 本当に憧れている。

 自分の高校には、例のごとくクラスにはスクールカーストと呼べる階層社会があった(いじめはなかったが「なんとなく」の雰囲気は感じていた)。例のごとく運動系と文化・帰宅系に分裂しており、例のごとくカッコイイところ見せ放題の運動系はクラスのヒーローだった。僕は文化系だったので、カーストで言えば底辺層だった。(スクールカーストというものが本当にあるのか、僕がそう思い込んでいるだけである蓋然性は否めない。否まない。)自分のあるいは自分たちだけの殻の中に閉じこもり、「コミュ障」という矛を盾に。中には運動系のありもしない悪口を言う友だちもいた。

 はじめは僕も、そのコミュニティの中に居座っていたのだが、少しずつ居心地が悪くなってきた。というのも、運動系の友だちが、どう考えても自分を受け入れてくれているように感じたからだ。僕の中には、運動系の友だちはみんなを受け入れているのに、文化・帰宅系の人たちは運動系の人を毛嫌いしているようにしか見えない視点があった。

 体育の授業でそれは浮き彫りになった。当たり前だが運動系の友だちはみなスポーツがうまい。それに比べると文化・帰宅系の友だちは全員ではないにしろ確かに見劣りするところがある。しかし何かあるとすぐに文化・帰宅系の友だちを励まし、ケガをしたときは持ち前の知識を活かしてケアをし、ゲームに勝ったときあたりを走り回ってみんなとハイタッチをしに来たのはいつも運動系の友だちだった。

 「相当心広くね? すげえ…」と思った。憧れた。羨望のまなざしを送った。

 同時に、自分にはそれが欠けている、あるいはそういうことをした経験が乏しすぎる、と思った。仲間に「話しかけられる」(受動)のではなく、仲間に「話しかけられる」(可能)ことのできた経験。そしてこれは、既に仲間に「話しかけられる」(可能)人にとっては「何そんなこと複雑に考えてんの?」と思える内容だろう。

 

 社交的だからとか、人見知りだからとか、そういう次元の話ではない、「話しかけられる」(可能)能力。たぶんそれは、誰にでも身につけられて、今からでも始められる大切なことのひとつなんだと思う。今日の僕がそうであったように。

 

 

「…これ、いつもご自分で召し上がってるんですか?」

「え、そうよ。どうしてもやめられなくてね…笑」

「へぇ…いつも1日に結構ご来店いただいてるので、大変だなあと思って」

「まあねえ、年も取ったしやることも少ないから。それにあそこの坂を上り下りするのも結構いい運動になるのよ」

「なるほど…」

「じゃ」

「ありがとうございます、またお願いします」

 

 

 

 

 いつからか、自分はサイコパスではないかと思うようになった時期がある。サイコパスについての本を読んでみたり、サイコパス診断テストなんていう何の根拠もなさそうな心理テストを受けてみたりした。

 サイコパスと聞くと、おそらく大半の人が「ヤバい人」と思うだろう。平気な素振りで人を殺して、バラバラにしてウッシッシ…なんて楽しんでいるような姿。

 サイコパスという言葉の公式の定義に沿っているかは定かではないが、サイコパスはそういう人ばかりではない。私の中の定義では、「自分の脳、すなわち内面を外面と完全に分離して考えることのできる人(何も「感じていない」フリができる人)」。つまりどこまでも完璧に「演技」のできる人のことを私はそう呼ぶことにした。私はその定義のもとでサイコパスであることを自称している。

 

 しかし小学4年生のときに事件があり、自らその真似をすることで生まれた「フツーの人」である自分が、僕に「お前はサイコパスだ」と吠える理由がもうひとつある。僕は「フツーの人」が「かわいそうで見ていられない」「思わず目をそらす」ような現象を目の当たりにしたとき、閉口してそのまま見続けてしまう。直接人を殺めることのできない人でも、ボタン越しなら人を奈落の底へ突き落とすことができる。そんな要領で、「他人事」であることに関して私は冷静にまじまじと見ることができる。

 ペトちゃんドクちゃんの画像も、実は小学4年生のときに既に見ている。それから結合双生児について調べたりもしている。結構な人数の、写真を見た。「フツーの人」は「きもい」と反感を投げ続けている。

