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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

エクスポージャー理論はどこから来たのかなあ

 「エクスポージャー」理論と「フィールドワーク」の違いってなんだ。そう思って先日、飲みの席でふと出た疑問を御園生先生にぶつけてみました。するとまあ飲みが進む進むおいしい話を御園生先生が話してくださいました(なんだか御園生先生の話が酒の肴みたいですね、ごめんなさいそんなつもりじゃ)。

 

 まず、エクスポージャーという体験活動の理論をより正確に知りたい方は、こちらをご覧ください。

 エクスポージャーとは?

 

 僭越ながらかみ砕いてイラストにしてみると…

 

f:id:o5h4pi:20160724005638p:plain

 

 昔「リーダー」と「ボス」の違いを描いた抽象画を見たことを思い出しました。出所は不明ですが。

 

http://livedoor.blogimg.jp/plmh/imgs/b/6/b6ea17f8.jpg

(livedoorブログ「Plum heart」様サイトより拝借して表示)

 

 ただこの「リーダー」になることも、エクスポージャーの体験活動の目的ではありません。何かのリーダーになることよりも、その「リード」した経験を積極的に共有することに目的の重きが置かれているのです。

 つまり「エクスポージャー」は考え方、理論の名称であり、「フィールドワーク」はその方法論という違いがあります。エクスポージャー的フィールドワークをする、というのが本講義の目的なのですね。

 

 

 さらに、御園生先生は「体験の言語化」こそフィールドワークの醍醐味であると述べています。エクスポージャーの最終目的は、「他者と思想を交換し(自分から)変わること」。つまり、自分が体験して満足するだけの旅はエクスポージャーではないのです。それを言語化(必ずしも言語言い換えれば文字である必要はない)して誰かに読んでもらう、聞いてもらう、体験してもらうことがエクスポージャーの目的なんですね。



 今、2年前(2014年)に批評家・東浩紀さんが著した「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読んでいます。ずっと前に「読みたい本リスト」に入れてから忘却の渦に消えていった本の中のひとつでした。

 

弱いつながり 検索ワードを探す旅 (幻冬舎文庫)
 

 

 著者自身が「わざとそうした」と述べるだけあって、文体が自己啓発系の匂いがします。臭いです。

 

 しかしエクスポージャーの理論を深めていくと、確かにそうだなと思う部分が出てきます。

 例えば。この文章を読んでいる方はおそらくインターネットが「それなりに」使える方だと思います。そんなあなたはインターネットを何のために使っているでしょうか。おそらく「家族や友人との連絡」とか「情報収集」とか「自分の好きな××を見るため」といった答えが返ってくるでしょう。その中で、もしインターネットはリアルの世界よりもいろんな情報が載っていて、この情報を効率よく集められれば視野を広くすることができると考えている人がいたら、その考え方は半分間違っています。

 インターネット全体を見れば、確かに人間の多様性に匹敵するレベルで多様な情報が載っています。しかし、そもそもインターネットを使わない人あるいは生き物、自然現象に関する情報はインターネットには載りません。また、あくまでも「人類」が書き残そうとか、撮っておこうとか、とにかく残しておきたいと思わない限り、インターネットの世界には何も存在し得ないのです。

 さらに、ほとんどの人がインターネットで見る情報は「その人が見たい情報」です。最近のニュースサイトやエンタメサイトは、顧客の好みに合わせたコンテンツを表示しますね。これは典型的なインターネットの作用です。

 インターネットは私たちが思っているより「閉鎖的」な、あるいは閉鎖的になるための空間です。

 そのことを前提として、東氏はこう述べます。

 

 というわけで、本書では「若者よ旅に出よ!」と大声で呼びかけたいと思います。ただし、自分探しではなく、新たな検索ワードを探すための旅。ネットを離れリアルに戻る旅ではなく、より深くネットに潜るためにリアルを変える旅。

東浩紀氏著「弱いつながり 検索ワードを探す旅」p.32)

 

 「言語化」という行為はこの太線部分をまるまる表現しきっていると思います。言語化という言葉の中で使われている「言語」とはここでいう「ネット」です。言語を離れて(完全に忘れて)リアルを見る旅ではなく、より深く言語を使いこなす、言語の世界に潜るためにリアルを変える旅。

 あるいはこうも言えます。家族を離れリアルな社会に飛び込んでいくための旅ではなく、より深く家族のことを知るために、家族という社会に潜るためにリアルな社会を変える旅。「ネット」=「言語」=「家族」=HOME。

 かねがね思っているのですが、「閉鎖的にならないムラ社会」っていつの時代でも末永く繁栄していけると思うのです。仲間内だけで情報を共有し、他には一切漏らさないという行動を取ろうとすると、「見るな見るなは見てのうち」かどうかは分かりませんが見たくなる。ニンテンドーDSの裏に丸く切り取った黒いダンボールを貼り付け、側に「のぞくな」と赤マジックで書いて「のぞきたくなろ?」と言ってきた僕の(今でも)尊敬する友だちを思い出します。

 

 改めて原点に立ち返り、楽しくなってきました。

 

 

 ここからはなんとなく考えた編集後記のようなもの。

 

 「さらけ出す」の対になる動作「隠す」ことによって、文明は進化してきたように思います。誰かが豊かになるということは、誰かがその分を補って働いてくれている。日本では「奴隷」制度がないけれど、今はそれが「お金」によって隠されているだけ。「お金」のおかげで全世界が「奴隷」か「奴隷でない」かに分かれたのかもしれない。

 しかし本当にすべてを「さらけ出す」、つまり完全にリベラルになってしまうとき、つまり平和主義者の唱える「平和」が訪れたとき、たぶん人間はそこにいないと思います。なぜなら「隠す」ことが人間の進化そのものであると思うから。聖書でアダムとイヴがりんごを食べて、恥ずかしいところを隠す描写、あれはあながち間違っていないと思います。知恵の実、知恵を授かるということは知恵を頭の中に一瞬でも隠すということ。隠すことによって文明は生まれ、人間は進化してきたのかもしれません。(人間至上主義ではありません)

  日本料亭では、来客がゆったりとくつろいでいる間と必死に厨房で大戦争している料理人のみなさん、という対比が見られます。また、アップルの求人サイトをのぞいてみると、「シンプルにすることは、シンプルではありません。」と書いてある。私たちがシンプルなものを使うことができるのは、誰かがそれを一生懸命シンプルにしてくれたおかげ。シンプルなものが使える、シンプルにものが使えるということはそれ自体が進化です。

 だからこそ、僕はあくまで「ムラ社会」を壊したくはない。閉鎖的でない、ムラ社会の人間であるということをやめたくはない。ここが僕が「リベラル」「左翼」に向かないひとつの要素なのかもしれません。