読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「空」と「宇宙」、謎の存在の捉え方/森美術館「宇宙と芸術展」に行ってきました

 六本木森美術館で開催中の「宇宙と芸術展」に行ってきました。

 

 

 

 

 古今東西あらゆる人々が考えた「宇宙」の様子、そして今(主にNASA)行われている宇宙開発事業の紹介等が展示されていました。そのうち、私が感動した作品順に紹介していこうと思います。

 

 まずはチームラボの「追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく」。事前にこの作品の写真を見て、直感で「ああこれは行かなきゃな」と思った作品でした。

 最近少しずつ増えてきた、インスタレーションアートです。このチームラボの作品の場合は、360度壁と床に映像が映し出され、まるで宇宙空間を飛行しているような感覚になるもの。

 まずは映像を見てみてください。ひとつが本来3次元の作品を2次元で見るために最適化されたもの、もうひとつは本来の3次元作品のプレビューです。

 ぜひパソコンやスマホの全画面表示で、没頭してみてください。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 「板野サーカス」という映像美表現技法を使って、鳥がダイナミックに飛翔する様子を迫力を持たせて表現しています。本当に美しい。

 さらに驚くのは、この鳥の飛行する「通り道」、鑑賞者がどこにいるか、どんな動きをしているかをコンピュータが察知して、毎度公演の度に変化しているとのこと。鑑賞者をできるだけよけるように、もしぶつかってしまうとそこに花が咲くように、コンピュータが判断しているのです。すごい技術…。このことを私は美術館で体験した後に知りました。もう一回これだけ行きたい…。5,6回は見たい。

 

 さて、ネット上にこの作品についての制作側の「説明」は書かれていましたが、解釈(解説?)は書いてありませんでした(あたりまえでしょうか)。そこで私がこのインスタレーションを体験して勝手に受け取ったメッセージなどをまとめてみます。

 まず何を表現しているように見えたか。私にはカラスが生き物の「いのち」で、白く光る「通り道」がそれまでいのちが歩んできた道(人生?)であるように見えました。初めの方に出てくる宿り木のようなものが「母体」です。母体から飛び出したいのちは最後、花となって静止する(いのちが絶える)まで、あらゆる場所を休むことなく飛び続けます。途中いろんな他の「いのち」にぶつかることであらゆることを学び(小花を咲かせ)、最後に大輪の花を咲かせる。

 ここからは以上の仮説を元にした拡大解釈です。まず1つ目、「通り道」について。「通り道」はこの作品を見ている中で、一度も太くなったり細くなったり消えたりすることなく、同じ形で残り続けています。つまり、いのちの歩んできた道(過去)は一切変わらないということ。さらに言えば、過去は常に明るく(道は白く光り輝いている)、未来は常に暗い(軌跡のついたところを通らなければ)。「暗い未来」=「お先真っ暗」と聞くとネガティブな印象を持ちがちですが、それは当たり前のことであって、もしそれが明るいとすれば、それは過去の道を歩み直しているときなのかもしれません。

 

 2つ目、母体から初めに飛び出した鳥(主人公?)の周りにはいつも他の鳥たちがいます。生き物はひとりで生きることはありません。ひとりで生きているように見えても、そこには先人の助け、文明の助け、他の生き物や大地の助けが常に周りにあります。鳥は「いのち」を表していて、「いのち」の解釈をあらゆる生命体あるいは生命集合体へと広げていけば、そう解釈することも可能ではないかと思います

 さらに、最後の大輪の花が咲くシーン。なぜ大輪の花が咲いたかと言えば、周りの鳥たちがひとつに集合したからです(最後の花が咲いた後、鳥たちが一切見当たらないことから、鳥たちはひとつに集合したと考えてもよいと思います)。この様子、日本の民間信仰の三十三回忌が意味するものと似ています。故人が亡くなってから33年目の年のことを三十三回忌といいますが(これを「弔い上げ」と呼びます)、この年になると故人はホトケから神様になります(ちなみに年忌という考え方のもとになっている中国仏教には「七回忌」以降の年忌は存在せず、それらは日本に仏教が伝わったときに日本で独自に付け加えられたものとされています)。ホトケから神様になるときに何が起こるのかというと、その故人の「個性」が失われ、「○○家先祖」を構成する存在になるということです。このとき戒名も失われ、「○○家先祖」と表現されることになっています。本当によく似ていると思います。何か関係があるのでしょうか。

 

 3つ目、全体を通して流れている曲は、尺八とピアノ、バイオリン、鈴、ドラム、電子音で構成された、終わりのないいわば「永遠の曲」です。先日も書いたモーラムも、サビのない曲でいつまでも踊っていられる曲でした。この鳥たちの鼓舞は永遠に続いていく…ということでしょうか。とすると仏教の輪廻思想? に近いのかもしれません。おそらく花となって失われた鳥たちの次にも、母体から飛び立つ鳥はいるでしょうから。

