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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

自由さ - 作品 - 自由さ

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 絵画とか音楽とか、文章とか粘土とか、崇高なものでなくてもいい、私たちが日々生産し消費し、好きなように作り好きなように使うものそれぞれを「作品」と定義すれば、送り手の自由さと受け手の自由さはこのように混ざり合うだろう。

 作品だけが、3次元の世界に存在する。それはモノかもしれないし、音かもしれないし、刹那的な存在なのかもしれない。しかし、一時でもそれは原子によって構成され、集合し、送り手から受け手へと何かを経由して受け継がれる。

 

 それをどのようにつくろうと、何を意図してつくろうと、送り手は自由である。同じように、それをどのように受け取ろうと、何を感じ啓蒙、安寧をもたらされていると捉えようと、受け手は自由である。しかし、ふたつの「自由さ」はこの作品を介してのみ共有されることだけは確かだ。

 正確に送り手の意思を受け手に伝えようとすれば、あらゆる作品を通して規則を作り、「この作品は(現実世界において)これを指す」というようにして地道につなぎとおす必要がある(それが文法となり、文章が作れるようになる)。多くの人に共有されたこの規則は文化となり、やもすればアイデンティティにさえもなりうる。

  しかしそれとは対照的に、あえて、自分の「自由さ」を作品に表現してみるのもいい。その作品を体験することで、受け手も、自分の解釈の「自由さ」を自らの中に表現させる。受け手の解釈は、送り手から得たものではなく受け手自らが自らの中に表現したものである。

 

 こう考えてみると、「自由さ」(あえて「自由」とは表現しない)はヒトとモノ(ここでは作品)との関係性の中にしか存在しないのかもしれない。言い換えれば、ヒトとヒトとの関係性の間には自由さは存在しないのである。ヒトとヒトとの間にモノが挟まることによって、モノを介することによってヒトは自由さを得られる。人間が「自由さ」と呼ぶものは、モノに囲まれた世界なのかもしれない。

 なぜなら、人間は言わずもがな、その他のモノがなければ存在し得ない。人間は、モノから自由になることはできない。私が思い浮かべる「自由さ」とは、やはりモノから自由になってはいない世界である。

 

 なぜヒトは、変わらないモノを求めるのだろう。

 

 そこに「かえってくる」ことのできるモノを求めるのだろう。

 

 とにかく理由は分からないけれど、その探求が止まない限り、芸術作品は生み出され続けるのだろう。