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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

これだから「安定」「平和」は幻想なんだ

 

 

 

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 僕は右翼、左翼の定義をはっきり理解しているわけではない。けれどこの言葉が使いやすかったのでこれを選んでみた。おそらく、というよりほとんど元の意味とは違うと思われるのでご容赦を。

 

 

 僕たちは日々、「どちらか」の選択を迫られる。特に日常生活においてはそうだ。お昼ご飯にカレーとうどんしか選択肢がないとしたら、僕らはどちらかを食べなくてはならない。決して「食べなくていいや」ということにはならない。

 ひとりのときは比較的すぐに決まりやすい。しかしその選択を「集団」が下すとき、その判断は集団が肥大化すればするほど遅く慎重なものになる。Aさんは軽く食べてきてしまったのでカレーは重いと言う、Bさんは朝から何も食べていないからうどんじゃ満足できないと言う。こんなバランスのよい状態になってしまえば、当然どちらかが自分の選択を妥協するまで決断を下すことはできない。

 

 ただもう少し大きな問題になってくると、「中庸」という判断を下すこともできるようになる。例えば「現代の科学技術は善か悪か」といった問題である。こういう問題に関しては「善だ!」「悪だ!」と右と左に完璧に分かれるよりも、「善いところもあれば悪いところもある」と中庸を保った方が良い場合もある。特に人の生死が関わるような決断を下すときは、ヘタにどちらかに分かれてしまうと取り返しの付かない罪を犯す可能性も出てくる。

 

 

 こうして、僕たちは同じところを行ったり来たりするようになった、というのが現状だと思っている。つまり僕の書いた図の、上と下の「左翼」「右翼」「中庸」のぱわーバランスが柔軟に変化するようになったのである。そしてそれは、まるでウロボロスの輪のように永遠に同じ展開を続けていく。

 

 

 ナラティブ(始めと終わりのはっきりしないストーリー)を取り出すとこういうことである。

 

※「左翼」「右翼」「中庸」はお互いを決して認め合わないという設定

 

①ある事柄について、「左翼」「右翼」の二通りの考え方が生まれる。

②「左翼」「右翼」の争いの中で、「どっちでもいいんじゃね?」と考える「中庸」が生まれる。

③「左翼」「右翼」が争う中、「中庸」が増え、存在感を増してくる。

④「左翼」「右翼」が同じ「極端な人々」という枠として捉えられ、それと対を成す関係としての「中庸」(「極端でない人々」「柔軟な人々」)が生まれる。

⑤「中庸」が分裂し、既存の「左翼」「右翼」に統合されるか新たな「左翼」「右翼」が生まれる。

⑥ ①に戻る

 

 

 僕はこのことを、自分の所属しているサークルの状況を見ていて感じた。

 

 僕のサークルは、比較的自由だ。映画を制作する、というのをサークルの「やること」として挙げている。しかし映画を制作する、と一言で言ってもそもそも「映画の脚本を書きたい」のか「映画の監督をやりたい」のか「映画の編集をやりたい」のか「映画のカメラ/音響設備を任せてほしい」のか「映画に出たい」のかに分かれてしまう。そんなわけだから、映画を撮りたいと思った人が監督となって、それに周りの人が追随して動く…というのが僕のサークルの動きの典型となっている。

 また、例えば監督が誰かに出演依頼をするとき、「何で出ないんだよ、映画サークルだろ?」などと言い放つのは御法度である。自分が出たいと思った映画にのみ出る、という基本姿勢は認められている(その代わり一度出ると決めたら最後まできちんとやる、というマナーはしっかりある)。要は映画を撮る側も出る側も、機材を扱う側も基本的に「参加の自由」を尊重されているのである。

 

 初めはそれで良かった。誰か撮りたい人がいて、それについていく人がいて、うまく回っていた。

 ところがここ数年で少しずつそのシステムの歪みが見えてきた。「撮りたい」人が少なくなったのである。自分の表現したいことを映画にしたい、という思いでサークルに入ってくる人が少なくなった。あるいはそういう行動を自分で起こす人が少なくなった。念を押しておくがこれは「最近の若者」批判論ではない。そういう流れが現実に起きている、ということである。

 

 映画を「撮りたい」人が出てこなければ、当然サークルとしては活動が止まってしまう。元々「出たい」「機材を扱えるようになりたい」という人は少ないサークルである。「撮りたい」という多少の熱意を持った人がいなくなれば、すべてが止まってしまうのだ。

 さらに前の先輩方が残してくれた、映画を発表する場に映画を出すために、なんとか脚本をひねり出して映画を出す、という本末転倒な動機さえ生まれている。そういう状況に違和感を感じ、「イベントがあるから映画を作る、なんて動機で映画を作るんだったら、映画なんか作らない方がいい」と言う人もいる。確かにそうだと思う。しかしそれでは、映画「制作」サークルは崩壊してしまうだろう。

 

 どうにかこの危機を乗り切らなくてはならないのだが、現実、今のサークルは僕の書いた図の下の形になってしまっている。「こんなことをしてちゃダメだ! 私の撮りたい映画を撮らせてくれ!」という人を煙たがる人もいるということだ。あるいは、「やりたいんだったらやってくれ。指示してくれれば動くから」という姿勢が全員に共有されつつある。

 また下の形の場合に「左翼」「右翼」の人たちが何か行動を起こし、損益が生まれたとする。その益は「サークル全体のもの」とされ、その損は「行動を起こした人達のせい」とされる。そのことに違和感を持つ人もいる。これがいわゆる「自己責任」の結果だと思う。

 

 自分の所属しているサークルのことだから、自分が決してサークルを正確に客観視できているとは思えない。けれど、今の状況はメンバーが「離散」しすぎて「中庸VS左翼、右翼」という状態になっているように思う。

 

 僕はこの状況を打破する方法を知らない。コンサルタントたちはきっと、「モチベーションを維持する/させる方法」なんてものを示してくれるのだろうけれど、あいにく僕たちは貨幣的な関係を結んでいない。仲間は部下でもないし上司でもない。極めて政治的に、お互いの信頼関係によって維持されているだけの集団である。情けないことだけれど、自分で何らかの手を下せる集団のはずなのに、何もできないでいる自分がいる。

 

 思えば生徒会長をやっていたときも同じことを考えていた。一緒に生徒会として学校を運営していく仲間たちは、決して部下でもないし上司でもない。自分が一方的に命令すれば相手はわだかまりを持つだろうし、逆に何も指示できなければ役立たずだと相手にされなくなる。だから結局、「仲良し」であり続けることくらいしか、集団を維持する方法がなかったのである。

 これはすべての「任意団体」のぶち当たる壁なのだろうか? あるいは僕が方法を知らないだけなのかもしれない。

 

 けれど、この問いはこの先も僕につきまとうような気がして、早くなんらかの打開策を見つけたいと思っている。貨幣的関係にある集団は、最悪、何かあれば「金」で解決できるという万国共通の保証がある。しかし政治的関係にある集団にはそれがない。すべては「信頼」に依っているから、それが崩れてしまえばもう一度復活することは難しい。

 世の中そう単純じゃない。だからこそ美しい。けれど、美しさに見とれているうちに底なし沼にハマってしまっては僕たちは生きていけないのである。

 

 

 「構築」の部分、自分で書いた図だが、その方法がまったく見えない。果たしてどうしたものだろうか。