あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

いまだ感じたことない感覚を

 自己啓発、生きるという難題について誰かが考えた「答え」をまとめたものは、「ブッタとシッタカブッタ」くらいに攪拌された方がいい。

 

ブッタとシッタカブッタ〈1〉こたえはボクにある

ブッタとシッタカブッタ〈1〉こたえはボクにある

 

 

 

 僕の母はこういう本をはじめ、いわゆる「生き方」本が好きだった。美輪明宏林真理子相田みつをなどからそういう「生き方」を収集していた。枕元にふせてあった「ブッタとシッタカブッタ」を、幼い僕は読んでいた。記憶がないから定かではないけれど、人生のかなり初期から(と言ってもこれが発売されたのが6歳のときだから…小学生からなのだろう)このゆるいマンガとは付き合ってきた。

 

 

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from  http://content.mery.jp/1100x2000/images/850552/img_1/original

 

 当時の僕にはよく分からないものもあった。メッセージ性は感じるのだけれど、強くはいない。ブッタかわいい、と思いながら読んでいただけだった。

 

 

 そのことと、僕が高校生になってから自己啓発沼にハマったのは関係があるのかもしれないしないのかもしれない。だけれど、事実として、僕は高校生のとき(高1夏〜高3冬)に自己啓発沼にハマった。

 お小遣いのすべてを本を買うことに捧げた。ジャンルは自己啓発。その他の本はごちゃごちゃよく分からないことを書いてあるから、「今読むべきものじゃないんだろう」と思っていた。時折自己啓発本に混ざる常套句「あなたが興味を持った著者の本は全部読め」「小説は時間の無駄」「本は借りるな買って読め」にまんまとハマった。部屋の本棚はすべて自己啓発本とその仮面をかぶったビジネス本だけになった。何か事が起こると本棚の前に座り込み、1冊30分で3冊読んだ。そして浮かれた気持ちになったものだ。

 

 

 この体験で失ったものは、金と時間と思考である。このとき僕は、「答え」を読みまくった結果、問題を解く集中力を失った。探せばどこかに答えがあるんだ。自分で答えを考える、なんてことを考えたことすらなかった。探せば(自分以外の)どこかに答えがあるんだ。

 その沼にハマりきっていた自分の姿を顧みて、大学生になった今はこういう類いのものから距離を置いている。それは広告でもそうだし、大学からの案内に対してもそうだ。うまいもので、私たちが普段「よく考えもしないけど感じてはいること」をキャッチコピーにしてくる広告が多いのだ。そういう広告のだいたいのパターンは、「常套句」として把握しているつもりだ。

 

 しかし、この体験で得たものもたくさんある。まず「宗教とはこういう感じで自分に迫ってくるんだな」ということ。僕の親戚に住職の方がいらっしゃる関係で、僕も幼い頃から自分の宗教とよく接していた。おかしいとは思わないし、何も「宗教」と一括りにすべきでないものもあるだろう。けれど、「自分以外のヒト、モノ、コトに自分の持つ問題の『答え』を教えてもらう」行為を宗教的行為と呼ぶのなら、僕はその存在にこのとき気づけた。

 

 もうひとつは、いい意味でも悪い意味でも「すべてのことに理由はある」と思い込めたこと。

 ここで「意味」と「理由」という言葉を使い分けたい。自己啓発が宗教でない理由は、自己啓発は「理由」しか教えない点だ。対して宗教は、何かが起こった「理由」と「意味」の両方を教える。例えばあなたの友だちが、あなたの貸した本をぼろぼろにして返してきたとしよう。あなたの本がぼろぼろになって返ってきたことに「理由」はある。友だちが意図的にぼろぼろにしたか、偶然ぼろぼろにしてしまったかである。けれど、そのことに意味はない。あなたが「どうして私の本がぼろぼろにならなければいけないの? その意味は?」という問いをかけても答えは出てこない。意味がないからだ。

 とにかく、「すべてのことに意味は必ずしもないが、理由は必ずある。」と僕は思い込んだ。だから、理由が分からないものはとことん知りたがるようになった。理由が分からなければもやもやする。だから考えたり、聞いたりしたがる。このブログをだらだら冗長に書くようになったのも、理由を追い求めているのだと思う。あらゆることに対して。

 

 「悪い意味でも」というのは、このせいで僕は理由が不明瞭なものを放っておけなくなったのだ。言い換えれば「そのままの形で受け入れる」ことができなくなった。受け入れるのなら、ムリヤリにでも思い込みでもいいから理由というラベルを貼りたくなる。ものをあるがままに見ることができない、そこに隠された誰も隠していない秘密のようなものを見出してしまう。

 

 

 

 それが僕の内在的な偏見にも関わってくるのだろうと思う。昨日の僕の一番の驚き(恐怖)体験だったのが、「自覚していない偏見を僕は持っている」という事実に気づいたことだ。相手を傷つけようとも思っていないし、そう、むしろ「善意」をもって迎えたいと思っている相手に向かって、偏見を投げかけてしまう。本当に偏見というものはおそろしいと思った。

 そして僕の場合は、「分かりたがる」性質で、「ムリヤリにでも思い込みでもいいから理由というラベルを貼りたくなる」症候群だ。ムリヤリ思い込んだ理由は百発百中で偏見になる。そして僕の中に住み着く。僕にできることは、そいつの存在を自覚して、「あ、今偏見を感じたな」と認めて「そうか、そういう自分もいるのか、こえぇ」と思って自己解決することくらいだ。

 

 

 

 

 僕はよく、もし自分の名前が○○だったら、という妄想をする。もし自分が「しょうた」ではなく「さとし」と呼ばれる環境に育ったら? 「あきら」は? 「しげ」は? 「だいち」は? そしてそこから生まれた妄想の世界で生活していたら、どんなに自分が変わっているんだろう、という考えるのが好きだ。

 たぶん一種の変身願望のようなものだろうと思う。でももうひとつ、僕は「しょうた」ではない、と一度くらい思ってみたいのかもしれない。もし自分に名前がなかったら。僕という存在を、僕はどうやって感じるんだろう。どこにアイデンティティを持つんだろう。いや、そもそも持たないのか? 持たないでもさほど気にしなくなるのか?

 

 何かしらのアイデンティティを持っていると、ほっとする。それは役職であったり国籍であったり、これまでの業績もその種になるだろう。「私は○○なんだから大丈夫!」と思えたらほっとするんだろう。けれど、ずーっと同じアイデンティティを持っていると、僕は落ち着かない。なんかそろそろ名前を変えたいな、と思うことが多々ある。昔は年齢ごとに名前を変えたりしたそうだから、それもいいと思う。だって僕は変わり続けているんだから。6歳の僕が19歳の僕と一緒であるわけがない。

 

 

 

 

 I am who I am.

 Tôi là tôi.

 

 自分が何者かは分からないけれど、自分以外の何者でもないことだけは、分かっている。

 

 

このブログのキャッチコピー「電球色(でんきゅうしょく)の明かりの下で、読むと聞こえるけけボッサ。」は、昨日の飲み会みたいな雰囲気を文で表現したものです。あの空気感の漂う場所にしたい。I was born this way, hey.