あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

宗教、教育、理想像、崩壊

 学部の「市ヶ谷基礎科目」で文章の書き方を学ぶために川鍋先生の「文章論」という講義を取っている。毎週文章を書いてきたり、漢字テストがあったり(案外書けなくて情けなくなるものばかりが嫌味のように並べられている)して、相当ハードだ。けれど、特に文章を書く課題への先生の「赤」が本気すぎて、毎回感服してしまう。大学に来たのだから、それも学費がバカ高い大学に来ているのだから、やっぱりいろいろと身につけたい、手を出したい。し、遊びたい。川鍋先生はそんな幼稚な好奇心にきちんと対応してくれる数少ない教授のひとりだ(でもめちゃくちゃ第一印象怖い。ビビる)。

 

 そんな川鍋先生の「文章論」で出た課題は、毎日新聞の「初等中等教育の問題」についての記事を読んで、その問題点について自身の体験を交えあなたの考えを書きなさい、という問題だった。なかなか骨の折れる課題だった。何しろ、「自身の体験を交え正論を述べる」ことって難しくないか。自身の体験について思ったことや感じたことは、明らかに人類全員の概念ではないはずだ。それなのにそれを利用して一般論を述べろなんて… この類いの問題が一番苦手である。

 この課題文となった記事は、「水からの伝言」について書かれている。簡単に記事を要約すると、

  • カイワレ大根の生長が人間の言葉の影響を受けるかどうかを調べ、偶然出た「その通りだった」答えを信じ込み、影響を受けるという結論を出した。
  • この一見がマスメディアによって広められ、「きれいな言葉を使いましょう」という名目で小学校の道徳や総合学習の授業で教えられた。
  • 賛否両論が社会からもたらされた。それは「道徳的な考え方をなぜ科学と結びつけなければならないのか」という視点からだった。

というものだ。

 

 おそらく真っ赤になって(「調べ物が足りない」だの「、が多過ぎる」だのと書かれて)帰ってくるだろうが、僕の書いたこの記事に対する拙文を載せておく。

 

 この記事から読み取れる初等中等教育における問題点は、生徒に反論の余地がほぼなく、正当な理由なく反論できずにいる生徒が共同体から排除される傾向にあることだ。
 私が小学五年生のころ、国語の時間の冒頭に漢字テストがあった。漢字ドリルについてくる十問の問題を各々解き、席の近い友だちとグループになって採点し合うのだが、私だけは、毎回微妙なところで間違いを指摘されていた。はねる方向が真っ直ぐでない、止めるときの筆圧が弱いなどといったところである。クラスの担任の教師でさえその空気に同調していたため、私は何も反抗することができなかった。この現象は、まさに初等中等教育における問題点が悪循環を引き起こしている好例である。友だちが悪意を持って過剰に間違いを指摘し、それに教師も同意し、教師が言うことは正しいと思い込んでいる友だちがさらに自信を持ってより過剰に間違いを指摘するようになる。初等中等教育において、この現象はおそらく傾向として存在すると考える。
 元々教育には、宗教が前提にあった。牧師やお坊さんより正しい存在である教祖や教典があり、それに基づいて教育が行われた。しかし現代、宗教は影を薄めた。それは教祖や教典の正しさを証明するために生まれた科学が、あらゆる宗教の矛盾点を浮き彫りにし、自らの地位を上げていったからである。高度に科学的研究が進められている現在、再度宗教がその権威を発揮することは不可能だと思う。故に初等中等教育に携わる者は、教育というものに対しての意識、即ち「正しいことを教える」という意識を変えなくてはならない時期に来ているのではないかと考える。
 近年は「教え込み型教育」から「引き出し型教育」へと移行する試みが世界中で行われている。これにより、この記事のように教師に正義を押しつける現象は減っていくのではないだろうか。

 

 今回はこの後者の部分について掘り下げていきたい。

 

 僕が関心のあることについて語ったとき、「宗教と自然体」というワードを出した。これは前記事「1.「学問とアート」」でも触れたが、このワードは対を成すようにできている(正確には「宗教的状態と自然体」が正しい)。つまり僕は、宗教的状態にある人と自然体である人は対の関係になっていると考えている。

 

 日本では宗教といえば、やはりオウム真理教徒らが起こした地下鉄サリン事件の影響が根強く、単なる「怖いもの」「近づいてはならないもの」「触れてはならないもの」として認識されがちだ。だが、元々は僕たちも日本史を学べば分かるように、今思うと「本気か?」と思うほどに日本独自の仏教を信仰していた。

