あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「自分とは何か」についての解のようなもの

 「何者かになりたい自分」だった時期の終止符を打つという意味で、「自分」とは何かについて考えてみる。

 

 よくよく考えてみれば、「自分」とは極めてあいまいな言葉である。「自分」ということばの反対側には「自分以外」つまり「他人」ということばがある。この「自分」と「他人」の境界はどこにあるのだろう。

 体を見てみよう。「自分の」体は、自分の神経が通っている部分である。自分の思い通りに動かすことができる部分ではない(そうすると多くの臓器は自分の体ではないことになる)。生まれたばかりの子どもには、どこからどこまでが自分の体なのかが分からない。いろんなものを触ってみて、手足やおなかを動かしてみて、自分の思い通りに動く部分が「自分の」体であることを知る。

 ところが、「自分の」体は「自分のもの」だろうか。先ほどもカッコ内で述べたように、私たちは自分の体のすべてを自分の思い通りに動かすことはできない。食べ物を意識的に消化することはできないし(せいぜいできることはおなかをさすって「がんばってくれ〜」と声をかけるくらいだ)、筋肉の衰えを自分の意志で止めることはできない。元を辿れば、自分の体は両親から与えられた体であるし、自然が生み出した生命体から生まれたひとつの生き物としての形である。

 

 「自分のもの」と言うには、あまりに私たちは自分の体について知らないことが多すぎる。まるで成分のまったく分からない黒い液体を飲めと言われているようなものである。

 

 それでは、今この文章を書いている存在が自分にとっての「自分」なのだろうか。確かに話の大筋を決めているのは自分かもしれないが、文章の口調や結び方を決めているのは大筋を考えている自分ではない、いわゆる「無意識」の自分である。それを制御することは非常に難しい。

 

 「自己責任」ということばに苦しめられた、違和感を持つ方もいるだろう。どこからどこまでが自己責任なのかがはっきりせず、法学者も頻繁に議論を重ねることになる。ひとつの街の住民が全員麻薬中毒になるという事件があったとして、そのすべての住民に対して「麻薬中毒になったのは自己責任です」といえるだろうか。何かそこに社会的な原因も見出せるのではなかろうか。根性のないあなたが悪い、勝負に負けるあなたが悪い、こういった考え方には限界がある。

 

 本当は、少なくとも私は、「自分」とは何かなんて知らないのである。「自分」とは何か、について自分で考えることより、「あなた」はこういう存在です、と他人から教え説かれる方が楽である。これは宗教や戦争の歴史を見れば明らかである。

 

 

 つまるところ、私は唯物論者なのかもしれない。ひとつ前の記事で作品の周りに広がる自由さについて述べたが、不自由で確実なものは「作品」しかないと思っている。言い換えれば「物質」である。誰がどう考えようと、どう捉えようと、物質の塊は歴然とそこにある。それについて解釈するのは自由な人間であり、そこに世界はある。

 世界ということばは仏教用語で、広辞苑の定義によれば「宇宙の中のひとつの区域で、一仏の教化する領域」のことである。「世界」ですら、実はより大きな空間の中にあるひとつの「区域」であり、「領域」である。要は、私が「自分以外」の空間のことを指して用いる「世界」ということばは、それを認識する自分が存在しなければなりたたない空間である。やはり人間は、少なくとも私は、不自由な物質を見て、自由に解釈しているだけなのである。

 

 不自由な物質に関する情報が、自由な人間を何度も通過することによって改ざんされるケースは私たちもよく知っている。伝言ゲームがその例だ。ひとつの単語ですら、2,30人の耳と脳と口を通せば誤って伝えられることがある。それほど人間は自由なのである。

 もっと抽象化すると、不自由な存在は自由な存在を自由に踊らせることができる。自由な人間は不自由な(完全な)神、神話(作品)を生み出してそれに従ってきた歴史がある。先人の書いた書物の解釈に踊らされ、戦争を起こすこともあった。

 

 ここで思い込んではいけない。従わせる存在は従う存在よりも優っている、と。「優劣」というのもひとつの自由な解釈であり、それは自由である限りそう解釈「しない」ことも選択できる。不自由な物質としてここに存在するのは、「従わせる存在があり、従う存在がある」という情報だけである。

 

 

 さて、「自分」の話に戻ろう。「自分」の範囲の区切りがないのは、「自分」という存在そのものが自由だからである。それは自分「であっても」いいし、自分「でなくても」いい。誰か、何かに服従する自分でもそれは自分であるし、自分の好きなように行動する自分もまた自分である。不自由な物質としての「自分」にもなれるし、自由な人間としての「自分」にもなれる。

 私は自分の好きなことは分からないが、嫌いなことは分かる。何が正しいかは分からないが、何が正しくないかは分かる。なぜか。自分の好きなことは「自由」であり、嫌いなことは「不自由」だからである。不自由なことは目に見えやすく、形に残りやすい。私のすべての行動は「おなかすいた」「静かすぎる」「ここにいたくない」「離れたくない」といった不自由を感じたときに起こっている。

 

 ここまで来ると、不自由になるか自由になるか、その線のどこに自分を置いたらいいのか、その基準はつまるところ「そのときの自分の好み」ということになる。あるいは、「そのときの自分の嫌いでない方」である。

 言えること(この場においての不自由なこと)は、「そんなの頼りになるかよ」ということである。

 

 これは、思考停止になるのではなく、むしろ思考し続けることを宣言することである。「何者かになりたい自分」を満足させるために、自由な存在を不自由にするのではなくて、なんか自由にやればいいんじゃね、と思った。

 

 終止符。

 輪廻からではなく、二項対立からの解脱。