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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

ぼーっとする【ベトナム滞在6〜7.5日目】

  体がアリを這う感覚に慣れてきました(私はどこにいるんだ…)。気になれば潰せばいいし(逐一動く様子は肌で感じる)、ほとんど噛まれないし、まあ好きに這ってくれ。

 
 朝早く、Binさんの待つCục gạch quánというカフェへ。30分ほど早く着きすぎ、同じくカフェに家が近く早く着いた浅田さんと合流してBánh Miをいただく。 15KĐ。これでも高いと言われたのだから驚きです(平均は10KĐだとか)。50円ですよ、50円。道端で売っている、中身の選べるBánh Mi。お風呂のイスのようなイスを取ってきて、座り(イナヤン座り)、流れる往来を眺めて食べる。いいねえ。
 
 Binさん、真剣に私たちの将来を考えてくれている方でした。自分の過去を打ち明ける私たちに、次々と占い師のように進むべき道を示す。もちろんBinさんの意見でしかありませんが、最も進みづらい道に進む勇気を与えていただきました。ベトナムの親子は、全体的に親が子どもを守り、子どもは何も考えたくないからそれに追随する。両者がWin-Winの関係になってしまっているから、相互依存が抜け出せない。抜け出そうとも思わない。Binさんはそれが嫌いだったみたい。
 最もおもしろかったのは、Binさんが学生に「どんな仕事がかんたんで、お金が稼げるか?」と質問されたときに返す答え。「強盗だよ。」確かに。それが嫌ならどっちか捨てろ。強盗以外の答えを探している時間があるなら、あきらめて他をあたれ。
 
 3人の経営者の方にお話を伺った中で、「やっぱり」と思ったこと。「気持ち悪いの方が分かりやすい」。何か気持ち悪いと思ったら、今やっていることを見直した方がいい。原因を探った方がいい。辞めてもいいし、自分の意志を変えてもいい。
 
 友人たちが自分の過去を話して、Binさんとの会話の中で「本当に自分がやりたかったこと(≠本当の自分)」を見つけるのを見ました。それを通して自分も、自分のやりたかったことを見つけました。とりあえずやりたいこと同士で浮気しながらやっていきます。この場所を含めて。
 
 
 
 
 Binさんとの対談+ランチ終了後、ヒマに。友人たちと歩きながら、私は念願のCDショップを突如見つけ、友人たちとは分かれることに。
 CDショップ。ホーチミン市内、少なくとも1区内には全くと言っていいほどありません。地元の人々が音楽に興味がないのか、それともダウンロードに慣れているのか。とにかく、日本とは違うな、と思いました(日本にも販売CD専門店は少なくなりましたが、CDレンタル店はかなり普及しています。また、日本ではダウンロードで音楽を聴くというスタイルはあまり普及していません)。
 置いてあるCDは正規品(らしきもの)に加え、明らかな海賊版も置いてありました。カバーは家のプリンターで印刷したような紙、中身のCDは焼き増しされたようなもの。うーん、まあ1枚買ってみるか。
 結構真剣にジャケットだけで選び、3枚買いました。でも総額600円ほど。安いなあ。ちなみに海賊版は10KĐ(50円)。Bánh Miより安い。
 
 ホテルで聴いてみましたが、まあまずまず。典型的ゆったり系J-Pop、といったところでしょうか。あとなぜかEDMっぽいのも入ってました。木村先生オススメのLê Cát Trọng Lýの方がいいな。
 
 その後、一つ星ホテルに侵入してNhà vệ sinhをお借りしたりしてフラフラしていると、いつの間にか統一会堂の前に。ああ、ここだったのかあ。統一会堂の前の公園のベンチで、ぼーっとすることにしました。
 昨日のミーハンさんの話。家に居場所がないから外に出る。そこで飲まれたのがコーヒー。今、自分も居場所がなく、とりあえず公園にいる。同じように、バイクの上に、歩道に、建物のスキマに、路地に、居場所がなく自分なりに居場所をつくった人たちがいる。
 「ベトナム人のすきま」に興味が湧いてきました。
 日本には(日本以外でも、都市空間においては)、「道に座ってひとやすみ」という感覚があまりありません。「道」に居場所を見出せないのです。「こんなところに座り込んで」というプライドが邪魔をするのです。でも、ホーチミンにはそれがある。休みたければ休むし、動きたいなら動く。踊りたいなら踊るし、暑けりゃ涼む。いいじゃないですか。
 