 

 それからしばらくして、いろんな経験、知識を得て、それなりに思考が凝り固まってきてきたあたりで、「ああ、あのとき自分はああいうものを見て『美しい』と感じていたんだな」と思った。

 

 

 それを確信したあたりで、こんなことをつぶやいた。

 「美しい」という言葉の定義も人によって全く異なるはずだから一概に説明することができないが、いろんな形容詞を調べてみて、やっぱりこの言葉が一番自分にはしっくりきている。「美しいか否か」は、僕にとっての個人的なひとつの基準であったりする。

 そういえばZOZOTOWNやWEARを運営しているスタートトゥデイの企業理念は「世界中をカッコよく、世界中に笑顔を。」である。おそらくこの「カッコよく」という概念に、僕の「美しい」という概念はほぼ似ていると片思いしている。

 

 

 

 

 

 高校時代一時期、というより2年の後半から卒業まで、眉唾物の「有名人」になったことがある。生徒会長になった。

 それから周りの友だちとの関わり方が変わってしまった。というより、周りの友だちの僕への関わり方が変わってしまった。「赤嶺くん」「赤嶺」「ミネ」と呼んでくれていた友だちの大半が「会長」と呼ぶようになった。内でも外でも「会長」だった。僕ははじめは少しくすぐったい気がして嬉しかったが、次第にその呼び名に嫌悪感を抱くようになった。

 人はたぶん、役職で呼ばれるより名前で呼ばれた方が嬉しいように思う。よほどその役職がひどく気に入っていて、誇りに思っていて、自分をよく表していると思えるもの以外(=あだ名)以外は。少なくとも僕はそうだった。嬉しかったのは当選して「公式に」会長になった直後だけだった。

 眉唾物の「有名人」になったときに、少しだけ、「有名人」の気持ちが分かったような気がした。

 一度有名人になれば、いつでも有名人のフリをしていなければいけないようだ。もし有名人が不倫でもしようものなら、特別有名人でもない「本当の自分」も同一視され、傷付けられることが正当化されるようだ。この世界では、有名人にはなりにくい。

 

 僕のお気に入りのインストゥルメンタル・バンドで、toeというバンドがある。toeの山嵜廣和さんのインタビュー記事に、こんな文章がある。長い引用だけれど、少し読んでみてほしい。

 

山㟢:僕たちが直接話をするアメリカの音楽業界の人は、ブッキングエージェントくらいなので、業界のことがすべてわかるわけではない。でも、ライブハウスに行って演奏して、というくらいの単位で考えると、働いている人たちが、音楽に携わる仕事をしていることをすごく嬉しそうにしてると思いますね。たとえばリハーサルを見て「かっこいいね」というような感想を素直に言うし、音楽に携わることに対して誇りがあるというか。ビジネス云々は別としても、すごく嬉しそう。あとは基本的に、一般の人も含めて、音楽や芸術へのリスペクトがあるなと思います。日本だとバンドをやっていると、どちらかというとマイナスイメージでとらえられてる気がする。汚い格好してとか。年配の層はまずどちらかというとそう。でもアメリカだと、バンから機材を出すために車を止めているときとか、おじいちゃんが向こうからとことこやってきて「バンドなのか?」「何ていうバンドだ? 頑張れよ」って。そこが違う。音楽って楽しくて、気軽にできて、シーンが云々とか関係なく、いいと思ったらいい、という一般の人たちの音楽に対する気持ちがある。日本にはやっぱり、この分野はこういう音楽でこういうバックグラウンドで、というようなことがわからないと参加出来ないというか。もちろんそれも重要なんだけど、そこは置いといて、単純に音楽としてかっこいいと思っても「いいね」って、気軽に言えないところがあるのかもしれない。僕とかもそうだけど。でもアメリカではあまり関係なくて、「いいね」って思ったらおじさんやおばさんも来る。見たことのないバンドでもライブハウスでやっていたらふらっと見に来る。日本は全くそういうのがないから。絶対にない。1%もないと思う。

