あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

よう、お前は死んでるんだぜ!

 巣子守くん(ベトナム勢のなかまたちは、ブログでは全員「くん」「さん」付けでお呼びさせていただくことにします)のジャーナリズムについての記事を読んで、触発されて自分の思う「メディアについて」を書いていく。

 

 

 

 

 

 メディア(Media)とは、ミディアム(Medium)の複数形であり、どちらも「媒介するもの」という意味。つまり、AとBの間をつなぐ存在である。水道管や電話線、紙やコンピュータ、お金や言語まですべてメディアと言うことができます。

 ※余談ですが、このメディアによって運ばれる「文化情報」のことを「ミーム(meme)といいます。ミームとはすなわち、「模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。文化の遺伝子。」

以上2行の出典は

ミディアム【medium】の意味 - goo国語辞書

ミーム【meme】の意味 - goo国語辞書

 

 私たちは近年この「メディア」を能動的かつ効率的に活用していこうとしている。それが新聞やテレビ、インターネットだ。水道管や電話線などと違い、これらは「情報」を伝える。情報によって人は行動を起こしたり考えを改めたりすることができる。そしてこの「情報」を伝えるのに、物理的なモノの移動は一切ない。

 さて、メディアの種類が多様化し、活用手段も日に日に増えていく中で、私たちはメディアを通して何かを「伝えたい」と思うようになる。これまで「伝えられなかった」感情や情報が「伝えられる」ようになった。あのときあの場所で言えなかった気持ちを歌にして届ける、自分の著書のどこかに淡い思い出と題して書いてみる、なんてことができるようになった。しかしその分、「正確に」伝えることが難しくなった。メディアの種類がいくら多様化しようとも、最も正確に伝えることができるのは、やはり現実世界で同じ場所で同じ時を過ごすしか方法はないのである(それでも全く誤解のないように伝えるのが難しいのは既知の通り)。

 

 僕はよく音楽を聴く。何かの音楽を聴きたいと思ってまず初めに考えることは、「何を使って聴きたいのかな」ということだ。聴く環境によって音の感じ方はまったく異なる。僕は「聴く」媒体としてヘッドホン、イヤホン、スピーカー、パソコンのスピーカーと4通り持っている。それぞれに異なる音がするし、異なる雰囲気がある。そんなわけだから、「今日はこれで聴きたい」というようなわがままな嗜好が飛び出すのだ。

 聴く場所も重要である。家の中では元々静かなので、かなり細部まで音がクリアに聴ける。しかし街中では騒音が激しいため、その騒音でさえ音楽の一部になる。音楽の方にも、それぞれ「人の行き交う街中で聞いてほしい」だとか「家でひとりで聴いてほしい」だとか注文をしてくる。それに合わせてこちらも選ばなければならない。

 スピーカーも、しばらく聴いていて分かったことだけれど、部屋のどこに置くかで全く印象が異なってくる。基本的には部屋の真ん中に置くのが好みなのだけれど、例えばサックスがメインのジャズなんかは部屋の角の隅にスピーカーを置いた方が、サックス奏者の心情なんてものをよく表している音が出る。こだわればこだわるほど、音という領域はいろいろと面倒なことが増えるようだ。

 

 要はメディアは日に日に多種多様になりすぎて、もはや「音楽」という一つのジャンルでさえも「全く同じ環境で聴かれる」ということが難しくなっているということだ。つまりいくら自分がマイクに向かって「こんな気持ちだー!」と歌ったところで、側で聴いてもらわない限りは誤解されることもある、ということだ。

 このブログでさえも、Windowsの「MS ゴシック」という角張ったフォントで読めば「ただの文字の羅列」に見えるし、「MS 明朝体」で読めば文豪の書いた文章っぽくなるし、Macの「ヒラギノ角ゴシック」で読めばまた違った印象を受けるだろう。あるいは僕のよく使う言葉が、人それぞれの経験によって心地よく感じたり鬱陶しく感じたりすることもあるだろう。メディアは多種になるにつれて、正確さを失う。これはよく覚えておいた方がいいなと思った。なぜならメディアは、いくらでもかたちを変えうる、もはや水、川、海のような存在になっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 こんな自己啓発の常套句がある。

 

「あなたのまわりの人に、いつもブスッと不機嫌そうな顔をしている人はいますか?

 もしそんな人がいたら、一度勇気を出して、その人に『こんにちは』と優しく声をかけてみましょう。

 おそらく、その人も笑顔で『こんにちは』と返してくれるでしょう。

 そしてあなたは気づくはずです。

 あなたがいつもその人に近づいたときに、ブスッと不機嫌そうな顔立ちをしていたことを。

 他人はあなたの鏡なのです。」

 

 この現象は、「人間」というメディアこそ最も形を変えやすい性質を持っていることの最も正確な証明になると思っている。

 メディアというものを考えるに当たり、見逃してはならないまさに灯台もと暗しであるメディアが「人間」である。つまり「私たち自身」である。メディアが運ぶのはミームであり、ミームとは何かと言えば、元々は人間の脳の中で生まれた何かなのである。それは「あそこの谷に肥えた鹿がたくさんいるよ」というミームであったり、「この男はデブでいつも無表情で不健康そうね(=繁殖能力が低そう)」というミームであったりする。

