あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

コミューンの障の神(さえのかみ)

 「私はコミュ障だから(笑)」という人がいる。この常套句には、4つの問題がある。

 1つ目、「私は〜だ」と言う点。本当に〜である人は、そんなことを自覚していないことが多い。例えば今、私たちがリラックスしているときに、「私は日本人だ」とか「私は女だ」とか「私は宮沢賢治の作品を読破している人だ」とか「私は昨日駅前のコンビニで2Lの水を10本買おうとして咎められた人だ」なんてことは考えない。同じく、本当にコミュ障である人が自分のことをコミュ障と呼びはしないだろう。あるいは「コミュ障から抜け出したいとは思ってるけど」という想いを少し持っている人かもしれない。

 2つ目、「から」と言う点。この文章の次に続きを少し考えてみよう。「(私はコミュ障だから)バリメチャこみゅにーけーしょんヘタクソなんよ、許してね。あ、うん、そうそう、キミが私の言葉に傷ついても、私そんなつもりじゃないの。だってコミュ障だから。あ、だからそういうレベル高い会話やめてくれる? そういう話、私頭も弱いからついていけないの。なんで? だってコミュ障なんだもん。」 この「私は〜だから」という理由だけの提示には(文法的に言えば理由を言うには必ず理由によってもたらされる結果がある)、結果がある。それが「だから」に続く文である。そこを推測させている文章なのである。

 3つ目、「(笑)」と笑う点。一般的に笑顔は「いい」とされているが、私はそうは思わない。笑顔には2種類ある。不完全な笑いと完全な笑いである。不自然な笑いと自然な笑いと置き換えても良いだろう。人間は、何か初めてのことをやるとき、意識的に行動する。例えば自転車に初めて乗るとき、誰だってサドルにまたがった瞬間に「こけまい」とするだろう。初めから無意識に足を前後にくるくる回せる人はいない。そして意識的に行われる行動は、不自然である。「慣れ」とは行動が自然であることで、無意識に行動しているということだ。無意識に出る行動や反応、現象を、私たちは「自然」と感じる。不完全な笑いは、確実に意識的にやっている。つまり「笑う」以外の思惑があって笑っているのである。この場合なら、自分を守りたい、という欲求である。不完全な笑いが完全な笑いに見えれば、それは自分を守ることができる。いじめられていた私は、いつもニコニコしていた。自分を守りたかったからだ。自分を守ってくれる人が出てきてくれるのを待っていたからだ。

 4つ目、「コミュ障」というものがあると盲信している点。人間は名前をつけたがる。コミュ障、根暗、意識高い系(この言葉を打とうとするといつも「石北会計」が邪魔をする。狙ってるんじゃないか)、社畜、かまってちゃん。頭がいいのは初めに名前をつけた人だけで、あとはその名前に安堵するか拒絶するか受け入れるだけだ。たぶんコミュ障という言葉に安心する人は、自分が宇宙人だと説得されれば「私は宇宙人だから(笑)」なんて口走ってしまうかもしれない。言うまでもなく、こんなことを言うタイプは簡単な詐欺に騙されやすい。

 

 ちなみに「私はコミュ障だから(笑)」と言ったのは誰か。言うまでもなく私である。ぽろっと出ちゃった。二度と言うまいと自戒する。