 ところで、今の日本人はどんな宗教に入っているのだろうか。おそらくほとんどの人が「私は無宗教だ」と答えるであろう。しかし僕はそうは考えていない。なぜなら宗教的状態の反対は僕にとっての自然体であり、自然体である人間が「年上の人を無条件で尊敬」したり、「場の空気を読んで言いたいことを控え」たりすることはないからだ。

 おそらく日本人は、もっと広義的な意味での宗教に属していると思っている。それを井沢元彦氏は「逆説の日本史」の中で『「ワ」の精神』と名付けている。つまり、宗教とは本来、「神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み[出典]」であるはずだが、この「神・仏などの超越的存在や、聖なるもの」がいわゆる「世間」であるのが日本の現代に残っている宗教である。仏教、儒教キリスト教などあらゆる宗教がごちゃまぜになって、それぞれのいいとこ取り(というより、ワガママに都合良く取っていっただけ)をしたのがそれだ。

 故に、現代の日本人には「正しさの基準」というものが存在しない。5年前の東日本大震災では、最後の砦だった「国家」でさえも常に正しいわけではないことが証明された。

 

 「急成長している」社会には、強い共通の信念が必要だ。例えば高度経済成長期が日本に訪れたのは、日本が戦争での敗北に打ちひしがれている中で、「豊かさ」が私たちを幸せにする、それならもっと社会を豊かにしよう、という共通の信念があったからである。アメリカという大国が生まれたのは、欧州で教会の在り方に悩んだ末に、キリストが本当に理想としていた社会はこれではない、私たちは自分たちの手で自由を勝ち取らなければならない、私たちは正義の名の下で独立する、という共通の信念があったからである。

 信念とは、情熱に変わり、行動になる。つまり、そのときそのコミュニティにいる人の多くが持っている「論理」を超えることのできる「新しい論理」を唱えることが、社会を急成長させる。

 

 自分の「論理」を超えられた側は、その「新しい論理」の可能性を発見したとたんにそれを妄信的に「神格化」してしまう。例えば合否の決まる試験の前に、私たちは神頼みをしたり運命に流されることを容認したりする。これは一種の安らぎを与えるが、このとき感じるそれは、神あるいは聖なるものの存在に出会ったときに訪れる人間特有の感情である。当たり前だが、神格化する前に一度自分の中で疑問を呈し違和感を覚える人もいる。

 この、他人の論理を神格化している状態、この状態にいる人が宗教教徒である。その教徒たちが集まってできたコミュニティを宗教であると、私は定義している※。

 

※「宗教の定義」というものは辞書的な意味を除いてそもそも定まっておらず、それを決めることはかなりの難題である。

 

 

 

 何かを成すときに必要なのは宗教(≠信念)である。これは容易に同意していただけると思う。何か盲目的に信じる物がなければ、私たちはエベレスト登山に行こうとも思わないし、起業してあるいは単身で世界を股にかけるお仕事をしようとも思わないし、隣町のスーパーまで行ってより安価な消臭剤を買いに行こうとも思わないはずだ。それが崇高なことであると信じていたり、それが世界を豊かにし自分は世界に貢献できると信じていたり、チラシが本物であると信じていなければできない行為だ。

 また、より大きなことを成すためには、コミュニティが必要である。一人ではできないことを、コミュニティと協力して一緒に成す。そのためには、コミュニティとも信念を共有しなければならない。そしてそれが共有できたとき、そこに新しい宗教が生まれる。

 

 そして、教えられる側に何も決定権がなく、その周りの者がすべての決定権を持つ、私たちが人生で初めに出会う宗教こそが、「教育」である。教育者は教える者であると同時に、何らかの宗教(信念)を持たなければならない。これは教育が持つ最低限の条件だ。そうでなければ、今日教えることが昨日教えたことの全く逆になりかねない。

 「教育」その形がどんなものであれ、私は「教育」を全く受けなかった人間は死んでしまうだろう、と考えている。幼い頃から育児放棄をされた子どもでも、親以外の人、メディア、動物(つまり独自のコミュニティあるいは宗教を持っているもの)から影響を受けることができる。一緒に触れあい遊ぶ、という行為だけでも「教育」と呼べるだろう。