 ここで区別してもらいたいのは、ミームとはただの情報であり、個々人特有の感情が含まれるのはメディアの方である、という点だ。つまり先ほどの例で言えば、「あそこの谷に肥えた鹿がたくさんいる」という情報単体のことをミームといい、それに付随して起こる「鹿かぁ! うまそうだなあ! よし! さっそく父さんと狩りに行こう!」と思うのはメディアである、ということだ。

 文化圏が違えば当然メディアも変わってくる。鹿肉が嫌いな民族は「あそこの谷に肥えた鹿がたくさんいる」というミームに対し「だから?」というネガティブなイメージを発するメディアを持っているだろう。

 

 先ほどの自己啓発の文句は、自分というメディアを変えるだけで、自分自身から発せられるミームが変わり、それが相手に伝わり相手というメディアが変化する…というメディアの根本的な性質をうまく謳ったものである。「Everyone is an artist.」にも共通してる概念だ。すべての人が他人と対面するとき、あらゆるミームを自分のメディアを以て伝えているのである。

 

 そして自分のメディアとしての役割を一度忘れ、自分が持っているあるいは発しているミームを改めて見直し、微調整していく作業、それが孤独なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 SF(サイエンス・フィクション)は映像作品というものが生まれた19世紀から頻繁に囃されるひとつの概念であるが、私たちが想像しているSFの世界は、抽象的な概念となって、私たちが生きる「今」になっていることに気づいているだろうか。

 電気は、それまで夜になればあたりが真っ暗で何もできなくなっていた人に「夜に何かをする権利」を与えた。電話は、それまで地理的に離れたところにいる人と人双方に「話す権利」を与えた。スマートフォンは、それまで電源の確保できるところでしかインターネットを利用することができなかった人に「外でも誰かとつながる権利」を与えた。

 これらの、新しい技術の登場がそれまでいわば「サル」同然だった私たちを「人間」に進化させたような現象をよく表しているSF映画がある。2001年宇宙の旅、である。この映画でサルたちの前に突如現れる「モノリス」が、まさに電気であり、電話であり、スマートフォンなのである。SF映画は、抽象的に、既に私たちの世界を形成している。SF映画は決して遠い未来の夢物語ではなく、忠実に現代を表しているのである。

 

 SF映画の題材として、目にモニター、肌に感覚センサー、といったように私たちの五感すべてに刺激を与える機械をつけて生きている人々、という設定がある。私たちは今、私たちはそういった機械をつけてはいないということを、証明できるだろうか? この命題は僕が小学生のときかなり長い期間を費やして考えた初めての「永遠に解決されない問題」である。

 人間は既に、仮想空間に生きている。養老孟司氏だったと思うが、都市に住む人間は既に「脳社会」に生きていると説いた。建築物というのは人間が脳の中で生み出し、それを現実の物質で再現したものだ。つまり、ある人によって建築された建物に住んでいる人は、それを作った人の脳の中に住んでいる。このような社会を養老氏は「脳社会」と呼んだのである。それはまさに、SF世界で言う「仮想空間」だ。

 もし私たちが脳の中で描いていることをそれ自体を「フィクション」と呼ぶのなら、リアルはフィクションによって作られていると言っても過言ではない。少なくとも「人間」にとっては。フィクションというメディアから生まれるミームというリアル。この4語は繋がり合っている。

 

 

 

 

 

 

 最後に、この記事のタイトル「よう、お前は死んでるんだぜ!」(レーベルのタイトル和訳をそのまま引用しました)について考察してみよう。この奇妙なタイトルのアルバム「You're Dead!」を作ったのは、音楽プロデューサーでありDJのFlying Lotus(フライング・ロータス)である。

 

http://www.beatink.com/Labels/Warp-Records/Flying-Lotus/BRC-438/img/jacket_img_L.jpg

from beatink

 

 日本の漫画家、自身を奇想漫画家と称する「駕籠真太郎」さんがアルバムのイラストを手掛けたこの作品において、Flylo(Flying Lotusの愛称)はこの言葉を述べた。

 彼が「アルバムの意味とこの熱意を反映した映像[出典]」と自負する「Coronus, The Terminator」の映像を見てみよう(このMVにはグロ表現などは一切出てこないのでご安心を、このMVには、ね)。

 

 

 「死んでいる(dying)」という概念の定義は人それぞれだろうが、もしそれが身体の使用期限を終えた状態と考えるならば、死んでいないのは精神である。もしあなたが人間が本来持っているはずの身体性なるものを失っているのなら、あなたは死んでいるということになる。

 これまで述べ連ねてきたことは、すべて「死んでいる」世界の描写である。殻としてのメディアと、その間を流れるミームたちは、まさに「死んでいる」私たちの間を流れる情報である。

 

 

 情報は、「死んでいる」。だが、それを受け取る私たちは生きているはずだ。なぜなら、私たちには身体がある。私たちには自我がある。だが、そういったいわゆる「人間らしさ」を失ってしまえば、いくら私たちが物理的に生きていようとも、私たちは死んでしまうのである。

 そして余談かもしれないが、人が孤立(≠孤独)していく中で、「死んでいる」人と「生きている」人はどんどん激しく二分化していっている。極端に分かれ始めている。そんな中で、死にながら生きる人の存在は、果てしなく価値の高いものになるだろう。

 

 

よう、お前は死んでるんだぜ!

http://runthetrap.com/wp-content/uploads/2014/10/fb.jpg

 

from runthetrap