あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

自由

 御園生先生が「学ぶことは、脱ぎ捨てること」とおっしゃってから、そのことをずっと引きずっていた。久しぶりに概念のでんぐり返しが起こった。

 

 はたして「子どもは自由」は本当なのだろうか。子どもは生まれながらに自由な発想をし、自由に絵を描き物を書き、自由に生きることができるのだろうか。

 答えはNOだ。生まれた直後の赤ん坊が、一番不自由なのだ。ただ鼻から空気が入ってくる感覚が気持ち悪くて(背中に注射針入れられてセメントちゅるちゅる入れられる並みの気持ち悪さらしい)、ずっと声を聞いていたお母さんがどこにいるのか知りたくて泣きわめくことしかできない。両親に慰めてもらうことなしにはわめき散らかすことしかできない。

 オオカミ少女の話は有名だろう。彼女が世に知れ渡ってから、人は教育をされないと私たちが理想として掲げる「人間らしい生活」=「自由な生活」はできない。彼女はまさに、人間として生まれながら動物の本能に縛られ、不自由な生活を送ったのである。

 

 子どもは不自由である。だからこそ、自由を引き出してあげる教育をするのが教育者の役割である。

 

 

 そもそも自由とは何か。日本にはもともとなく、文明開化とともに「健康」「平和」などという言葉と共に輸入された言葉なのだが、元の英語はfreedomあるいはlibertyである。freedomは「元々自由である様子」、libertyは「解放からの自由」(自由の女神は「Queen of Liberty」)という意味である。

 もともと仏教に自由という言葉はあった。だが仏教的な意味合いとしては、「自分を由(よりどころ)にする」というニュアンスで、言い換えれば孤独に親しむ、自らを律する、といった風だった。それが「何にも寄らずに自分で生きていく」という概念で合致し、この2つの単語に自由があてがわれた。

 

 この成り立ちから見れば、Libertyと自由に関しては、元々人間は自由ではない、というのが前提条件として見えてくる。

 

 

 建築学科の講義に潜り込んでみた(講義内容は気が向けば)。建築士は、自分の設計した図面に「自分の無意識」が入ってしまうととても仕事にならないのである。仕事はあくまでも「自分の好き嫌い」を完全に分離し、顧客の好き嫌いに合わせて客観的に進めなければならない。建築士は図面を描くことにおいては一種のアーティストのようなもので、やはり自分の無意識を極限まで意識化することがイコール修行になる道なのだ。

 「下手な考え休むに似たり」ということわざがあるが、程度が過ぎればただの愚民政策用語に成り下がる言葉だと思う。確かに要らぬ知識をつけることで行動が遅くなることは往々にしてあるがそれとは違い、何かを理解したいと思うのなら、やはり無意識を意識化する修行をしなくてはならないのだ。

 いろいろなことを知ると何が起こるのか。自分の視界の「解像度が上がる」のだ(友人の言った台詞でとても好きなものだ)。例えばこの文章を真剣に読んでいただいているあなたには、ディスプレイの奥に見える部屋の壁やイス、街の風景や先生の顔色が全く見えていないだろう。「視界」としては見えているはずなのに、である。私たちの視界は、脳に必要以上の情報が行かないように、勝手に制限されているのだ。

 何も知らなければ町並みを歩いても何も感じないだろうが、歴史を学べばそこを通ったであろう将軍の勇ましい優馬の映像が浮かぶだろうし、都市デザインを学べばその都市がどのようなデザインを施されているのかに感嘆するだろう。私は何も知らないが、そこには私が考えてもいないことを真剣に考えてやってみた人が残した作品があるのだ。

 

 「解像度を上げる」というのは、見る対象物を作った人の込めた概念を見つけるということであり、それが見つけられれば、他のものとは区別して対象物を見ることができるようになる。つまり他とは違う、と「分けられる」ようになる。「分かる」とはこのことである。

 

 

 

 ブログに自分の考えていることを書いていくようになって、「自分はこんなに自分の思いを乱暴に書いていって、金にもならない(しかも特段面白い話でもない)ことをウダウダ書いていってただ自己主張がしたいだけなのか? 認めてもらいたいだけなのか?」と考えたことがある。けれどそういうわけではない。確かに僕は自分の…言っちゃえば排泄物をオラオラオラと皆さんに見せまくっているのである。自分がスッキリする目的だけのために。そう考えてしまって滅入ったことがあるのだけれど、でもそういうのだけじゃない。

 ブログに書けるレベル、つまり自分の今の力量でさえ意識化できるようなつまらない内容、思考、考察なら、他の場所に放置していけばいいのである。僕の無意識には、もっと可能性があるはずで、僕はその無意識をどんどん拾い上げていく作業に徹するべきで、意識に上がりきったもので手遊びをしている時間など僕にはないのである。

 「書いて残す」というより、「書き捨てる」という感覚。もちろん後で見返すのも大事なのだけれど、そこに浸らないように気をつける。なぜなら捨てたものだから。

 泳いでいるとき、息継ぎは吸うというより吐く意識を持った方が多く息を吸える、というのはプール授業でよく耳にする。それと全く同じなのだ。吐いて吐いて吐きまくる。薄っぺらで何にトリエもない自分に出会う。ああ、ほどよく薄まったね。でもまだ、無意識がついている。人間の無意識は、そんなレベルじゃないはず。なぜなら無意識は、人間が誕生して何百万年もの歴史の中で磨き上げられたものだから。

 

 

 無意識の自分を信頼し、どんどん意識化していくことで、人は自由を目指す。無意識の自分は人類共通などではない。だから、自由は集団で目指すものではなく、個人で目指すもの。

 さあ、もっと遠回りして、無駄なことをして、堕落して、自由になろうか。