あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

ベトナムで調べたいコトリスト

 楽しかった。

 プレイヤーがしっかり「ひとり遊び」をしてくることが条件の遊び。

 

 頭がぐるぐると回転し出す今日の遊びは最高だった。

 

 とりあえず「ベトナム」と「日本」と2カ国をひとまとまりと見て、それぞれの国を比較してみよう、という「ひとり遊び」をそれぞれやってきた。

 テーマは「就労構造」「家族」「(ベトナムで行われている)日本語教育」の3本です。

 

 木村先生がおっしゃっていたこの講義の醍醐味「ベトナムが立体的に見えてくる」がよく形になった講義になったと思う。それぞれが違うテーマを調べることで、出てくるデータや事実そのものは異なるけれど、それぞれのデータが関わり合い、事実が関わり合い、「あ、ここでこういうデータが出てるけどそれってこういうことだったんだ!」というのが多く出てくる。巣子守くんが言っていたように「ひとりで調べるより圧倒的に効率がいい」。

 

 今回はそれぞれの発表を聞いて、自分の調べたデータと照らし合わせて、自分が個人的に興味が湧いたところを中心にまとめてみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベトナムは、現在GDP絶賛上昇中である。経済成長率を見ても全世界の上位に位置している。いわゆる「国が発展している」状態なのだが、現地で生活する人の目線で見ると、物価だけが先行して高騰しており、給与水準が上がらない状態だ。故に物価の高騰についていけるだけの経済力のある一部の人もいるが、そうでない人もいる。貧富の差は拡大し続けているというのが現状のようだ。

 そこで出てきた疑問点が、「労働(=人々が豊かになる過程)をどう捉えているのか」という点である。国家に半ば強制された状態で働いているのか、それとも自ら豊かさを求めて自主的に労働に精を出しているのか。木村先生の見解では、この労働意識の二分化はますます進んでいるという。

 ベトナム社会主義国家でありながら資本主義経済の中で発展していこうという社会体制を組んでいるため、その歪みとなる現象が起きているともいえる。また「雰囲気」として国家に文句を言いづらい空気が存在しており、なかなか改善されないそうだ。マルクス社会主義は資本主義を越えた先にあると定義しており、その影響をベトナム政府は受けている。従って今の現象は「仕方がないもの」として受け入れられている節もあるそうだ。

 

 「労働」という行動に対してどう考えているのか、これをどう捉えているのかを知ることで、その残りの部分(と僕は定義している)である「休み」をどう考えているのか、捉えているのかが見えてくる。この価値観を調べるためにはどうしたらいいのか、考え始めることにする。

 

 そしてベトナムの平均月収についてだが、あくまでも「平均」は2万円弱である。ベトナムでの消費生活についてまだ知らないことだらけなので、これが現地に住む人々にとって多いのか少ないのかは分からない。けれどそう考えたときに、僕は「人ごと、地域ごと、国ごとに『お金のかけどころ』は違うのだろう」と思い、それぞれの人の「お金のかけどころ」について調べてみたいと思った。

 例えば僕だったら、音楽環境にはまったく音楽を高音質で聴くことに興味がない人よりはお金をかけているはずだ(もちろん僕よりお金をかけている人はいるという前提で)。「おなかがいっぱいになれば何でもいい」と考える人は「食費」にお金をかけないだろうし、「仲間ともっと会っていたい」と考える人は「交際費」にお金をかけるだろう。その中から予想を超えるようなものにお金をかける人が出てくるかもしれない。

 それはそれで、調べてみるとおもしろいと思った。興味が湧いた。

 

 「お金のかけどころ」を調べることで、もしかするとその人が住む地域の環境、雰囲気が見えてくるかもしれない。特に「そこに住む人にとって『あたりまえ』すぎて特に疑問に思わないこと」を見つけられたら! 楽しい。

 

 

 ベトナムのいわゆる「エリート」たちはこぞって日本語を勉強しているようだ。2005年あたりから少しずつ日本語教育の場が増え、現在は日本語だけを教える学校も存在する。

 ここで疑問に思ったのは、「なぜ日本語か」ということ。確かにベトナム国内の企業で見れば、「日系企業」で働く人の給料はそれ以外の企業で働く人に比べて単純比較しても2倍ほどあるという。だが世界の流れを見ると、「英語」が共通言語として成り立とうとしている。外国で仕事をするにしても、とりあえず英語で指示を受けたり与えたりできれば事足りる。それなのになぜ日本語を勉強する人がいるのか、ということだ。