 
 
 
 
 
 15分くらい、ベンチで寝ていました。荷物を守りながら、意識と無意識のすきまをうろうろしていました。たまに学校や家、公園でよくやる私のこの寝方。たばこを吸うより、コーヒーを飲むより、心地いいんです。筆ペンで遊んでみたり、向かいにいるおじさんを隠し撮りしてみたり。「すきま」を研究するなら、そこにカメラはいてはいけない。隠し撮りの練習をしておこう(悪用厳禁!)。
 
 筆ペンで遊んでいたら浮かんできたよしなしごとを書き写しておきます。
 
 
私は言語というひとつの作品が好きである。それはさらさらと流れる渓流である。そこにある水(道具を使うもの)はうつろいゆくが、その水の形(道具として使われるもの)は変わらない。そして、同じ流れというものは、渓流には存在しない。
その流れを変えたり、止めたりしようとしても、長くは保てない。それは文化、人生などの抽象的概念に顕著だ。例えばここに「犬」という言葉がある。犬には、辞書に載る一応の定義がある。しかし、そのような犬は現実には存在しない。それは言葉という私たちが初めて作った仮想世界のみ存在する「本質」である。実存は本質に先立つ。
このとき、本質を成立させているものは実存である。あらゆる実存が、あらゆる刹那に生じることで本質は成立する。
その儚さが、私は好きなのである。
 
音楽、映像、パフォーミングアーツ、建築という芸術体験は、川の体験である。遊びも、「文字を書く」という体験もこれに当たる。私は川が好きなのだ。それは、ここにあってここにないものなのだ。「動」の芸術なのだ。
過去の映像、文章、写真、音などを体験して楽しく感じるのは、それを思い出し、また新たな類似する体験ができるからである。
 
 
 
 17:30、レクイドン高校内村山日本語学校へ。実際に日本語教育の現場を見ました。レクイドン高校というホーチミンで2番目の学力を誇る高校の教室を間借りして、日本語教育がここで行われています。その授業を見学。
 日本語「教育」よりも、「日本語」に興味が湧きました。教えるのが難しい。故に、日本語は難しいのです。
 もちろん文章の組み立て方、文の作り方などは言わずもがなですが、私が気になったのは「発音」。
 国際的に見れば、日本語の発音は異例です。「日本語 発音記号」と検索してみれば、日本語の国際発音記号を見ることができます。こんな記号見たことないというものばかりです。
 
 例えば「し」。siでもなくziでもなく「し」です。syeihinではなく「せいひん」。sirimasenではなく「しりません」。
 「ど」も「du」に。「こ」も「kho」に。「や」も「Đa」に。「さ」も「sa, tha」に。ふだんあたりまえに発音している私たちですが、実は初めての人が多い口の形をしているんですね。
 また、全音を通して早口でなければすべての母音を発音する日本語。そうでない母語話者にはめんどうなようで、ひとつひとつ丁寧にやろうとするとアクセントがなくなったり…。
 
 そして問題だなあと思ったのが、「会話できない」ということ。例えば、私たちが習う「正しい日本語」では、「あなたのお茶をつぎましょうか?」「はい、お願いします。」ですが、例えば友人同士でこんな会話はしません。「お茶つごうか?」「うん、ありがとう」くらいですよね。日本語を学ぶ彼らは、私たちが学校で英語を学ぶときのように、「アナウンスとしての日本語」を覚えます。しかし実際には…
 
 
●読む/書く
 ・文章
  ・論述
  ・エッセイ
  ・日記
  ・特定の人に見せるもの
  ・不特定少数の人に見せるもの
  ・不特定多数の人に見せるもの
 ・手紙
  ・手書き
  ・パソコン(キーボード)
  ・ケータイ、スマホ(フリック)(ガラパゴス
 ・詩
 
●聞く/話す
 ・アナウンス
 ・人と
  ・不特定多数
  ・1人
  ・2人
  ・3人
  ・4人
  ・5人以上
  ・赤ちゃんに
  ・年下に
  ・同年代に
  ・年上に
  ・祈りの言葉
  ・文章を読み上げる
  ・会話文を読み上げる
  ・物語を読み上げる
  ・落語
 ・歌
 ・外国人に(非日本語母語者)
 ・機械に
 