佐久間:その気軽さがやっぱりすごく違いますよね。すごく好きな人じゃないとわざわざライブを見に行かないというところが。ニューヨークのtoeのライブの時に、隣に立っていた男の子が話かけてきて、2ヶ月前に友達がtoeのことを教えてくれて、それから毎日聞いてると。その、いいと思ったものをいいとみんなが共有して、どんどん広がっていくというのがまだ生きているのかもしれない。

山㟢:あとはアートの話になるけど、超モダンアートの美術館にもおじいさんやおばあさんがすごくいるじゃないですか。こんなのおじいさんたちが見てどう思うんだろうと思うけど、みんな普通に見てる。自分が理解できなくても新しいものを見たいという意欲があるし、間口が広い気はする。日本人全員がそうだとは思わないけれど、わからないことは恐かったりとか、バカにして終わりにしたりとか。だからこそ(アメリカではアートが)ビジネスにもなってくるんだろうし。友達とも話していたんだけど、日本だと「おじさんがお金払う」ってなると、やっぱりいろいろ気になっちゃって、プロジェクトの内容自体に口を挟まずにいられないというか。アメリカには、投資する側がそのプロジェクトの内容を理解する云々よりも、若い人がやってることにお金をだすことが、「新しいシーンを生んで莫大なお金になる」ということがわかってるというか。実績もあるだろうし。だから、新しいものがすぐに大きなビジネスになるような土壌がある気がしますね。日本は新しいものを若い人がやってもやっぱりそこにお金がなくて、結局尻窄みになってしまったりね。

toe 山嵜廣和というスタイル - dia STANDARD より引用)

 

 ついでにtoeの曲をご紹介しておこう。

 

 

 日本とアメリカのアート界が単純に二分割されているだけだが、この文化の違いは大きなものだと思う。「有名人」を特別視しない精神。それは、アメリカの持つ「平等」病が原因かもしれない。キリストの名の下に、私たちはみなBrotherであり、Friendである。だからこそ、英語には丁寧に言う表現はあっても「敬語」というひとつのれっきとした文法を見出すことはできないのかもしれない。

 今日も原宿で、檻に閉じ込められたユウメイジンに向かってユウメイジンノファンが手を振っている。「握手したこの手、一生洗わない!笑」

 

 

 「かわいそう」ということばは、辛い気持ちを綴った投稿に「いいね!」をするのと同じである。

 

 

http://www.gizmodo.jp/images/2013/07/20130701likesdontdoshit01.jpg

from gizmodo Japan (http://www.gizmodo.jp/2013/07/facebook_72.html)

 

 

 

 

 

 これが僕の、ダークサイドである。上から目線に感じるかもしれないが、これは上から目線ではなく「横から目線」で書いているつもりだ。僕は儒教を信仰していない。お年を召された方すべてが、若者に尊敬されるのは当たり前だとは思っていない。親に自分を生んでくれたこと、育ててくれたこと、愛してくれたことについて感謝すべきだが、尊敬するかしないかは子の自由であると考えている。そういった意味で、人はみな平等であるべきだと考えている。インターネットですら平等になれない僕たちに、インターネットでさえ自分を消せない、ポジショントークしかできない僕たちに、逃げ場所なんかあるのか。自分を守るために笑顔を見せて、平和を謳い、後ろ手で自らに同調しない者の首に刃をつけているサイコパスに溢れた世界に、逃げ場所なんかあるのか。その逃げ場所は、自ら「話しかける」ことによって生まれるのかもしれない。自ら傷をつけることによって生まれるのかもしれない。いじめに慣れた者たちが、腕を切るのは象徴的である。何かを、誰かを傷つけてみることから始まることがあるのかもしれない。何かを終わらせることで生まれるものがあるのかもしれない。

 

 皮肉は嫌われる。鬱陶しい。けれど、はじまりとおわりはナラティブに循環しているのだ。

 

 フィル・コリンズは大切なヒットソングで、ワンフレーズを間違えたようだ。「No, you just have to wait(違う、君はただ待つべきなんだ)」。No, you just have to start talkin'. あるいは、waitの意味が、僕の考えるwaitではないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 頭から浮き上がってくる壁に怯えよ、そして喜んで水になろう。

 「話しかけられる」ようになりたい。受動、可能、ともに。