あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「怖い」という感情とは何か

 このブログで(意識的に)書いている、「怖い」と思ったこと。ベトナム1日目のブログを見ると、そのとき体感した怖さが尋常ではなかったことがわかります。

 「怖い」という感覚がどんなものであるか、考えが進んだのでまとめておきます。

 

 「怖い」とは、「自分の想像力を激しく刺激するもの」に遭遇したときに発生する感情だと思います。

 わかりやすい例が、怖い話を聞いたときに感じる「怖い」です。「ほんとうにあった怖い話」や「怪談レストラン」などメディアを通じて聞いたり、友だちや家族から聞いたりしますね。実際に自分が恐ろしい危険なものが迫っているわけではないのに、怖いと感じる。これは、聞いたり読んだりして想像を働かせた結果、自分が一番怖いものを想像してしまう現象のひとつです。

 デジタル大辞泉では、「それに近づくと危害を加えられそうで不安である。自分にとってよくないことが起こりそうで、近づきたくない。」「悪い結果がでるのではないかと不安で避けたい気持ちである。」「不思議な能力がありそうで、不気味である。」と定義されています。この「〜そう」「〜ではないか」という判断は、想像によってもたらされる結果のものでしょう。

 以前、私は「怖い(恐怖)という感情は、まだ自分が体験したことのない感覚を得たとのない起こる感情」と書きました。しかし、先ほどの怖い話の例でいえば、怖い話は何度聞いても怖く感じることがあります。恐怖を覚えさせるのに、「新しい感覚」は必要ではないのです。

 

 アランの「幸福論」を読んでいるのですが、アランもこの「想像力の暴走」の所以について冒頭で触れています(余談ですが、幸福論がエッセイ形式で読みやすい平文で書かれていることをまったく知りませんでした)。

 

 子供にかえった年寄や、「廃人」のようになったアル中患者の友だちに会うのはつらいものだ。なぜつらいのかというと、彼らに今のままでも生きていてもらいたいと同時に、今のままでは生きていてもらいたくないからである。しかし、自然は着実に歩み、その歩みはさいわいなことに、とりかえしがつかない。新しい状態がそれぞれこれにつづく状態を生み出す。あなたが悲痛を一箇所にかきあつめても、それは時の路上にばらまかれる。次の瞬間を運んでくるのは、いまこの瞬間の不幸である。老人とは、老巧に悩む若者のことではない。死人とは、死んでいる生者のことではない。 それゆえ、死におそわれるのは生者のみであり、不幸の重荷を心に感ずるのは幸福な人たちのみである。これを要するに、人は自分の不幸よりも他人の不幸のほうに感じやすいこともありうるわけだ。そして、これは偽善ではない。ここから人生についての誤った判断が生まれ、気をつけないと、それが人生を毒する。悲劇を演ずるかわりに、真実の知恵をもって、力いっぱい現在の真相を考えなければならぬ。  (「幸福論」アラン著 串田孫一、中村雄二郎訳 白水uブックス p.37「精神の病い」より引用)

 

 自分の不幸はあまりにも「リアル」に近視眼的に体感するので、不幸と感じない。しかし、他人の不幸、あるいは今の自分ではない自分を襲うであろう不幸に関しては、それなりに離れているから不幸と感じる。

 ここでの「不幸」は「恐怖」とも言い換えられそうです。想像力を働かせる余裕、すきまがある距離を保っているから、私は恐怖を感じるようです。

 

 想像力もほどほどに働かせなければなりません。しかし、頭で制御できるものではありませんが。(幸福論でアランは、想像力含め感情は、行動でしか制御できないと続けます。つまり、想像力を働かせないようにするには、適当な行動をする必要があるようです)