読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

無駄

 窓辺が暑い。ひなたぼっこをしていると、体が火照って冷房に頼る。誠に弱くなったものである。今日はそういう日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに以前使っていた文体で文章を書いてみようと思う。英語で考えるときは「英語的思考」とも呼べる思考になり、タイ語で考えるときにはタイ的思考になる(英語でもタイ語でも考えたことはない)。それと同様に、ですます調やその日の気分によって思考はまるっきり変わってしまう。一日として同じ文体はないはずだが、それでも意識的に文体を変えることは効果的なように思う(ほら、こういう感じ)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  つくづく、私は自分の苦手とするものを知りたがる生き物だと思う。コミュニケーション、社会学、空間設計論、文章論など。特に論理的思考、表現は全くダメで、端的に分かりやすくジャーナルすることができない(「ジャーナルする」なんて言うか?)。そのくせ、文章を書くのは大好きである。そのくせ、他人の文章が難解だと「何と頭の悪いやつだ」と罵る。要は自分の書いたもの、表現したものに対しての責任感が欠けているのかもしれない。

 

 しかし、「苦手である」というのと「好きである(=継続してやり続けている)」というのとは違うと思う。「下手の横好き」という言葉がある。大抵この言葉はそれをやっている者を揶揄するときに用いられる。私の物書き好きもこの部類に入ると思う。だが、逆手に取ってみれば、このような諺が生まれるほど、「下手の横好き」軍団は多数いたということにならないか。マジョリティがよいというわけではないが、少なくとも諺として後世に語り継がれるようになるまでには存在していたのだろう。

 

 資本主義社会が持つ暴力性のひとつに、「無駄なもの(=資本を生まないもの)と判断されることは、死刑宣告のようなことである」というものがある。資本主義は「資本の量」が価値判断の基準になるわけだから、量を増やす目的でない行動、考え方、時間はすべて価値なしとされるわけである。私はこれを当たり前のように刷り込まれていた。

 しかし、いっぺんでも何かを「つくる」ということをしてみると分かるが、無駄なことを否定していては体がもたない。ものを「つくる」というときの、私の原体験は農作業にある。片親の実家が田んぼを持っており、そこの種まきと稲刈りをたまに手伝わされていたからだ。農作業にせよ、プログラミングにせよ、資本主義が無駄と呼ぶものは多数存在する。いくらそれらを削り、なくそうとしても、だ。

 切っても切っても切れないもの、つまり磁石のN極S極のようなものに、私たちができることは、諦める(容認する)ことである。私はそろそろ無駄なもの、価値のないものに「無駄に」価値を見出すことをやめなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ちょっとした雑誌のはしがきのようだが、いつも体は正直である。困ったら体に従えばいい。ただ、ここにこうして書くということは、私にはそれが未だできないということでもある。

 マゾヒストなのかもしれないが、自分がこねくり回した論(=屁理屈)を一発でバンッと崩されるのが好きだ。自分が論を完成した段階では、それを見ながらうっとりとさえしているのに。大抵その構図は、頭が考えたことを体か他人に一刀両断されるというものである。その滑稽さに惹かれるのかもしれない。

 

 

 

 

 サンスクリット語を勉強し始めた。意味は分からなくてもいい。読めるようになりたい。

 

 

 

 

 

 「帰りたい」とか「休みたい」とか「寝たい」という言葉をよく聞くが、私はそう思ったことがあまりない。本当に疲れて布団が恋しくなることはあるが、一日中布団の中にいて「ああスッキリした」と思うことは本当に希である。希故にそのときの快感は凄まじいものであるが、普段から常套句のようにこれらの言葉を発する人もいるのがよく分からない。

 「休みたい」と思ったとき、なぜすぐに休まないのだろう。もちろん本当に、仕事がひっきりなしに来て休めない人もいる。しかし、時間はあるのに「休みたい」という人もいる。休み方が分からないのかもしれない。私も休み方が分からなくなることがあるからその気持ちはよく分かる。それでも、「休みたい」という言葉だけがひとり歩きする状態は異常ではなかろうか。

 

 「休み」という状態に対する人々の意識もそれぞれ違うからなのかもしれない。例えば、私にとってはこのブログを書くことは「休み」である。あるいは自転車を漕ぐこと、自分の好きなものを買いに出かけること、絵や文をかくこと、人と話すことはすべて「休み」である。そうすると「休みでない状態」は何かといえば、アルバイトの仕事と学校である。しかし、学校の中にも休みはあるし、仕事中にもいつもせわしなく働いているわけではないから一概には言えない。

 人によっては、私がこれは「休み」だと言ったことに対して、いや私にとってそれは休みじゃないと思うものが入っているかもしれない。いや、おそらくそうだろう。では、「休みたい」と思うとき、人は本当は何をしたいのだろう。

 

 

 

 

 「東洋思想」にブランドから入ってみようと思う。

 

 

 

 

 YouTubeは、格好の「無駄動画置き場」である。いくら動画をアップロードしても無料(多くのオンラインストレージサービスは上限を設けているのに)だし、どれだけ動画を見ても無料である。金を払うのはYouTubeにではなくプロバイダにである。今は公式感を出しているが、昔はもっとアングラ感が強かった。という話は、多くの老年YouTubeユーザーたちが再三語っている。

 今の日本は、モバイルルーターもモバイルバッテリーも流行り、いつでもどこでも永遠にYouTubeに接続することができる、おそろしい時代である。いくら無駄な動画を見ても、何もお咎めがない。

 ならばその無駄を積極的に享受しようじゃないか、ということで、東茶屋を始めた。

 

 私がスゴ(番組内で使っている呼び名で呼ぶことにしよう)と話している様子をただ垂れ流すだけの番組である。一応は「言論」のような体をとっているが、その実はただの若気の至り、若者プライド、信憑性のない感情論である。

 説明こそ無駄である。