あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

人のことなんて

 最後の砦を越えたような気がする。

 

 ベトナムに行ってから、人の目を気にしなくなった。

 それまでの自分は、人の目ばかり気にしていた。街を歩けば、人のファッションや出で立ちを見て「あれはダサイね」「あれは色気あるねえ」なんて心の中で評価していた。それはすべて自分に返ってきている。自分が人の目を気にしているから、自分は人を気にするのだ。確かにそうやってファッションセンスを磨いてみたりすることはいいことかもしれない。しかしそうして磨いたファッションセンスが活用されることはない。私が着る服装に変化はない。そのくせ心は揺れ動く。

 人の目を気にすることは、無駄なことではない。そうやって気に「できる」ことはある意味素晴らしいことである。世の中には人の目を気にすることができないことを気にしている人もいる。気にすればいいのにそのやり方が分からず困っているのである。だから決して、人の目を気にすることは、無駄なことではない。けれど、それはとても労力を要するものだ。いつも人に監視されているような気分で生きていくことはとても疲れる。下手なこともできない。無駄な動きもできない。試験を受けているわけでもないのに、勝手に被害妄想を働かせてそうやって監視されるモードに入る。

 無駄なことは避けたくない。というより避ける気持ちにはならない。避けたくなるのは、疲れることだ。

 

 ベトナムと日本、とあまり簡単に分けることは気が進まないが、そう感じてしまったので正直に書く。ベトナムを歩いていると、あまりオシャレな人に会うことはない。オシャレだな、と思ったら風俗の人である(その場合オシャレというより色気があるという感じか)。では彼らが何を着ているかというと、とても着ているのが楽そうな服なのである。(誤解しないでほしい、ベトナムの人がファッションに疎いとか、そういうことを言いたいのではない)

 自分が着ていて楽な服を着る、というのは、オシャレな服を着る、ということよりも数倍大切なことのように思う。「ファッションは辛く苦しいもの」とファッション界の偉い人の声が聞こえてくるが、みんながみんなそんな辛いことをしなくてもいいはずだ。辛く苦しいことをしてまでもファッションで自分や何かを表現したい人はいる。でもそうじゃない人もいる。日本はそういう目線で見ると、オシャレにこだわりすぎる、むしろみんながオシャレだから私もそうしなきゃ、という人が多過ぎるように思う。

 身体感覚を的確に掴むことは、思っている以上に大切なことだ。今自分の体のどの部分に力が入っていて、どこが抜けているのか。それが分からなくなると、肩こりや頭痛などの症状を引き起こす。何せ、常に自分が緊張していることすら分からないのだから。これほど危険なことはない。血だらけで腕も取れかかっているのに「大丈夫」と言っているようなものである。

 

 人の目を気にしなくなった私は、最近ついに未来や過去の自分の目も気にしなくなった。なりたい自分やこうあるべきだという自分の理想像に縛られていたのを最近やめた。何の前触れもなくやめたのである。メタ自分、つまり自分を内省する自分は消えていないが、少なくとも今の時間軸にいない自分を自分の中に内在化させることはやめた。

 率直に理由を言えば、「そんなことをやって時間潰してるくらいなら目の前の仕事なり日課なりをきちんとやったらどう?」と思ったからである。要は、未来や過去から自分を冷静に見ている自分など、存在しないのである。それは、結局のところ今の自分である。今の自分を、さも未来の自分かのように見間違え、それに従順していくことは、なんなのだろうと思ったのである。

 私には今、毎週やっている習慣(東茶屋)と、ほぼ毎日やっている習慣(お風呂に入る、コーヒーを入れる)がある。これを毎回きちんとやることの方が何よりも大切ではないだろうか。遠く離れてしまった家族・親戚は元気でやってくれているし、自分のペースで気にかけることができる。友人も同様に、自分のペースで付き合わせてくれる。お互いにそういう関係を築くことができている。ならば、他に気にかけることなど、例えば未来や自分のこれからなどを気に病む必要などないのではないか。

 いずれ時が来れば、真剣にそのことに向き合うときがやってくるだろう。でも、それは本当に、「時が来てから」でいいのである。その時に逆らう必要はない。逆らっても疲れるだけである。それよりも、私は部屋をきちんと掃除して床からホコリを掃き出すことが必要なのだ。

 

 おそらくこの考え方に至ったのは、アランの「幸福論」が火種となって自分の中にまだ残っていたことと、肺炎を患ったことが原因だろう。肺炎を患っていて、体が思うように動かなかった期間、今住んでいる地域の商店街を歩いた。いつものように素早く歩くことはできないので、のったりと一歩ずつ足を踏みしめるように歩いた。

 だいぶ高齢化が進んでいたが、それでも商店街は続いていた。あと10年後、20年後、この商店街は今の姿と同じではないだろう。今生きている店の主人や、カートを杖代わりに買い物をしている婦人の明日は分からない。けれど、今、実際にその商店街は生きている。物は売買され、カフェに人は休み、病院で人は自分の病と付き合いながら番を待ち、主人はタバコを吸い街を移ろう人を眺める。商店街は生きている。今、生きている。それでいいのではないだろうか。商店街の未来を考えることも必要だし、それはいつか誰かがやらなければならない。でも、一番大切なのはこうして商店街が生きているということだ。そのことをゆっくりと享受してもいいはずだ。

 

 人の目なんか、未来の自分なんか、存在しないのである。