 

 4つ目、これは問いかけです。この映像を見ている鑑賞者(あなた)は、どのような存在でしょうか。仏教的に見れば、鑑賞者は(飛び回る鳥という存在からの)解脱に成功した涅槃です。つまりは極度の傍観者です。一時的にでも、このインスタレーションを体験している間、鑑賞者は涅槃になります。この感覚、伝記や歴史物語を読むときの感覚に近いですね。先人の歩んだ歴史、つまり鳥として飛び回った様子を眺める行為は、この涅槃の位置から先人の鳥を見るという行為です。

 

 

 ざっと並べてみました。本当に一生に一度は体験しておきたいインスタレーションのひとつです(自分が体験したからかも)。私たちは会場内に体操座りで体験したのですが、鳥とカメラの動きに反応して身が前後左右に自然と揺れるくらい、本当に迫力のある映像でした。

 

 

 

 次にSemiconductorのBriliant Noise。太陽光の強さに音を合わせ、太陽のあらゆる活動映像を3面スクリーンに放映するインスタレーションアートです(インスタレーションが好きなのかもしれない)。これは、本当に「洗脳される」アートです。

 これも映像を見てみてください。全画面表示、そして大音量をオススメします(耳壊さないように)。

 

 

 


 

 

 

 

 

 これは本当に、会場内で呆然と立ち尽くしてしまいました。会場では15分ほどの映像がループ再生で流されているのですが、おそらく15分まるまる、スクリーンの一点を見つめたまま私は立ち尽くしていました。何を感じていたのかは残念ながら捉えられませんでした。ただ、チームラボの作品よりも「リアルな」360度「無」に囲まれた空間にいたように感じたことは確かです。すべての物質が周囲から取り払われ、どこかに落ちていくわけでもなく、そのような強制的な「私を動かす力」を感じるわけでもない、自由に動き回ることのできる空間。チームラボの作品は、無の空間を鳥たちにガイドしてもらうような感覚でしたが、この作品ではその無の空間を自分で歩いて行けそうな錯覚を覚えました。あのとき私の意識は「宇宙」にあったのでしょうか。

 

 

 最後に本展前半にあった、中国・日本・ヨーロッパのそれぞれの「宇宙観」の展示。曼荼羅だったり望遠鏡だったり絵画だったり。それぞれ「宇宙」をどのように捉えていたのかが如実に表れている作品が集まっていました。曼荼羅の絵の細かさといったら本当に恐れ入ります。それぞれ顔の違うホトケ?を永遠と並べていく。どんな気持ちで並べていったのかを想像しながら、どのようにこの絵を描いていったのかを想像しながら、「宇宙を想像する」という行為がどういうことなのかを考えてみました。

 この展示を通して、ざっくりと分けてしまいますが、東洋思想は「宇宙」を仏教の概念である「空」と同一視していたのではないかと思いました。確かによく見ると、「なにもない空間」という概念は、「空」の概念の少なくとも一部を表しています。

 

 

 この他にも、会場にはさまざまなノイズが落ちていました。「うつろ舟」もそのひとつ。詳しいことは調べていませんが、江戸時代の日本に「宇宙船」がやってきたことを表す図です。この舟が本当に来たのか、それともこれはおとぎ話なのかがこのうつろ舟をかいた図には記されておらず、今も本当に宇宙船が来たのではないかという説が流れています。

 ここで私が思ったのは、だいたい「謎の存在」というものは「箱」なんだなあということ。うつろ舟、玉手箱、宝箱、宇宙船…。箱で中が見えないものが目の前にあるとき、やはり私たちはそれを開けてみたくなるものなのかな、と思いました。

 よく見ると、美術館も鑑賞者にあまり近づいてほしくない展示の前には、床に白いテープを引いたり、縄を張ったりして「入ってはいけません」というメッセージを流しています。しかし、どう見てもテープや縄を気にすることがなければ作品には手を触れることができてしまいます。それができない(しない)のは、テープや縄があるから。このような場合において、テープや縄のことを「結界」と呼んだりしますね。これも箱と似たような作用を持っているように思えます。何も入っていないかもしれないのに開けさせたくなる(不思議に思う、好奇心をかき立てる)箱と、それを超えることも物理的には可能なのに心理的にそれを不可能にさせる結界。何もない空間に何か物質を伴った存在があれば、そこには「その存在」と「それ以外」という二項対立が生まれ、「閉じた空間」が生まれます。その「閉じた空間」の有効範囲はどこまであるのか。文化や価値観の差もあると思いますが、必ずしも「閉じた空間」の範囲と物理的な物質の範囲とは一致しないはずです。なぜ一致しないのか。つまり私に「ここには入ってはいけない」と感じさせるものは何なのか。

 

 

 といった感じで展示たちに疑問を与えられました。がんばる!