あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

Ghost

 私の人生の中では最も長い、14日間、自宅や拠点を離れて暮らす生活。これほど、戻ってきたときの反動が大きいとは思いませんでした。

 東京の街はおそろしく静かで、皆で申し合わせたように道に人の姿はなく、横断歩道を渡らねばならず、人のよけ方に苦労し(顔は合わせないまま、左右どちらに避けるべきか二人で探る)、公園は人と蚊でいっぱい。

 エンジンをふかしたバイクや車を、ふだん以上に身近に感じていた14日。東京では「危ない!」と感じられる距離を、バイクや車が駆け抜ける。そのなんともいえない「恐怖感」のようなものに飢えていました。

 

 特に、音。音楽の聴き方も、聴く内容はともかくとして本当に多様だったホーチミン。まず日本にないのは、大きな大きなスピーカーで、ひっちゃかめっちゃか音を鳴らすあの方式。イヤホンよりあのスピーカーをよく見たし、イヤホン屋よりあのスピーカー屋をよく見ました。

 「音楽はみんなで楽しむもの」という常識があるのかもしれません。そう考えると東京の方が特異です。街は静かなのに、人々の耳はそれぞれ違う音に溢れている。

 同じスピーカーから聞こえる音でも、屋内で聴く音と屋外で聞く音とではまた違うことも、帰ってきてから気づきました。壁に吸収される音と、空に吸収される音。放たれると部屋中を反響する音と、放たれたっきりもう二度と戻ってこない音。心もちの問題もあるかもしれませんが、やはり一番「心地よい」のは屋外で聞く音だなあと。

 

 ホーチミン滞在期間で学んだことを、現時点で一度整理しておこうと思います。調査には関係のない部分で。

 

 

 まず、白状します、頭では理解していたつもりでしたが、この個人的な「好き嫌い」と一般的な「優劣」の違いにまだ私は本当には気づいていませんでした。

 これは、「仕事に優劣はないとつくづく思う」という木村先生の言葉から気づいたことです。私はホーチミン滞在中、5,6回の朝をタオダン公園という公園のカフェで過ごしました。そのカフェは価格が良心的で、社会の様々な階層の人が訪れます(と、現地の方がおっしゃっていました)。そのため人が多く、売り子さんや靴磨きの方などがよく訪れます。見方を変えれば、このカフェではいろいろな「仕事」が交差する光景を見ることができます。

 私は、小物を売り歩く仕事や靴を磨く仕事はあまり好きではありません。実際にやってみると変わることもあるかもしれませんが、少なくとも今はそうです。でも、それは私の「好き嫌い」であって、その仕事をしている人がどうこうという話ではないはずです。

 これを私は真の意味で理解していませんでした。その仕事をしている人を軽蔑しているとか、見下しているとか、そんな気持ちは全くありませんでしたが、好き嫌いと一般的な優劣との区別が曖昧でした。そして、仕事に関していえば、仕事の優劣はないということについても。

 

 そして、自分にはどうしてそういう仕事をしているのか、分からない人がいる。どうしてそういう考え方をするのか、どうしてそういう態度を示し、行動をするのか、分からない人がいる。そういう人を、分からないままにしておくということ。その人に興味が湧いて、その人を分かろうとするにしても、「いつかは分かる」という前提を置かないこと。

 どうしても、「いつかは分かるだろう」と思えるものしか分かろうとしない癖が付いていたように思います。

 

 最後に特に感じたこと、本当に大事だと身を以て知ったこと。「伝える」ということです。自分の気持ちや考えなどを、余計な所作なくすっと伝える。それはもちろん言葉でなくてもいい、方法は何でもいいのですが、とにかくすっと「伝え始める」ことです。

 この滞在期間中、何度も自分の気持ちを伝えないことで、自分が不利益を被ったり、相手に無駄な行動をさせてしまったりしました。

 特に、ホーチミンは東京に比べると「伝える」機会が多かったです。東京は何も言わなくても事が進みますが(一言も口にせず電車で移動し、学校で授業を受け、行きつけのチェーン店でご飯を食べることができる)、ホーチミンだとそうはいきません。さらに土地勘もない「観光者」として来ている場合には、聞かないと分からないことも多々あります。看板も読めない、そもそも看板がない。いろいろと「人に聞く」ことが大切になる場面がありました。

 「自分でできる」と、自分一人でやってみることも大切ですが、同じように「人に頼る」「人に聞いてみる」ことも大切で、そのバランスをうまくとれるようにと意識していました。いまだバランスとれてないけど。

 

 ここでいう「伝える」というのは、この授業で用いられているエクスポージャー理論でおなじみの「さらす」という言葉と似ています。自分の考えを外部に「さらす」。分からない、知らない、教えてほしい、どうにかしてほしいという気持ちを「さらす」。

 難しいのは、「伝え始める」「さらし始める」、つまり「伝える」「さらす」きっかけに行き着くまでのステップです。伝えてしまえば、さらしてしまえばどうってことはないのですが。小学生のころ、何かをし始めるまでが長かった自分を思い出します。なんだ、今の自分も十分長いじゃないか。

 

 「ちゃんと伝わったか」を気にする前に、まずきちんと「伝え始める」こと。これが自分の正すべき最優先事項です。ひとつはクリアできたから、きっと他もクリアしていけるはず。

 

 このブログには、自分のありのままの姿を投影する、さらすと書いておきながら、ホーチミンで学んだ最も大切なことが、「伝える」こと。皮肉なものです。でも、あせらず、一歩ずつ…。

 

 

 「伝える」ことに関連して、今、「ちゃんと原本を読もう」キャンペーンの一環としてマルティン・ハイデッガーの「芸術作品の根源」を読んでいます。

 

芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)

芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)

 

 

 夏休み長期貸出を利用してホーチミン滞在前から読んでいますが、いまだ50ページ目とずっしりおいしい内容です。さらっと読むこともできるのだろうけれど、なかなか私にはそれが難しい内容です。

 芸術作品も、何かを「伝え始めた」結果です。私は「作品」という言葉を広く捉えています。「作品」は、何もこの本の表紙に使われているゴッホの「靴」のような絵画だけでなく、映画、音楽、建築、空間、料理、会話、動作、流れ、などといった、何かを「伝える」ための道具として捉えています(今は)。そう考えると、いい本と巡り会ってるなあと思います。少しずつ少しずつ読み進めます。うとうとしながら。

 

 それが「体験を言語化する」訓練でもあり、「さらす」ということでもある。いろんなことが自分の中でつながってきている気がします。