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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「意識」上の自分だけが自分ではない

 ベトナムホーチミン滞在中に研究調査した「ホーチミンのカフェ文化」に関する論文が完成した。初めて書いた論文で、それを論文と呼んでいいのかすらよく分かっていない。が、根拠のない自信はある。少なくとも、調査中に自分が感じたことはすべて、思い残すことなく表現できたように思う。論文のテーマが自分の中に深く関わっていて(その研究をすることは日常生活の延長線上にあって)、論文を自己表現の一ツールとして使ってよいのだとしたら、少なくともそれは論文なのだろう。

 

 自分には身近に感じられたこと、つまり「ホーチミンのカフェ文化」については論文で思い切り表現した。しかしその逆、これは自分なのかそうでないのか分からなくなってしまった、そのような、自分というものを疑う、自分という最後の土俵を揺り動かしてしまうようなことも、ホーチミンで私は体験した。そのことを「短く」言語化することに、論文とは違うコラムで挑戦したが、結局は尻すぼみになり、事実だけを淡々と連ねて後は読者の想像にお任せするという丸投げ方式に終わってしまった。

 それは私の望むところではなかった。あのときの自分はもっと内省し、自分というものの恐ろしさ、卑しさ、おこがましさに腹を立て、後悔し、できることならそのような自分を殺してしまいたかったはずだった。そういう「つもり」でいたはずなのだ。しかし文章で書くとそれは平凡で単調な事実に変化してしまい、詳細に自分の心の動きを描写しようとすると長くなりすぎた。今のこの文章のように。

 今回の記事は、いつもに増して抽象的で、短絡的で、冗長な文章が続くと思う。また、一見すると差別的であったり失礼であったりする部分があるかもしれない。一切は私の筆力の劣ることが原因だ。だが、これまで一切言語化しようとしなかった体験を無理矢理にでも言語化してみることに、少なくとも私にとっての価値はあると感じている。それは暴力的なことであり、私としてもそういった暴力を振るう前には何度も躊躇する。だからこのような長ったらしい文章を書くという儀式が必要なのである。暴力を振るうという行為を恐れない儀式のようなものが。徹底した自己中心的存在に一時的になることにする。

 この文章を書くことが暴力行為であることを自覚している。そう私は思い込んでいる。だから、もし私の一方的な暴力に対してやはり暴力を返したいと思ったら、暴力を振るってほしい。読者の方が暴力を振るってくれるからこそ、私も思いきり暴力を振るい、言語化に努めることができる(これが誹謗中傷を推奨する意味にならないことは伝わっていると信じたい)。

 体験の言語化はそれを体験した自分に対する暴力だと、なんとなくであるが感じている。その暴力を自分に与え、自分で受けることにより、盲信や崇拝を捨てることができ、荒削りの「体験」自体を取り出すことができるのではないかと思う。「本当にどうしても他人には伝えられないこと」を見ることができるかもしれない。ただ、そのためには「本当にどうしても」の部分をあらゆる手で言語化していく必要がある。

 

 

 事の発端は、ホーチミン市内にある戦争証跡博物館に赴いたことだった。ベトナムは言わずと知れたベトナム戦争があった地であり、メディアを通じてその一部始終を知ることのできた戦争である。

 私はホーチミンを訪れるより前に、NHKが制作していた「映像の世紀」でその映像をいくつか見る機会があった。路上で焼身自殺する僧、こめかみに発砲される少年。こういった人が亡くなる瞬間、生命が失われる瞬間、あるいは人が亡くなった後、人が人でなくなったときを想像した芸術作品などに私は理由もなく惹かれるが、これはまた別の機会で言語化に挑戦しようと思う。少なくとも今の段階では頭の中で霧散していて捕らえきれない。

