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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

主観を取り戻す

 ブログを含め、こういった書き物の作業を定期的にやっていると、どこかで何も書けなくなってしまう時期というものがやってくる。私はそれで、何度かブログを変えてみたり無くしてみたりしている。そんな時期にベトナムの研究論文の締切がやってきた。不思議とそれは書けた。むしろ、それを書いたことによってまたこうして書く意欲が湧いてきた。

 不思議なものである。書くことは好きだ。自分の形にならない思いに形を与えてあげること。これ以上の「自分を大切にする」作業は他にない。けれど、ある時期がやってくると、そうやって半ば強制的に書かされないと、書けないようになってしまう。すきなことに対して不誠実なだけなのかもしれない。でも、現実にそういう現象が起こるのだから、根性論に走っても仕方がない。うまくこれと付き合っていくほかない。

 

 学問をしていると、あるときふっと自分の主観が消えてしまうことがある。学問だけではないが、とりわけ学問の世界は、とにかく「何でもあり」だ。自分の大好きな研究をしている人がいて、しまいには「私の言うことが分からなければお前はいい」とまで言われてしまう。自然科学などはまさにそうである。自然が起こすことに理由などない。だから、「そう考える人もいるんだ」とか「そういうこともあるんだ」などといったように、いちいちそのことに理由を見出さないようにする。

 そうやって、自分とは考え方や成り立ちの異なる例ばかりを見ていると、自分の存在を忘れてしまう。その存在を思い出すことさえ必要ないことのように思われる。自分の存在を意識しなくとも生きていける。毎日はこうやって進んでいく。そうして私はものの考え方を失っていく。

 

 いろいろな考え方に触れ、いろいろな人に触れ、そのことに楽しさや喜びを見出す者は、このいつかははまることになる蟻地獄から意識的に抜け出さなくてはならない。自分を失うこと、それは仏教的に見れば没我、悟りの境地なのかもしれない。私は仏教信者であるが、私はそう簡単に悟りには至れないだろうとみている。たかだか20年しか生きていない若造が、いとも簡単に悟りを開いて完全体を名乗ろうなど傲慢である。だから、自らの中に不完全さを見出し、それを愛おしみ活用していくことで主観をもう一度取り戻す。

 

 私の信仰する仏教のいいところは(仏教にも宗派が多くあるため一概には言わないでほしいが)、「神」と呼ばれる存在がまず正しくないこと。欲情にまみれ怒りに狂う神もいる。崇高そうな顔をして。子どもが仏像に舌やぐるぐるをかいて落書きをするシーンがよく漫画で描かれるが、あながち間違っていないと思う。

 そして、実際にその神は現実には存在しないことである。彼らの中にも「いつも正しい」「いつも清い」神というのは存在する(観自在菩薩など)。けれど、彼らは想像上の神で、実際に私たちの目の前に現れることはない。そこがいいのである。

 

 私の仏教偏愛はともかく、主観を失わないようにすること。自分は本当は何が好きで、何が嫌いか。何がしたくて、何がしたくないのか。何がしてほしくて、何がしてほしくないのか。常に意識する必要はないけれど、問われたらすぐに言葉を返せるくらいにはしておきたい。