あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

いのり合って

 アルバイトとして、とあるTVスタジオの現場に行ってきた。体力と筋力さえあれば誰でもできる、単なるセットの片付けだ。

 ドラマの撮影だった。スタジオの中にマンションの一室を再現している。あのセットは毎日毎日片付けているそうだ。つまり、マンションの一室を3,4時間で建設し、3,4時間で取り壊す(片付ける)。それを毎日やっている。専属のスタジオがある番組以外はすべてそうだ。

 

 憧れはすべて崩れ去った。「番組をつくる」とはこういうことなのだ。

 誰か見たことのない人が、これまで「機械」を通してしか見たことのなかった人が目の前にいる。僕はあなたを知っている。あなたは僕を知らない。知らない人が目の前にいるが、その人の目は輝いている。親しみを込めた目。

 「番組に出る」とはこういうことなのだ。

 セットは毎日つけられはずされ、撮影が始まる前には同じ位置に、正確に小道具が置かれている。口を開けた炊飯器、いつものようにそこにあるコンセントの穴、きっちりふさがれた壁と天井の隙間。すべてはかりそめの存在なのだ。

 

 

 僕の先輩、片思いの先輩(僕は知ってる彼女は知らない)なのだけれど「ながち」さんという方のこの言葉が好き。

 

大学生活は「憧れを潰す」ことに尽力すべし、です。
憧れていることをやってみる。
で、違ったなとか、これかもしれないとかを感じる。

 

 

 憧れをつぶすために、知れることは知っておくことが大切なんだと思う。それが木村先生が講義のときの言っていたことで、「憧れ」という偏見をつぶしておく。つぶれた憧れに対してどうこう感想を抱くのはいいけれど、それをまた偏見として固めないように。

 

 僕は妄想癖と呼べるほど妄想癖があって、自分の都合のいいように思い込むことが特技だ(不本意だ)。言い換えれば「憧れ大魔王」と「偏見大魔王」に侵されている。よく知っている人にでさえ、少し会わないうちに自分の中で魅力的な人になっていたり触れがたい人になっていたりする。

 しばしば、その妄想対象である人やもの、場所に直接触れることを忘れる。自分の憧れがどしどし膨らんでいくにつれて、それを崩されるのが怖くなるんだろう。

 だから僕は意識的に「動く」ようにしている。何もない日(何かしている人に憧れているとき)はとりあえず外を歩いてみる。自分の住む部屋が殺風景で何もやる気が起こらない(何かをしたくても集中できない)のも影響しているけれど、自分の部屋に長いこといたくないと思っている。ぼーっとするのも、自分の部屋より、川のほとりの方がずっといい。

 

 

 社会が複雑になるにつれて、自分と遠い社会に生きる人は「憧れの存在」になりやすいと思う。でも、その人も同じ人間であり、自分の家族や友人を辿っていけば実は出会う可能性の非常に高い存在だ(だって人間なんだもの)。

 同じく自分と遠い社会それ自体も「憧れの存在」になりやすい。自分と遠い社会で得られる体験も。そしてそれらは「商品」になりやすい。「夢」になりやすい。

 

 「ニュータウン」「田舎で暮らそう」「高層タワーマンション」「マイホーム」「世界一速い新幹線」「憧れの街フィレンツェ」「自由の国アメリカ」「ご当地ラーメン辛ラーメン」「バックパッカー」「ノマドワーカー」「好きなことで生きていく」「自由」「平和」「平等」「幸福」…

 

 私たちは実にロマンチストで、夢を追い続ける生き物なんだと思う。これだけの憧れが生み出され、商品化され、ビジネスを回してきた。だからそろそろ、私たちはこれらの夢や憧れをぶっつぶしていく時期に来ているのではないか。この中で一番つぶしやすいのは…田舎に暮らすことか。車でもいいから千葉県の多古町、東京都の檜原村(閑散期)、神奈川県の相模湖(閑散期)に行ってみては。

 

 

 「尻を汚す」ということを、僕は自転車の上でやってきたのかもしれない。座ってはいないけれど、街の雰囲気はどこも違うことは知っている。そこに住む誰かに話しかけているわけではないけれど、道行く人の雰囲気は知っている。

 

 

 想像してたっちゃあしてたけど、やっぱり打ち砕かれる。「ああ、そうか、そうだよね、うん、そうだよね。やっぱそうだよね」という感じで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「最近の子たちってホントにかわいそうだよね。間違いを指摘してもっといい道があるよって伝えてあげてるのに、その場にしゃがんで泣き出しちゃうんだもん。」

 

 「最近の若者」論は嫌いだけど、唯一納得した文章がこれだ。正確に言えば、「最近の子たち」は関係ない。間違いを指摘されたときつまりは叱られたときに、「あ、オレ、嫌われた。やべえ」と、自分を否定されたように感じるのは大きな間違いだということだ。

 この思い込みは自分が気づかなければ、本当に気づきようがないと思う。僕が初めに気づいたのはベストセラーになった自己啓発本嫌われる勇気」の中だ。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

余談。この本が売れ始めてから、「哲学」に人生の答えを教えてもらおう! なんてまさしくお「門」違いの本が大量生産されていると思う。

 