 私はその映像を見ながらいろんなことを想像することができた。ガソリンの匂いを嗅ぎ意識朦朧としながらそこに火をつける自分、マッチから広がるふわふわとした火に初めて触れる手、皮膚の表面から徐々に内側へとつたう炎、経をなぞる唇、炎に身を任せることを決意する瞬間。自分のこめかみに突きつけられた銃口、自分の頭蓋骨にのめり込んでいく弾、他人の頭に銃を突きつけて引き金を引く自分、その人差し指の鼓動。そしてその行為を何をすることもなく眺めている自分。実際にそれを体験した人がいるかいないかは分からないが、少なくとも私は妄想の域を出ない中でその想像を体験した。

 その想像できたということに関して、私は何も内省せずに戦争証跡博物館に行った。

 

 そこには大量の写真と、戦争で使われた実物の兵器、破片、さらには枯葉剤の影響を受けて奇形で生まれてきた幼子のホルマリン漬けがあった。頭の中は真っ白になり、ただ、その「止まった」ものたちを見ながら、同時にそれらが「動いて」いたときを見た。全く想像することなく、目の前にその映像が見えたように感じた。その映像自体が想像かもしれないが、少なくとも「映像の世紀」で想像したような「そこにいる人の感覚」は感じられなかった。むしろ、戦争証跡博物館の展示物の方が「映像的」だった。展示物は、その中には立体の形をとっていたものもあったにも関わらず、私との間に一枚スクリーンがあるように感じられた。はっきりとそのスクリーンを感じた。

 

 その後、枯葉剤の影響を受けて体に何らかの障害を持った人を中心に預かっているというお寺の孤児院を訪ねた。私は、写真やホルマリン漬けなど、「止まった」ものとして一枚スクリーンを通して見ていた彼らの「日常」を見た。

 それぞれの部屋を回っていったのだが、私がそこでどのようなことをしたのかに関しては今回は除外する。私の心の動きに焦点を当てる。

 まず私は、「彼らにはどのように世界が見えていて、どのように自分の外の世界を知覚しているのか」に関して妄想を始めた。これには原因のようなものがある。私が小学生(だった気がする)のころ、最も「自分」の存在を揺るがした思考実験のようなものだ。

 例えば、今私の目の前には文章がある。この文章の色は、黒と定められている。しかし、今私が見ている黒は、他人が見ている黒と同じだろうか、というものだ。生まれたとき、私はこの色を名前も知らずに見て、「この色は黒だよ」と教えられてこの色を黒と呼んでいる。しかし、私が見ている黒色は、実は他の人にとっては赤だったり緑だったりするかもしれない。それを確認する方法は今のところないはずだ。私の眼の構造を通して私の脳の構造をもって色を知覚する、という作業は、私にしかできない。しかし赤色を見ていると興奮する、青色を見ていると集中する、などという色彩のもたらす心理的変化は普遍のもののように見える。だが、だからといって自分の見ている黒色と他人の見ている黒色が同じだという証明にしては漠然としすぎている。

 この経験が、妄想の始まりの引き金になった、と思う。

 

 そして、最も衝撃が大きかったのが、その孤児院に預けられた子の一人が、自分に手を突きつけながら走り寄ってきたときに、私の体が反応したことだ。単純にビクッとしたのだ。

 私はそのときに引き裂かれた。今私が反応したのは、「驚いて」したのか、「この子だから」したのか、どっちなのか。前者だったらいい、後者だったら嫌だ、と思う自分は何なのか。何も行動を起こさずそんなことばかりを考えている自分は何なのか。

 

 そのとき生まれた複数の自分の欠片を拾い集めて、「すべて自分(の頭で生んだ想像)なのだ」と納得するまでにはかなりの時間を要した。自分だと認めたくない自分の部分が姿を現したのだった。

 

 ここまで書いてやはり気づいたのだが、私は「自分」という存在を、自分の「意識」できる部分に限定しすぎていたのだと思う。要は頭でっかちである。私にはヨソ(両親)から与えられた体があり、その体には何百年も前から受け継がれている遺伝子が含まれている。それはいわば、自分の「意識」からすればヨソ者、他人である。そんな他人を、私の「意識」が理解できるはずがない。

 私は意識的に自分を破壊しようとしていたのである。

 

(ノートはここで終わっている)