あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

DNA

 サークル仲間と「ナイトウォーク」に行ってきた。大学閉門と同時に大学を出て、一晩中ひたすら歩くだけ。それをカタカナ&横文字(=キラキラネーム(=キラキラネーム))をふんだんに使って「ナイトウォーク! ナイトウォーク!」と盛り上がるような名前をつけた企画である。

 総歩行距離14.4km。本当のことをいうとたいしたことはない。時速4kmだから本当は3.5時間で歩ききるべき距離だ。大学を出て秋葉原を経由し、千代田区を抜け港区へ、東京タワーへ。そしてラストは江東区ぎりぎりの海岸で日の出を見る。ビル越しだったので日の出から1時間後に後光を観測。しらけてくる青空を仲間と眺めた。

 

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 歩きながらの会話は、飲み会や食事などと違い、本当によく頭が回る。本当にいろいろなことを話したい人とは、普段からこうして歩きながら話がしたいと、心の底から思うほどに。

 いわゆる「深い」話ができたとき、「やっぱり大学生っていろいろ考えてるんだなあ」と他人事のように思う。まあやりたいことが明確にあって、今やるべきことも分かっている人にとっては、大学生になったり深く考え込んだりすることはただの時間の無駄だとも思うし。

 以下続くのは、そんな「深い」話の延長である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 芸術の世界にしばらく浸っていた。こんな本を読んで、「アートとは何たるか」という難題をとりあえず「つかむ」ことができるようになった(答えが出たわけではまるでない)。

 

反アート入門

反アート入門

 

 

 読後、西洋ではなく東洋の、外国ではなく日本の、そして他者のものではなく自分自身の芸術を極めていきたいと考えるようになった。そしてその道筋が見えることで、「アート」に「入門」することができたような気になった。

 

 

 

 

 物事をくくり、分けて考えることは、悪いことではない。問題は、くくり、分けたままで放置し、それを当たり前だと思い込むことだ。物事を分かる(理解する)ためには分けなければいけない、ということは何度もこのブログで述べてきたと思う。僕は知的好奇心の赴くままに、「分かりたい」というこころを泳がしている。分からないままであることが美しい、その美しさも確かにあるが、分かった瞬間の儚き美しさというのも同時にある。そのスリルがたまらなく楽しいのである。

 「学ぶ」という言葉は、「真似ぶ」という言葉から来ている。つまり他人を真似ることによって、僕は他から知恵を吸収する。この「他人の真似」をするとき、僕は「自分」と「他人」を完璧に分けている。完璧に分けることができたときに、僕は「他人」になれる。つまり「他人」の真似ができるようになり、そこからあらゆるものを「学ぶ」のである。

 「型破りは、型があってこそ破るもの」という言葉がある。その通りだと思う。これも「学ぶ」話と同じことを言っていて、型を完璧に真似ることができるようになってから、型を完璧に真似る努力があってこそ、型の破れた部分が際立って目を引くようになるのである。

 「オリジナルコンテンツ」というのは、誰か他の人の作品を真似しようとして、真似できなかった部分である。と、カドカワ株式会社代表取締役社長の川上量生は述べる。

 

 

 

 

 

 

 話が逸れたが、僕はそうして、とりあえず「反アート入門」の著者・椹木野衣さんの思考を真似してみた。

 

 おおざっぱに分けると、ヨーロッパは人間にとって住みにくい土地が多く、アジアは住みやすい土地が多かった。ヨーロッパは「砂漠地帯でなんにもないところ」だったし、アジアは「樹木が生い茂って食べ物に困らないところ」だった。その環境の中でそれぞれ人間が知恵を絞って生き延び、生活し、それぞれに文化、社会、宗教を築いてきた。

 ヨーロッパの砂漠地帯で生まれた宗教は、かなりストイックである。ユダヤ教キリスト教イスラム教がそれである。食べ物もないし、下手したら水もない。過酷な状況を自らの手で切り開くことで新しい未来をつくってきた。対してアジアの湿潤地帯で生まれた宗教は、穏やかである。仏教がそれにあたる。自然の為すがままに、あるがままに生きようとする。自分が死ぬのも時の流れ。なんとなくそんな匂いがする。レゴやマインクラフトやユナイテッド・ステイト・オブ・アメリカや夢の国を生み出したのはヨーロッパである。自分の手で何かをつくる。自然はそのために必要な道具である。環境を保全するためには、自分たちの手が必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 古来日本人には、「だましだまし」と「ともだおれ」の思想があった、と解剖学者の養老孟司氏は述べる。