 

 うろ覚えで原本が手元にないので恐縮だが、内容のひとつに「他人に何を言われようと、自分のこころの中まで彼らを土足で踏み込ませない」というものがあったと思う。

 要はこういうことだ。僕がもし誰かに叱られたとしても、それは自分を否定しているのではなく、僕の取った行動を否定されているのだ。だからこそ、彼らの放った言葉を自分のこころの中に招いて、自分のこころを痛めつけるような真似はやめんしゃい。

 叱られてばかりのときには分かりにくかったけれど、人を叱るというのはそもそも重労働だ。批判することも同じである。ちゃんと論理立てて「これはおかしいぜ」と言ってあげるのは、疲れる。だったらまだ「怒る」方が数倍もラクだ。「バカ!」「それはちょっとひくわ…」なんて。

 

 僕もいまだに叱られれば傷つく。このブログには自分の本当に考えていることや思っていることを絶賛書き出しているから、いつどこの方面から罵詈雑言を浴びせられるかあるいは叱られるかヒヤヒヤする。でも、このことに立ち返ってみて、「いや、たぶんこの人はわざわざ叱ってくれてるんだな」と思い込む。何も事態は改善しないけれど、弱い自分は強くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▶ CAFE & BAR TANGRAM @Ichigaya Tokyo【カフェバー タングラム 東京 市ヶ谷】

 

 タングラムのマスターに朝まで付き合っていただいた。3回目にしてそこまで…感謝してもしきれない。ありがとうございました。

 ウイスキーを教えていただいたり本をご紹介いただいたりシルク・ドゥ・ソレイユの公演DVDを見たりタングラムを解いたりなんたり。そんなときに出てきた、「いのり」についての話題から。

 

 

 「音楽の科学」という本を読んでいる。 やっと本論に入ってきたところなので何とも言えないのだけれど、序論で筆者はこう述べている。

 

 音楽と同じように、 演劇やスポーツもやはり生存に必須なものではないので、なくなっても困らないと言える(ただし、この二つに関しても、もっともらしい話を作って、適応のために必然的に生まれてきたのだと主張することは簡単にできるだろう)。しかし、生存に絶対に必要なモノではないにもかかわらず、音楽を持たない文化というのは知られている限り世界中に一つも存在しないのだ。

(フィリップ・ボール氏著『音楽の科学—音楽の何に魅せられるのか?』p.56 より引用)

 

  音楽を持たない文化は存在しない。またここで文化の定義をはっきりさせないといけないのだろうけれど、それはひとまず置いておきたい。この言葉を翻せば、「文化と呼べるものができあがるには、必ず音楽が存在しなければならない。」という意味になる。つまり筆者は、文化というものの成立条件に「音楽があること」を入れて考えているのかもしれない。

 音楽は人間にとって、それほど重要な要素なのである。

 

 さて、もう一冊本がある。少し長めに引用していくので、頑張って読んでみていただきたい。

 

 言語も音楽も、だれか一人の革新者が、単一の場所や時代で発明したというのは考えにくい。むしろそれは多くの改良を通じて形成され、そこには無数の開発者たちが、世界のあらゆる場所で、何千年にもわたり貢献してきたのだろう。そしてそれはまちがいなく、人類のすでに持っていた構造や能力の上に組み立てられたはずだ。その構造は類人猿たちや、人間以前の動物たちから遺伝的に受け継いだものだ。人間の言語が質的に他のどんな動物言語ともちがっているのは事実だ。特に人間しかない特徴としては、それが生成的(つまり要素を組み合わせて無限の発話を作れる)であること、自己言及的であること(言語について語るために言語を使える)がある。単一の脳機構が進化したことで——おそらくは前頭葉にあるのだろう——言語と芸術双方の発展の根底となる、共通の思考様式が生み出されたのだと私は考えている。

 この新しい神経機構は、音楽脳を特徴づける三つの認知的能力を与えてくれた。まずは相対化(パースペクティヴ)。自分の思考について考え、他の人々が自分とはちがった考えや信念を持っているかもしれないと気づく能力だ。二番目は表象。いまここの目の前にない物事について考える能力だ。三つ目は再配置。世界の要素を組み合わせ、組み替え、階層的な秩序をつける能力だ。この三つの能力の組み合わせは、初期の人類に世界について自分なりの描写を作り出す能力を与えてくれた——絵画、絵、彫刻——それは物事の本質的な特徴は保存したが、気の散る細部は必ずしも保存しなかった。この三つの能力が、個別に、または組み合わさって、言語と芸術の共通基盤となった。言語と芸術はどちらも、世界をわれわれに表象してくれる。それは世界そのものではなく、心の中で世界の本質的な特徴を保存させてくれて、自分の心が知覚したことを他者に伝えられるようにしてくれる。自分の感じていることが必ずしも他人の感じていることではないという認識が、他者との社会的な結びつきを創り出したいという衝動と組み合わさり、そこで生まれたのが言語と芸術、詩、絵、ダンス、彫刻……そして音楽だ。