 それぞれ、話し方が違いますよね。私は「コミュニケーションのインターフェイス」によって使われる言葉、語尾などは完全に変化してしまうものだと思っています。例えば同じ「SNS」というインターフェイスでも、Facebookならば若干長め、Twitterならば体言止めの文章も使われます。これらを使い分けることができると、コミュニケーションがスムーズにいくようになります。自分が他の言語を学ぶときにも有益なことを学びました。
 高校から帰宅すると、さすがに眠い。そのまま眠りの世界へ…。
 
 
 
 
 目が覚めると6時。しかし起き上がれない。久しぶりに来た、夢から抜け出せなくなる現象。起きたときには9時。3時間もやつと格闘していたのか。
 起きたと思ったら眠ってしまう、ということがあります。起きたいと思うのに起き上がれない現象です。一人暮らしになってから(親から起こされるということがなくなり)、よく体験している現象です。起きて、目の前の世界を見る。例えばコーヒーカップ。しばらくすると眠りがやってきて、そのコーヒーカップから夢がスタートする。夢見まくり。
 
 前に書きましたが、臨死体験のようなものをやっているので、こういう現象が起こると改めて「意識」というものの弱さ、儚さを思い知ります。所詮意識は、無意識に勝てない。しっかり労ってあげないとこういうことになる。
 
 改めて、今日から「すきま」を探す旅に。Công Viên Tao Đanへ。Cà phê sữa đàにNui Xào Bò(マカロニ肉空心菜炒め)で45KĐ。ん? Cà phê sữa đaは8KĐだから、20KĐのはずだぞ。まあいいか、朝遅いし。お疲れさん。
 ごはんを食べて、スコールが降って、やんだところで公園の中へ。公園で一日ぼーっとするのもいいなあと思って、ベンチや東屋で13:30まで過ごしました。以下、メモ。
 
 
・スコールに対するみんなの反応が好き。急ぎつつ、慌てない。あせらない、雨を嫌っている表情でもない。
・のくせ、水はけは悪い道路。スコールやんでしばらく経っても水が抜けない。屋根からも水が伝う。
・この公園にいる人たちは、「ふだん」何をしているのだろう。ずーっといる人もいる。あるいは、ここが「ふだん」なのか?
・「ぼーっとする」というのができる人あhそう多くはない。なぜなら人間は社会的・動物であり、社会と動物としての自分には逆らえないからである。逆らわないということは、基本的には「続動」の状態ということだ。自分の動物としての自分と、社会の「静」を守る、保つために、逆らわない人は「動」し続けなければならない。
・日本のカフェ、公園は、そこが静かならば静かにしておかなければならないという雰囲気。ベトナムのそれは、静かにしていても、うるさくしていてもかまわない。うるさい、静かすぎると思うのなら、他の場所に移動すればいい、という感じ。
・静かだった東屋に若者が訪れ、ビートを流し始めた。その後若い女性2人が真ん中でおしゃべりしながらおやつを食べ始めた。それでもそれまでいた男2人は何も咎めなかった。他人だからかもしれない。その2人が平和主義だったからかもしれない。でも、それは許されることなのかもしれない。
・開放型イヤホン(ノン-ノイズキャンセリング)の良さは、周囲の音も音楽になること。(ちなみに今日はハナレグミのアルバム「What Are You Looking For?」を一枚聴きました)
・日本の公園じゃ絶対しないような格好、姿勢でいた。雨が来て、人々が東屋の下に集まった。私はその、道端で怠けている人のきもちが分かった。
・やりたくない/やるきがない の違い
・常に3, 4匹の蟻が体を這う。
 
 そろそろかな、と思い公園を離れ、ミーハンさんと出会ったM2Cへ。ひとりで集中できるおしゃれカフェ。これもまたいい。
 
 
 トイレに離れたときに、飲みかけのカプチーノ捨てられちゃったけど(荷物全部持っていく私も悪い)。
 
 
P. S.
 公園にいるとき、母親からLINEが来て、自分の周りの風景を見せてあげました。「きたんーばらすか! そがんとこおっと? まあ、あんたが楽しかならよかけど。」と言われました。

※翻訳:汚らしい! そんなところにいるの? まあ、あんたが楽しいならいいけど。