 

日本人はどう住まうべきか? (新潮文庫)

日本人はどう住まうべきか? (新潮文庫)

 

 

 自分の理想の空間があって、それを目の前の現実に反映する。しかし日本人は、現実は思い通りになるわけがないという思想を持っている。故に、自分の理想の空間を完璧に再現しようなどという考えにならず、「だましだまし」理想を達成する。コンクリートがなければ木材を、それがなければ竹を、それもなければ石を、といったようにである。

 また、どこか「ともだおれ」することを容認する思想があるという。災害が起こり、これまでの生活が崩れてしまったとき、どこかその流れに「乗ってしまおう」とする感覚。その状況に抵抗することなく、それに乗っかり、自分に適した(自分が楽に感じる)状況にたどり着くまで浮遊する。その感覚に違和感を感じることがなかった。

 

 

 僕はこういった思想を手放しに「すばらしい」と賞賛しているわけではない。けれど、確かに僕自身の中にも「だましだまし」と「ともだおれ」の思想が一部だが入っている。当たり前だがそれだけでは目標なんて達成できないし、他の文化を知ろうなんて露とも思わないだろうし、「それだけでは」足りないことが多々ある。が、確かに「一部」入っていることは手触りで確認できる。

 この感覚に気づいたとき、これまでの自分がヨーロッパ的思考(こういう言葉はあまり好きではないが便宜上使ってみよう)に偏りすぎていたことを自覚した。「ないならつくる」、この考え方はとても大切だし、好きだ。けれど、「今あるもの」に注ぐ目が不足していたとも思う。ないものをねだって足下を見ず、常に上のみを見て歩いていたなあと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何も考えず、ぼんやり歩いたり座ったり眺めたりしているときに、僕は「今あるもの」に目が向くようになるようだ。それまでの自分を「せかせかしていた」と反省する瞬間でもあるし、ひといきつくための大切なひとときでもある。

 特に今、僕は「何もしない」時間を潰そうとしてしまう傾向にある。特に興味もないゲームをしてみたり、特に面白くもない動画を流してみたり、目立って深く知ろうと興味が湧くわけでもないツイートをさらさら眺めてみたりして。しかしそういう、「特に興味もないもの」に注目している時間に僕が本当にしたいことは、「何もしない」ことだ。

 基本的に、人生は「何もない」ものだ。何もしなければ、何もないはずなのだ。ヘタに悩んだり失敗したり落ち込んだりしないはずだ。飢えたら死ねばいい。ケガをしたらくたばればいいはずなのだ。それでも僕はそれを嫌う。「何もない」空間で「何かをする」から何かが生まれ、「何かがある」状態を創り出す。そしていつの間にか、基本的に人生は「何もない」ものであることを忘れ、「何もしない」ことができなくなっていく。でも、「何もない」ということも「ある」のだから、ほんとうは「何もしない」ときがあってもいいはずだ。

 


 旅番組で「いいとこ取り」をした後に実際に旅をしてみると、案外「なんでもない」ことがよく分かる。それと同じである。僕は効率のいい行程を選びすぎているのかもしれない。効率をよくするべきは仕事だけである。それ以外のことに効率を求めると、空回りしてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このブログは、「非常に効率が悪い」ことで有名になりつつある(読者の方2名からのご意見参照)。まとめがなく、何を伝えたいのかはっきりしていないのである。僕の頭の中では、容赦なく関係ない話が割り込んでくる。そのつなぎ目をごまかすために、やたら改行して「●」を差し込む。なかなかの名案だと思っている。

 

 ステキな芸人は、「私には人を笑わすことくらいしかできませんから…」という。ステキな歌手は、「私には歌うことくらいしかできませんから…」という。ステキなコメンテーターは、「私にはコメントするくらいしかできませんから…」という。「これしかできないからやっている」ことに対する美学は、確かになあと思うことがある。たぶん今日のこの記事をまとめてくれ、と言われても僕にはできない。このようにしか書けないのである。もっと頭のいい人なら一発で言えるようなことを、僕は長めに書いているだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナイトウォークをして、その翌日(つまり朝4時に寝て昼3時に起きた同じ日)運送業のアルバイトをして、その翌日朝少し早く起きて代々木公園をぷらぷら散歩してから気づいたが、案外僕の足はタフにできているみたいだ。一時足がジーンとしびれた瞬間があったが、それを除けばいたって普通の足である。この足がまだこんな感じで疲れを残してくれないうちに、いろいろと歩いて見て回ろうと思った。