 人間以外の動物は、本能として「餌を探す」術を身につけていたりする。しかし人間はそれが一切ない状態から生まれてくる。私たちにある本能は「他の人間とつながる」ことただひとつである(もちろん「生きたい」という欲求がある前提である)。それが人間が社会的動物である所以である。※

 

※この手の「人間の本質」論は、しばしばその本質に当てはまらないと考える人の自尊心を傷つけてしまうおそれがあるが、それを目的として記述していないことを明言しておく。そもそもこの本質でさえ私の持つ宗教あるいは信念であることに相違はない。

 

 「なぜ」私たちは他者を教育するのだろう。自分と関わりのない者であれば尚更である。それは常に、宗教を持っている人々の中には「理想像」というものが存在するからである。そしてその理想像に自分が近づくことができるかもしれない、と感じられるとき、私たちは教育を施すのである。もちろんこれは教育するという行為でなくても、理想像に近づくためなら私たちは三年もの長い間石に座っていることができる。

 つまり教育は、教育者が自分の理想像に近づくためのひとつの過程として行われる行為のひとつである。

 

 

 

 そして私たちは、いつかその宗教が崩壊することを知っている。知ってはいる。この崩壊を、私たちは「革命」と呼んだり「時代の転機」と呼んだり「ターニングポイント」「カルチャーショック」とカタカナにしてみたり「SEKAI NO OWARI」とバンドの名前に掲げてみたりする。

 重要なのは、崩壊する宗教のその有様を人間が受け入れ、新たな宗教を築くことができるか否かという点である。

 外山滋比古は著書「人間的」の中で、「かわいい子には旅をさせよ」の定義について書いている。「かわいい子には旅をさせよ」は、子どもに自律を教えるために子どもをお手軽ひとり旅に連れて行け、というニュアンスで伝えられている。しかし外山はそうではなく、子どもには旅をさせて自ら「第三者の先生」を見つけさせよ、という教訓であると考えている。つまり昔から教育を行ってきた者(親や教師)ではなく、自らが尊敬に足ると感じる先達を自分で見つけるべきなのだ。

 

 そのとき、私たちは恐怖を覚えるだろう。自分が今まで身につけてきたものは一体何だったのだろうか、と。少し頭が発達していれば、自分の存在意義という哲学の最難題にも触れるだろう。周りの世界が突如にして消え失せ、自分だけがふわふわと暗闇に浮かんでいる感覚。地面に足をつけることができず、それを待ち焦がれる感覚。

 しかしそれに耐えなければならない。「耐える」とは何もその崩壊に巻き込まれるのを待つという意味だけでなく、その現状から逃げ出し、逃げた先で新たな生活を始める覚悟を持つ、そんなことでもいい。なんでもいいから、とにかく耐えなければならないのである。

 

 

 

 そして私はこれまで述べてきた、

①何らかの宗教に所属する

②宗教から教育を受ける

③教育により自らの理想像を作り、それに従い行動する(他者に教育を施したり)

④宗教が崩壊し、①に戻る

という流れのことを、「離散と再構築」の繰り返しであると呼んでいる。つまり構築されていたあるものが離散し、すなわちお互いに散り始め(その散り始める様子はビッグバンのようであったり、気づいたらいつの間にか連絡を絶やす忍者のようであったりする)、その離散した破片がまた再構築され…の繰り返しである。

 

 

 こぼれ話

 私にとっての文化の定義は、この構築された宗教が生み出し、共有する目に見えないルールのようなもの、である。

 

 

 それを表現した作品が、私が今SNSで使用しているアイコンの画像である。

 

 

 

 

 

 

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 今私たち日本人は、「④宗教が崩壊している」つまり完全に離散している状態にいる。そんな時期に教育をするということは、つまり個人的に何らかの宗教を盲信する(自分を自分で再構築する)ということである。そしてたくさんの人が、それぞれに独自の宗教を盲信することが折り重なり、いつかまた「③教育により自らの理想像を作り、それに従い行動する」の状態にいる人から「革命」と呼ばれたり「時代の転機」と呼ばれたり「ターニングポイント」「カルチャーショック」とカタカナにされたり「SEKAI NO OWARI」とバンドの名前に掲げてみられたりするであろう。

 この流れの中で教育は、間違いなく、どんな形であれ、流れを促進させる存在であることは間違いない。

 

 

以前ご紹介したけれど、この音楽はこの「離散と再構築」を表現している曲だと、僕は想像しています。「枝が割れていく」。