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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

強くなりたい 「で、」優しくなりたい

 

 

 

 

 

 6歳から14歳までの8年間、少林寺拳法をやっていました。いや、親にやらされていました。兄がやっていたから。いや、兄もやらされていたから。私の両親はそんなに子どものことが不安だったのでしょうか…!

 

 兄はまだ何かとコツコツ続けられるタイプで、三日坊主すぎるということで毎日のように兄と比べられていました。当時の私は好奇心旺盛も旺盛ベリー旺盛(今も)、三日坊主どころか一日坊主(今も)、さらには負けず嫌いなのに負けることに慣れきっている(今は「勝負しようとして勝負しない」ことにしてる)冷めた少年でした。

 ところがあれほどイヤイヤ行かされていた拳法が、実を言うと辞める半年前くらいから結構好きになっていたのです(これは親にも言ってない)。まずイヤイヤ行ってるけどあれ? やりだすと楽しいぞ? なんだこれ? という感覚から始まり、「あ! これめっちゃストレス発散になるやん! 楽しー♪」になっていました。普通は「叩いてはいけません」と言われている他人を、ぼっこぼこにしていいわけです(禁じ手はもちろんありますが)。これ相手に悪いけどめっちゃいい。そしてのめり込んでいきました。

 

 イヤイヤやっていたとはいえ、そのときにやっていたこと、教えられた思想といったものは、私の核にすり込まれているはずです。

 と思ったのも、今日、こっぱずかしい気もしますがなんだかんだ自分が「強くなりたい」と願っていることを発見したからです。

 

 私は友人に先日「お前はプライドが高い」という評価を、「別に悪くもないし良くもないんだけど」という定番の困る常套句とともに送られました。確かに自分の言動を振り返ってみると、「オレはおまえらとは違うんだぜえっへん」という自分と「みんなおんなじかぁ…ほっ」という自分がいます。直そうとは思いましたが、直すってなんだ? と思って以来放置してきました。

 「プライドが高い」状態は、「強くりたい」状態です。つまり、自分が実際強いかどうかに関係なく、どうしても強い自分でいたい、ありたい、見られたいという欲がプライドを上げるのです。

 

 どうして「強くありたい」と思って自らを誇張してしまうのか、ここ1ヶ月くらい頭の片隅で考えていたのですが、答えはどうやら「強くなりたい」からみたいです。

 

 

 「常識」という言葉がありますね。Common Sense 、共通の判断力、「みんな」が持っているであろう共通の判断力。何かと言えば私もここに頼ってしまいがちです。本当はそんなものないことが分かっているのだから、その言葉の先に行かなければならないのに。

 しかし、ある意味「常識」という言葉のおかげで私たちの脳が考えすぎでオーバーヒートする可能性が抑えられているとも考えられます。事実、何が善いのか悪いのかなんて、誰も考えられないし、誰も考えきれない。考えきったとしても、おそらくそれは個人の「好き嫌い」の変形にすぎないでしょう。

 

 そんな脆い武器を持って、戦おうとする人もいます。「常識だろうが‼」と。今の私は、その矛盾に気づいていたとしても、まだ迎合してしまう弱い存在です。大声出されたら思考の速度落ちますし体も身を守ろうと自然に固まります。

 だからこそ、私は強くなりたいんだなと思います。今までいろんな経験を通して少しずつ強くなっているけれど、まだ弱いところがある。精神的にも、肉体的にも、社会的にも強くなりたい。

 

 「強くなりたい」というのは、目標でも何でもありません。「あの人くらいまで強くなりたい」なんて理想像もありませんし、期限もありません。ただ「強くなりたい」のです。

 

 自らその強さを見せびらかさなくていい。そこまでの強さはいらない。強くなることだけに一生を捧げることはできないから。けれど、自分や自分の大切な人たちを守るくらいの正当防衛ができるようになりたい。

 「優しい」人でなく、「いい」人でなく、「格好いい」人でなく、「強い」人。まだまだ弱いなぁ。

 

 

 なぜこんなことを書いているのかというと、アルバイトで違和感を感じたから。そしてその違和感を少し消してしまったからです。少しそのことをできる範囲でお話ししますね。

 要は、会社に対するクレームを私個人に向けられたのです。攻撃的な態度で。

 「そのくらいなんだ、あたりまえじゃないか。それくらい耐えなくてどうする。」なんて先人の皆様からお叱りの言葉を頂きそうですが、私はそうは思いません。自分がせっかく感じることのできた違和感を踏みにじろうとは思いません。

 

 会社はそもそも集団であり、特に今の会社組織は分業されています。それにもかかわらず、あまりにも「会社=その人」と思い込んでいる人が多い。社の看板タレントを変えただけで売り上げが上がるという現象はいつの時代も起こりますから、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。けれど、これって例えば「日本人=優しい」「あの人=いつも明るくて元気のある人」という偏見にも繋がります。私にも偏見があって、偏見を完全に取り除くことなんてできるわけがないことは承知していますが、この偏見を攻撃の武器にすることには問題があると思います。

 

 「怒られる/叱られる場数」はかなり多く積んできたと自分では思っています。それ故、「この人は自分の感情の発散のために怒っているんだな」というのと「この人は自分のためになると思って叱っているんだな」というのの違いが少しだけ分かります。だいたい私が人に怒られる/叱られるときは、どっちかなあ、と考えながら聞いています。

 

 話が飛びましたが、会社含めブランドと呼ばれるものはそんな性質を持ちます。外から見ている人はそのブランドを(多くの場合対価を払って)利用しているつもりでも、そのブランドを作り上げているのは個人、隣人なのです。当たり前のことすぎて契約書にすら書かれないことに、不本意に迎合してしまってこころが荒んでしまうくらいなら、その事実を受け止めて強くなった方がいい。

 

 個人と会社、個人とブランドは異なる性格を持ちます。これはいくらでも言い換えが効きます。個人と国、個人と集団、あのときの個人とこのときの個人。

 おそらくは、「そのくらいのもんだ」と心づもりしておく方がこころにゆとりが持てそうです。

 

 遠回しな愚痴にお付き合いいただきありがとうございました。