あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

孤立してみる

Try to do Isolate

 

 浅田さんがベトナム勢を飲みにつれていってくれたバーのマスターと、早々にいろいろな話をさせていただいている。

 

 CAFE & BAR TANGRAM @Ichigaya Tokyo【カフェバー タングラム 東京 市ヶ谷】

 


 

 既にブログ以上の赤裸々な話を交わしていて、その中で「僕らの世代は『何者かになろうとする』時期だ」というテーマが出た。

 

 特に「青年」と呼ばれる時期、僕たちは何者かになろうとするようだ。だから自分のお酒の、根性の、勇気の、食欲の、能力の限界に挑もうとするし、「憧れの人やモノやコト」をそれぞれ持っている。常に何かを目指している。何も目指していないということ自体を目指していることもある。何者にもなろうとしない何者かになろうとすることもある。こう書くと永遠ループしそうな命題にしか見えないけれど。今は。

 それが僕たちの、好奇心や嫉妬心、無力感や野心を生み出している源泉だ。

 

 裏を返せば自分の身体、自分の実体を見ようとしていない。自分の身体の特性を見極めようとせず、別の誰かが身につけていることを自分も身につけ、使いこなそうとする。

 だがそれにより、カンペキに「別の誰か」をマネすることはできないと悟る。しかしカンペキに真似ようとしていると、その失敗作が「僕自身」になり、「僕」という存在が生まれ、やっとそこで僕たちは「僕」になることができる…のかもしれない(ここは想像でしかない)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 飯田橋にある名画座ギンレイホール」で、1ヶ月に1度「ギンレイオールナイト」というイベントがある。「オール」で映画を3本見ることができる。学生1000円。安い。

 金曜の夜にそのイベントに行き、「フィリップ、君を愛してる!(I love you Philip Morris)」「僕らのミライへ大回転(Be Kind Rewind)」「浮き雲(Drifting Clouds)」の3本を見た。

 


 

 1本目、「フィリップ、きみを愛してる!」のあらすじを簡単に。

 

実際に現在も刑務所暮らしというスティーヴン・ラッセルの驚きの実話を基にした異色のエンタテインメント・ムービー。ひょんなことから獄中で最愛の人とめぐり逢ってしまった主人公が、やがて愛しさのあまり何度も脱獄を繰り返してしまう姿をユーモラスかつハートフルに綴る。主演はジム・キャリーユアン・マクレガー。IQ169の元警官スティーヴン・ラッセルは、交通事故に遭ったのをきっかけに、偽りの人生を改めようと決意、妻にゲイであることを告白する。そして、ゲイの生活にはお金が掛かると詐欺師に転向。そんなある日、保険金詐欺の罪で投獄されしまったスティーヴンは、獄中でフィリップ・モリスという運命の人と出会ってしまうのだが…。

 (TSUTAYA フィリップ、きみを愛してる! より引用)

 


 

 予告編を見ると伝わってくると思う。この映画の主人公がぶち当たる壁は、「リアルを求めようとしてフェイクを作ってきた」という矛盾である。自分の恋人、フィリップ・モリスと共にいたくて、お金を荒稼ぎしようとした結果、詐欺がバレて刑務所へ、フィリップと会えなくなってしまう。また脱獄して、お金を荒稼ぎして、バレて、ムショへ…を繰り返してしまう。

 

 僕はよく、何者かになりたくて、自分が著名な芸術家でいろんな作品を既に生み出していたとしたら、どんな日々を送っているだろうと妄想することがある。自分の本当の姿を表現しようとして、作品を作る、作る、作る。でもその創作が一度で終わらないのはおそらく、そのときの自分のリアルを表現しようとして作った作品が、時を経るにつれてだんだんフェイクに見えてくるからなんじゃないかな、と思っている。これは自分の作った動画を見返すときにいつも感じることだ。1ヶ月もすれば、「なぜこんなにテンポの悪い気に入らない作品を作ったんだろう?」と思ってしまう。もちろんそこには協力してくれた人や自分がこれ以上ないと思ったはずの努力をつぎ込んだ形跡がくっきりとあるが、である。このブログでさえ、1つ前の記事を読み返しただけで赤面してひっくり返って悶絶するくらいだ(だから僕はあまり長いこと見ていない自分の作品や文章を読むのが大嫌いだ)。

 

 それは何でだろうと考えていたら、「作者」と「作品」の関係が見えてきた。

 「作者」とは、人である。人は常に変わりゆく。いくつになっても、人は変わっていく。だが「作品」は変わらない。それは「過去」であり「事実」だからだ。もちろん「作品」に対する評価や見方は変わっていくだろう。それはその評価自体の「作者」も変わっていくからだ。

 「作者」は変わる。「作品」は変わらない。ここで相違が生まれる。現在の「作者」が過去の「作品」を見て「どうしてこんなものを作ったんだろう?」と考えるのは、こうして見れば当たり前のことである。

 

 だから、この映画で出てくる脱獄王スティーヴン・ラッセルの感情を肯定しようとすれば、「自分が作り上げてきたフェイクは、そのときの自分のリアルだったんだ。決してフェイク(偽)なんかじゃない。僕は常にリアルだったんだ。」と考えるといいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 接客業を長くやっていると(と言っても僕より長くやっている人は膨大な数いらっしゃることは承知している)、自分が薄っぺらい存在だなあと感じることがある。特にたくさんの人数のお客様と出会う職の場合はそれが顕著である。接客が「作業」になり、まるでロボットのように右から左へと流れていくお客様に笑顔で対応するだけ。