(ダニエル・J・レヴィティン氏著「「歌」を語る 神経科学から見た音楽・脳・思考・文化」p.19-20より。太文字は引用者)

 

 

「歌」を語る 神経科学から見た音楽・脳・思考・文化 (P-Vine Books)

「歌」を語る 神経科学から見た音楽・脳・思考・文化 (P-Vine Books)

 

 

 ここでひとつ疑問が湧いてくる。言葉と音楽のルーツは一緒だということは分かったが、「なぜ私たちは音楽を生み出したのだろうか」。これはそのまま「なぜ私たちは言葉を生み出したのだろうか」と言い換えることができる。なぜ私たちは、自分のこころを他人に「表現」しようと思ったのだろう。

 

 

 私たちは、自分の「こころ」を他人に表現したかったから、音楽を生み出し、言葉を生み出したのだ。「こころ」とはつまり、感じたことや考えたこと、自分の感じている今まで感じたことのない恐怖の感覚。そういったものを他人に伝えたかったから、私たちはこの「道具」を生み出したのである。赤ちゃんとして生まれてきて、初めに感じる恐怖は「鼻がめっちゃすーすーするナニコレ怖い!!」である。人間の赤ちゃんは鼻から息を吸う、ということを本能的に始めるが、そのときに生じる感覚に脳が慣れていないため、生まれてからすぐ泣き出す子どもが多いという。

 そうすると、「泣く」というのが私たちの最初の表現方法だったのだろう。音楽も言葉も知らない人間は、泣くことで表現してきた。だが泣くだけでは伝わらないことを知り、あらゆる表現方法を身につけていくことになった。これが音楽であり言葉なのだ。

 

 

 このことに気づいたとき、僕はふとある動画を思い出して、マスターに一緒に見ていただけませんか、と言った。半ば強引に。

 


 

 「自分のこころを表現する」、そのことを私たちは古来から「いのり」と呼んできた。私たちはいのり続けた。そしていのりを他人に伝える、表現するために、私たちは泣いた。もっといのりを届けたくて、音楽と言葉を生み出した。

 つじつまの合ったひとつの論理が、丸焼きにされたブタの隣で成り立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「いのり」が自分の表現したいこととすれば、僕たちが周りの人の「いのり」を知るためには、直接その人と「いのり」合う必要があるように思う。相手は人でなくても、その場所と、その大地と、そのものと。オカルトめいているかもしれないけれど、大切なことのように感じる。

 「いのる」作法は、「いのり」合う媒体によって違う。

 

コンピュータ規定のフォントを使った文章による一対多のコミュニケーションを前提とするネット記事や本や雑誌。

コンピュータ規定のフォントを使った文章による一対一のコミュニケーションを前提とするメッセンジャー(LINE、メール)。

自分の手で自由に書いたフォントを使った文章による一対一のコミュニケーションを前提とする手紙。

自分の声で話す音声による一対多のコミュニケーションを前提とするラジオ。

自分の声で話す音声による一対一のコミュニケーションを前提とする電話。

自分の声で話す音声、自分の仕草による一対多のコミュニケーションを前提とする講演。

自分の声で話す音声、自分の仕草、空気、スケール感、皮膚感覚、その他私たちが自覚していない感覚による一対一のコミュニケーションを前提とする会話。

 

 「いのり」合う媒体によって、僕は本当は送り方、受け取り方を変えなくてはならない。ごちゃ混ぜになったところで、誤解が生まれてくる。「憧れ」補正をし出す。「嫌われてる」補正をし出す。けれど、本当にやらなくちゃいけないことは、「いのり」合うことなんだろうな。

 

 

 ひとまずは、データを通じてベトナムホーチミンという場所と「いのり」合ってみよう。ホーチミンシー、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The Thick and The Thin

by Imaginary Future

※意訳です

 

Call it what you will

I'll be standing still

Watching you until you make up your mind

 

キミが求めているものを呼び出そう

キミが心を決めるまで

ここにつっ立って眺めているよ

 

Pack it, send it home

Or leave it there alone

A perfect, empty stone with nothing inside

 

それを紐でしばって 家に送ってしまおう

それがダメなら置いていこう

漠然とした「完璧」、それは中身の抜けた空っぽの石

 

And all that you ever wanted could slip away

The water is getting colder than I can take

 

キミが求めていたものは雲に溶けていく

その水は受け取ったものよりずっと冷たくなっていく

 

Oh, who are you waiting for?

 

キミは誰を待っているの?

 

 

 

I'll be knocking soon

Open up your room

Now I won't assume you're letting me in

 

キミの部屋の扉をたたく

キミの部屋が開かれるように

でもキミは中に入れてはくれないんだろうね

 

Show me how to prove

I'm good enough for you

That we can make it through

The thick and the thin

 

確信を持つ方法を教えてよ

もう用意はできてるんだよ

ふたりの身体に通すもの

厚いものと薄いもの

 

And all that you ever wanted could slip away

The water is getting colder than I can take

 

キミが求めていたものは雲に溶けていく

その水は受け取ったものよりずっと冷たくなっていく

 

Oh, who are you waiting for?

 

キミは誰を待っているの?