あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

理解する/されるの舞

 国際交流、世代間交流、異文化理解…。ぱっと思いつくものだけでも、「他者を理解する」ことが目的である言葉は山ほどあります。大それた名前はついていなくても、家族や友人、恋人、仕事仲間、面識のない人を理解する場面はあるでしょう。

 

 この「他者を理解する」ことについて、深掘りしてみます。

 

 まず、なぜ私は「他者を理解する」のでしょうか。その人に対する好奇心や、「そういうことになっている」からとか、自分の考え方は必ずしも正しくないからとか、そういった理由よりも深い理由があります。

 それは、私の場合は「理解しないと怖いから」だと思います。自分が把握できないもの、ひと、ことに対して、私はたまに妄想することがあります。それは私にとってプラスのこともマイナスのことも、です。そんなことを考えても仕方がないとは分かりつつ、それでも今あの人は何をしているのか、どう思っているのか、なにがしたいのかを「予測」します。その予測が頑丈なものでなければ、「怖い」という判断になります。

 「怖い」という判断、感情は何でしょうか。「怖い」は「嫌い」とは異なります。「嫌い」よりももっと根本的な、即効性のある判断だと思います。その対象が自分にとって「嫌い」なものであったとしても、それが怖いのであれば、「嫌いだ」と思う前に怖いと感じるでしょう。

 私は、頭の中では「理解できないものも、そのものとして受け入れる」という考え方に同意しています。たかが数十年しか生きていない私が、この世のすべての事象を理解できるはずがないのは百も承知です。しかし、それとは関係なしに「怖い」という感情は起こります。その「怖さ」を払拭するための方法のひとつが、「理解する」という行動なのだと思います。

 

 私は、人間のすべての行動は恐怖から逃れるためのものではないかという仮説を持っています。言い換えれば、「安心したいから」行動するのではないか。恐怖から逃れるための方法としては、その対象を自分の目の前の世界から消す、取り除くか、または「理解する」「共感する」ことによって恐怖の対象ではないとするかの2つがあります。「理解しないと怖いから」理解するという理由はこの仮説に基づいています。

 

 では、具体的にどうすれば「他者を理解する」ことができるのでしょうか。

 

 その方法論としては、2つ挙げられます。ひとつは、理解する対象に直に接する(内を知る)こと。もうひとつは、理解する対象を取り巻く事象に接する(外を知る)ことです。大切なのは、どちらかに偏らないこと。

 

 さて、このようにして「他者を理解」していく中で、注意しなければならないことがあります。それは、「自分を理解してもらう」ことを忘れてはいけない、ということです。

 自分は何者なのか、自分はどういう文化を持っていて、どういう情報を持っているのか。それを伝える(理解してもらう)ことも大切だということです。

 

 これは、多くのことに応用が利きます。

 例えば、初めて会う方とお話をするとき。自分のことをまず伝えなければ、相手も自分の話をしようとは思わないでしょう。そういうことを教える「会話ノウハウ」本も実在します。

 例えば、他人に何かを教えるとき。教える側目線で見ると、何が分からないのかが分からない人ほど教えづらいものはありません。「キーボードの使い方が分かりません」よりも「KIと打ちたいのですがどのキーを押せばいいですか」と聞かれた方が答えやすいように。教えてもらう側は、教える側に「何を教わりたいのか」をきちんと伝えるべきです。

 

 ひとつの定説が生まれます。「他者が自分を理解する量と、自分が他者を理解する量は比例する」。他者を理解したければ、自分を理解してもらわなくてはなりません。反対に、自分を理解してもらいたければ、他者を理解しなければなりません。

 

 ここで、自分が過去に書いた記事の意味が確かめられたように思います。「

強くなりたい 「で、」優しくなりたい」です。今再読してみましたが、言いたいことがよく分からない文章ですね。

 

 この記事では私はひどいクレーマーに出会ったようです。そして、そのクレーマーに対して自分がどういう態度をとるべきかを考えながら書いた挙げ句、結論がまとまらずごちゃっとした文章になってしまったようです。

 私がここで述べたかったのは、タイトルの言葉通りです。まず自分が強くなる、そしてその後、優しくなる。それが自分の目標である、と、このタイトルの言葉は述べています。ただ、優しくなるだけではいけないと思ったのです。

 

 「何かをしたい」と思うとき、私はなぜそう思うのかといえば、おそらくそれあるいはそれに類似することをしている人、もの、ことを見ているからです。プログラマーになりたいという人は、おそらくプログラマーとして働いている人を見たり、何らかのプログラム(アプリ)を使っていてその開発者になりたいと夢見たから、プログラマーになりたくなったのでしょう。

 このように、「何かをしたい」という欲望は、おそらくは外部からやってくるものです。しかし、「本当に何をしたいのか」という欲望の選別は、自分にしかできません。そしてその選別した欲望の確からしさが、そのままその人の欲望の「強さ」に直結すると思います。これが、「強くなる」ためのステップです。

 さらに、その「強さ」を社会で活用するために、「優しくなる」必要があります。「強さ」は保ちつつ、それを受け入れてもらう、理解してもらうために、それ以外の部分で「優しくなる」。それが自分の欲望を社会の中で満たすための必要条件です。

 

 

 先ほどの他者理解に話を戻せば、そういった強さによってもたらされた優しさが、「他者に自分を理解してもらう」ための道具になります。

 

 今日のベトナム講義で出た、「理解する/される」の関係から考えたことをまとめてみました。

 ちなみに現在の私も「強くなりたい→優しくなりたい」の途中です。強くなるために情報収集をしていますし、ある程度強くなっている自分を活用して優しくなろうとしています。たまに「それでいいのか?」と全否定してしまいたくなる気持ちも起こります。しかし、過去の自分をここでいう「他者」に置き換えれば、そういう自分も理解しようとすることができる。または、理解できなくとも「そのものとして受け入れる」ことができる。「自分に役に立つことだけ」するってどうなのよ? と唱えながら。

 アランが幸福論の中で述べているように、私たちは何もしなければ退屈してしまう動物です。その退屈は深く考えることを誘発し、本当に必要なのは行動なのに、思考の罠にはまってしまう。私も2年後には何らかの形で環境が変わり、なんだかんだ行動します。「しなければならない」とか「強制されている」という感覚ではなくて、そこに「怖い」という感覚はなくて、ただ行動すると思います。それまで、強くなるための修行をしっかり続けようと思います。おそらく。