 学校に行かなくても「英語」が身につけられる環境にいるのか、それともそもそも英語を学ぶことに必要性を感じていないのか。そもそも英語を話せないと自分の国の外では働けないというのが一種のバイアスなのか

 一番最後の仮定がもしも正解だとしたら、実力さえあれば、何か得意なものがあれば自分の国の外で働いてもOK、ということになれば、僕個人の職業の選択肢も増やすことができる。

 

 

 ベトナムでは「二人っ子政策」があったりなかったりする。始まりは政府によって決められるようだが(その時点では期間は一応決められている)、終わりが毎回曖昧になるようだ。これがベトナムの若年層の人口を低くしている。「二人っ子政策」は職業によってその厳格さが異なり、公務員(日本の公務員から教員を除き、国営企業に勤めている人を含める)は育てて良い子どもは2名と厳しく決められているが、それ以外の職業の人には「推奨」という形を取っている。

 また家族に対しての意識について。女性が結婚したいと考える男性の条件として上がるのは「健康であること」と「安定した職についていること」。日本と同様に両家の戦略的結婚よりも恋愛結婚の方が多くなっている。離婚は日本よりは少ないが、それでも過去と比較すると年々増加しつつある。初婚年齢の推移も1960年代付近の日本のそれと同じようになっており、ベトナムもこれから晩婚化が進む可能性がある。

 

 

 

 

 そしてもうひとつ、議論の途中で出てきたこと。「ウチとヨソ」という関係性の中でヨソの立場になったとき、どのようにウチと関わっていけばいいのか、という不安である。言い換えるならば、「マジョリティとマイノリティ」という可能性の中でマイノリティの立場になったとき、どのようにマジョリティと関わっていけばいいのか。社会の中でアウトサイダーの立場になったとき、どのように社会と関わっていけばいいのか。自分の社会ではない新たな地域と関わりたいと思ったときに、まず出てくる不安についてである。

 災害ボランティアとして現地を訪問したときにも起こりうる現象だ。「何か力になりたい」と考え現地に行ったはいいが、何をしていいか分からず、自分の無力さにただただ悶えるばかり、という話は僕もよく耳にする。「あんたはいいね、家が燃えてなくて。」という目で見られたように感じたりすることがある。

 

 これに対し僕は自分の見解というか、立場を持っている。礼儀を踏まえた上で、自分の芯は変えない、という方針である。自分のやりたいこと(決して自己中心的な考え方のみでない、自分がやってあげたいと思ったこともこれに入るからだ)、やるべきと思ったことをやればいいと思う。「自分がやってあげたいと思ったことをやる」という表現はいささか上からものを見ているような気もちがするだろうが、そういう偉そうな感覚を持つのではない。ただ、「平等に接する」ということだ。

 詰まるところ、僕は戸籍上は日本人であり、ベトナム人にはなれない。少なくとも僕の身体には日本人の血が流れており、遺伝子も(おそらく)日本人のものだ。だから「ベトナムの人」にはなれない。けれど、彼らと僕は「平等に接する」ことはできると思う。

 この「平等」という概念には、社会的地位や立場はまったく関係しない。むしろ、社会的地位、信頼などに対する「平等」という概念は虚偽であると僕は考えている(人を不快にさせる行動ばかりを取る者を信頼できないように)。先生と生徒、という関係においても、「平等に接する」ことはできるはずだ。自分の言葉を用いるなら、「平等にいのり合う」ことはできるはずだ。

 ただ僕は、僕として、平等にいのり合えばいいのだと思う。

 

 

 

 

 

 そして、今すぐやろうと思ったこと。今度の木曜日、晴れたら代々木公園に行こう。そして一日ぼーっと過ごしてみよう。暑いけど。そこを行き交う人々が何をしているのか見てみよう。何のために来ているのか想像してみよう。それだけで見えてくることがあるらしい。

 

 それから、それぞれ今回の講義で疑問に思ったこと、調べてみたいと思ったことを調べよう。

 やることリスト完成。

 

 

 

 

 ひとつ内輪ネタの覚え書き。次回からは自分の調べてきたものを発表しない人も、人の発表を聞いて自分の調べてきたものと照らし合わせて気づいたことや感じたことがあれば発表するようにしたい。今日はなんとなくしなかったので次回からやろう。