 特に俳優業などはそうじゃないかなあと想像している。「ブランドイメージ」を背負っている俳優さんなどは、私生活においてもスキャンダルを起こしてはいけないという恐怖心と闘わなくてはいけない。ご本人は意識されていないかもしれないが、これに僕は尊敬の念を抱かざるを得ない。

 

 それでもお客様は、「キミはいいね。がんばってよ」とおっしゃることもある。と思ったら、「ねえ、早くしてくれない? そういうのいいから」とおっしゃることもある。一喜一憂する。

 接客業や俳優業はそれこそ、お客様に対して自分を常に「作品」のように見せなくてはならない。いわゆるお店の「顔」というのはこういうことである。その「顔」がいつも「顔」でいてくれるから、このお店はいいなあという信頼感も生まれる。と思ったら、「そういうのって難しいよね」と、柔軟な「顔」を見せてくれる店もある。「作者」そのものを「作品」として飾っている店もある。

 

 それで、僕は「お客様によってお店の人に求めてるものって違うじゃん。絶対全員に合わせるなんてムリだよ…」と嫌になっていた。でも、よく考えればそれはそうだ。お客様だって「作者」なんだ。昨日のお客様と今日のお客様は全く違う。それが同じ人であったとしても。ブログを書きながらすごく驚いたのだけれど、この「お客様だって作者」という結論を思いつく前に、自分で答えを書いていた。

 

「もちろん「作品」に対する評価や見方は変わっていくだろう。それはその評価自体の「作者」も変わっていくからだ。

 

 ブログを書いていて、というより、自分の気持ちをジャカジャカ連ねるだけの文章を書いていてよかったなあと思う瞬間だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ならば、どうして僕は接客をしていて「自分って薄っぺらいなあ」と感じてしまうのだろう。実はこの悩み事は、接客をしていなくても周期的に僕を襲ってくるものなのだ。過去にあんなに人によくしてもらって、自分もそれに報いようとして一生懸命いろんなことをやって、一度思い返せばいいドラマの一本でも作れるんじゃないかと自負できるような人生を歩ませてもらっているはずなのに、「自分って薄いな」「何も持ってない」と拗ねてしまう。そして他人に対する嫉妬心がむくむくと起き上がり、「あの人は濃いな」「自分の持っていないものを持ってる」と思う。そのときばかりは「あの人」のことを素直に尊敬することができない。

 まあ「ひどいやつだ! 自分が受けてきたたくさんの愛情に対して感謝の一つも感じないなんて!」と言われればそれまでなのだろうけれど(そうだろうと自分でも思うから普段は口にはしない)、正直になれば、僕は何度もこの悩みに苛まれている。そのときはその気持ちが収まるのを待つしかない。そのときには、何をしたって無駄だと分かっているからだ。

 

 「僕はよく考える。」これは僕の誇りでもあるし、劣等感の原因でもある。ただ事実として、僕はよく考える(考えこんでしまう)。石橋を叩きすぎて割るタイプ、ということではなくて、石橋を叩きながら渡るタイプなのだ。石橋を渡る前も、渡った後も、その石橋をしつこく叩き続けている。その間にも、自分の「歩いた石橋(作品)」は増えていくから、しつこく叩かなければならない石橋は増えていく。それに加えて僕の渡る予定の石橋も叩かなければならない。結構忙しかったりする。(めんどくさい文章ですね)

 おかげで石橋で手放しで踊れない。踊ることはできても、トンカチは離さない。染まれない。それがいつしか習慣になった気がする。

 それが僕が自分を「薄い」と考える原因なのかもしれない。つまり、いつも染まっていないのだ。染まっているものや人に対して、「あいつ嫌い」「あいつ怖い」という体裁を取りながら「あいつは染まれたのか、いいな」と思っている。

 

 「よく考える」のは、失敗したくないからなのだろうか? 行動に移して、自分の失敗が目の前に突きつけられるのを恐れているからなのだろうか? いや、けれど僕は「よく考える」ことで失敗していることを自覚している。自分が「よく考えた」せいで機会を逃し失敗したということを自覚している。吐き気がする。だが、その失敗は「よく考えた」おかげで経験できた失敗だ。「よく考える」という行動をしたおかげで、僕は自分の失敗を目の前に突きつけられている。だから、たぶん、失敗したくないというのではないと思う(ううん、説得力がないな)。

 

 

 

 現状、「それでいいのか?」と聞かれれば崩壊してしまうようなことしか考えられていない。「何者か」を提示されて「お前はこれを目指していたんじゃないのか?」と聞かれれば「はいそうです」と答えて行動に移してしまうだろう。長続きしないだろうけれど。

 

常に何かを目指している。何も目指していないということ自体を目指していることもある。何者にもなろうとしない何者かになろうとすることもある。こう書くと永遠ループしそうな命題にしか見えないけれど。今は。

 

  また自分が書いた拙文を引用するけれど、マスターは僕らの世代は「何者かになりたい」時期だとおっしゃった。けれども僕が考えた結果によると、今の僕には到底この時期を抜け出すことはできないみたいだ。僕はやっぱり、「何者かになりたい」という言葉の永遠ループから抜け出す考えを持っていない。それが僕の力量なのか、それとも真理なのかは分からない。

 僕にできることは、そんな自分の姿を容認することだけだ。僕はやっぱり、染まれない。

 

 

 それは弱いからなのだろうか?

 それは薄いからなのだろうか?

 

 

 

 

 この感覚をよく表していたのが、「浮き雲」だと思う。