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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「疲れた」

 友人から改まって言われて気づいたこと。私はあまり「疲れた」「帰りたい」と口に出して言わない。疲れているときもあるし、マンションに帰って布団にダイブしたいことだってある。けれど、それをわざわざ人に伝えることはない。いや、自分でつぶやくことも少ないかもしれない(これは自覚してないだけの可能性もあるけれど)。

 もしかしたら、私は自分の体の「疲れ」に鈍感なのかもしれない。小さいころはしょっちゅうではなかったと思うが、頑張るだけ頑張ってバタンキュー、というパターンが多かった。自分が疲れているのを自覚しないまま激しく遊び回った。そういえば、父親の手に連れられて、眠りながらその隣を歩いていたこともある。
 「ランナーズ ・ハイ」という言葉がある。運動中に苦しさが消え、快感を覚える現象のことである。真偽の程は分からないが、現象としてはよく体感できる。「頑張って」いる状態の私はこれに近い。
 最もこの「ランナーズ・ハイ」を感じられるのは、自転車に乗っているときだ。私はほぼ毎日自転車に乗っているが、たまにこの「ランナーズ・ハイ」に入って自分でも驚くほど正確に、敏速に自転車を漕ぐことができるようになる。快感といわれれば快感である。その快感は、スピードを出して風を浴びるからでもなく、レーサー気取りで人混みの中を颯爽と駆け抜けるからでもない。確かに運動そのものに快感を覚えている。

 私は少年時代から野球・サッカーには一定の距離を置いていたから(あんな辛いスポーツ毎日やるなんてどうかしてる、と理由をつけて自分の怠け癖を正当化していた)、特に「キツい練習」などをしたことはない。ただ唯一、当時は嫌々行かされていた少林寺拳法で、まあ「キツい練習」をした。とはいえたかが稽古は2時間だし、カンカン照りの太陽の下でやるわけでもない。けれど、「人間は頑張るために生まれてきたんだい!」と吠える師範(今考えるととてもいい人だった、と思う、たぶん)の指導でいろいろと当時の私にはキツい練習をさせられた。
 これはこじつけかもしれないが、元々あまり自分の考えを「言葉で」「口に出して」言うことに慣れていなかった。それよりは、体を動かしたり表情をあからさまに変えたりして自分の伝えたいことを演技?して伝えることの方が多かった。ある旧友には「おまえの表情筋すげぇ」と言われた。例えば疲れたのなら、「疲れた」と口に出すよりも、腕をやや前に出し肩をすぼめてゾンビのように歩く方を選んだ。かなり小さいころからやっていたから、おそらくその表現の方が慣れているのだと思う。
 だから少林寺拳法の稽古のときも、いくらキツいことをさせられても「キッツ!」とは言わなかった。その代わり、体力の限界ですという顔をして地面にぺたんと寝っ転がることの方が多かった(ちなみにそれは指立て伏せ、指を地面に立てた状態で腕立て伏せを行うトレーニングでのこと)。

 基本的に、顔に疲れの色を出したり疲れたような格好で歩いたりすることは、外つまり他人に対する表現だ。他人にその演技?を見てもらうことで、「ああこいつは疲れているのだな」と感じてもらう(察してもらう)ことによって成り立つ表現だ。
 他人のいないとき、ひとりでいるときには、自分でその表現を見ることができない。だから自分で自分の疲れが自覚できない、というのが今持っているひとまずの仮説である。

 特に自分から好んで運動をしているときは、全くと言っていいほど疲れを感じない。半日と少しかけて東京から静岡県富士市までママチャリで行ったときもそうだったし、ある音楽ライブで3時間くらい踊り続けたときもそうだった。少しくらい足がパンパンになっていたり、途中で座ってへこたれても良さそうな気はするが、そんな気には全くならなかった。

 そんなわけだから、しょっちゅう「疲れた」「帰りたい」と口に出して言う人が理解できない。嫌悪感を抱いたりすることは決して無いのだが、ふと「なぜこの人はこんなことを口に出して言うのだろう?」と考えると答えが見つからない。共感ができないのだ。


 今のところそれで不都合はないけれど、もしかしたら今隣にいる人が疲れているのか疲れていないのか、自分はよく分かっていないのかもしれない。例えば私はよく歩く質だが、そのおかげで「歩いて疲れる」という経験がほとんどない。そんな私の横を歩く人の疲れを、私は感じられているのだろうか。そう思うととても怖いし、何だかものすごく上から目線の考え方で気持ちが悪い。
 そういうことをすっと「察せる」のなら、どれだけいいだろうと思う。確かに勝手にこの人はこうだと勝手に察して勝手に行動することに多少の思い上がりはあるのかもしれない。しかしみんながみんな、自分の思いを的確に口にできるわけではないし、表現できるわけでもない。赤ん坊に米俵は持てないだろうし、体の大きい人が床の低い車の下に隠れることはできないだろう。私が察したいと思うのはその程度のことなのに、時折そんなことすら自分は察せていないのではないかと不安になる。

 こういう話に関しては、お仲間がもしいたら(大勢いると思う)お話ししたいものである。