あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

偏見

 とあることから、自分の中に住み着く「偏見」を無くそうと思った。「これはこうだ」と思わないこと。モノをあるがままに見ること。一切括らず、判断もしない。

 ムリだった。モノをあるがままに見ることなど、僕にはできなかった。ペットボトルを見れば、「ペットボトル」という文字が頭に浮かんでくるし、かすかに動く水の表面を見ればそこに感じるべきリズムが見える。ただ、それをモノとして見ることはできなかった。僕にとって、偏見を失った状態でモノを見るということは、三次元の世界に住む人が四次元の世界を理解できないのと等しく難しいことのようだ。「モノを見ようとしていること」それ自体が偏見なのかもしれない。

 

 ことばの正確な概念を把握したいときにはその語の「語源」を知れば良い、という偏見を持っているので、「偏見」の語源を調べてみた。

 日本語の「偏見」はそのまま、「偏った見方」である。これでは調べ物にならないので、偏見の英訳「prejudice」を調べた。「pre-」は「プレイベント」などに使われるように「〜の前」という意味である。「judice」は「judge」が変化した形で、「判断」という意味である。「前もって」「判断する」→先入観=偏見という筋書きだった。確かに。

 つまり偏見とは、対象に対して何か知っていようがいまいが、直接何かを試してみることなく前もって判断して見ることだろう。

 

 無くせるわけがない。そう思った。

 前もって判断するということは、言い換えれば前もって予測しておくことだ。前もって予測しておく能力がなければ、僕たちの世界に気象予報はないし、経済学やらの学問は「未来を予測する」というひとつの目的を失うだろう。

 それに、僕は過去の猛烈に嫌悪感を抱く記憶を自分から取り外すことはできない。だから、昔抗えなかった友人と似た顔の人や、中高生の女の子たちの甲高い笑い声がいまだに嫌いだ。書いてある文章の語尾や特定の単語にでさえ、「あああのときあの人が使っていた単語だ(から怖い、面白い)」というのがついて回る。

 

 偏見それについて僕がすべきことは、たぶん、「偏見を持っていないオレなんかオレじゃねえ!!」という偏見を持つことなんだろうと思う。冒頭から嫌味のように「偏見」ということばを乱用しているが、お気づきだろうが、「偏見」ということばは永遠にループする。なぜなら文章の語尾には、すべて「〜という偏見を(私は)持っている」という語句をつけることができるからだ。

 こんなふうに↓

 前もって判断するということは、言い換えれば前もって予測しておくことだという偏見を私は持っている。前もって予測しておく能力がなければ、僕たちの世界に気象予報はないし、経済学やらの学問は「未来を予測する」というひとつの目的を失うだろうという偏見を私は持っている

 それに、僕は過去の猛烈に嫌悪感を抱く記憶を自分から取り外すことはできないという偏見を持っている。だから、昔抗えなかった友人と似た顔の人や、中高生の女の子たちの甲高い笑い声がいまだに嫌いだという偏見を私は持っている。書いてある文章の語尾や特定の単語にでさえ、「あああのときあの人が使っていた単語だ(から怖い、面白い)」というのがついて回るという偏見を私は持っている

 

 文章を書くことだって、何かを言うことだって、何かをすることだって、すべて偏見がないとできないことだ。どこまで確証を得れば「偏見」でなくなるかなんて、誰にも分からないはずだ。すべてのことばは偏見なのだから。