あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

見栄張るな

 「見栄張るな」「かっこつけるな」「目を覚ませ」。話し相手の言葉尻になんとなくクサい感じがしたときにポロッと出る言葉ですね。これが私にとって、一番怖い言葉です。

 

 なぜって、「今の自分」を完全否定されたように感じるから。私の場合、こう言われると「うっ…」と黙り込んでしまいます。この言葉の含意は、「今のお前は着飾ってるぜ、素の自分を出せよ」ということです。「素の自分」を探そうとして黙り込んでしまうのです。

 「素の自分」って、考えて出るものでしょうか。

 

 アンジャッシュ児嶋一哉さんのピンネタに「待ち合わせ」というものがあります。デートの待ち合わせの場所で、児島さんが彼女を待っているという設定です。

 

 

 自分をかっこよく見せるためにポーズを模索していた児島さんは、いつの間にか「自分の普通が分からなく」なってしまいます。「自分の普通」を意識すればするほど、「自分の普通」が分からなくなること、本当によくありますよね。

 「自分の普通」を意識しながら何かをすることは、自分のことをじっと近くで見ている人がいる前で何かをすることと同じです。なんとなく落ち着かなくなってしまう状態。普通にやっていることをより普通にやろうとするから、結局普通ではなくなるのです。

 

 これと似たような現象として、「人間らしく」作られたロボットが人間らしくならない現象が挙げられます。大阪大学石黒浩教授が中心となって制作されたジェミノイドというアンドロイドがありますね。このロボットは、本当に人間によく似ています。しかし、私たち人間にはそれがロボットだと分かってしまいます。

 

 

 「人間らしく」作ったロボットが、実は人間らしく見えない。この現象は石黒教授も著書の中で存在を認めていらっしゃいます。

 他にも、落語家はそばをすする所作をするとき、そばをつかんだ箸を額のあたりまで上げてからすすり出すそうです。これも、本当にいつも自分がしている所作をそのまま演じてしまっては、リアリティーに欠けるためです。

 

 

 確かに、「見栄を張るな」と言われただいぶ後にそのときの自分を省みてみると、「ああ確かに見栄を張っていたなあ」と思うこともあります。もっとちゃんと話を聞けばよかった、もっと正確に自分の思っていることを言えばよかった、と思うこともあります。なぜ今になって、そんなことを思いつくのだろう、と。

 けれど、そのときの自分にはその行動をとることしかできなかったと思うのです。別にその行動をとることを選んだわけではないし、選んだ自覚もないのだけれど、そういう行動しかそのときの自分には「できなかった」はずなのです。

 

 だから、「見栄張るな」と言われたときには、何も考えない方が得策ではないかと思うのです。もしかしたらその人には、自分が見栄を張っているように見えてしまっているけれど、自分は何も考えずにそれをやっていることもあるからです。「見栄張るな」と言われて「見栄を張っていない自分」を瞬時に見つけ出すことは不可能です。そのことばに捕らわれるより、とりあえず適当にその場をごまかしておいて、話を続けた方がいいと思うのです。

 

 というのも、つい最近まで「見栄張るな」「かっこつけるな」「目を覚ませ」と言われたときに「見栄を張っていない自分」「かっこつけていない自分」「目を覚ました自分」を模索してしまう癖があったからこそなのですが。

 自分は絶対に変わりません。というのが私の結論です。