読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

生と死、それを媒介する「別の意志」の存在について

 人間は体のいろいろな機能を退化させてきた。爪を短くし、耳もコンパクトにし、瞬発力も体毛もなくしていった。そしてその分の労力を、人間同士でコミュニケーションを取ることに注いだ。そのために言葉を話し、言葉を記録した。一緒に大きな動物を狩るために、いつでもリズムを合わせられるように音楽を奏でた。自分が持っていない能力を持っている人と協力したり、自分が持っている能力同士で競い合い、その能力を高めていった。そんな人間がひとりで暮らすという状態は、死に例えられるかもしれないと思った。ひとりで暮らしていくと決意した人でなくとも、誰でもひとりになる時間はあるだろう。どれだけ忙しい人でも。

 人間の私は社会的動物だ。人と会っているとき、あるいは人の作った作品を使ったり見たり聞いたりしているとき、つまり人と関わっているとき以外の状態を死と例えるなら、私が生きているのは人と関わっているときのみになる。人と関わっているときに生を感じ、ひとりでいるときに死を感じる。

 だからこそ、死を感じている状態で自分の周りの世界を見ると、自分の気持ちやその世界の気持ちに敏感になることができる。そしてそれに従順になる。自分や世界の気持ちを感じることは、心臓の鼓動や胃の消化などと同じで、自分では止めることのできない不随意運動だ。まるで別の意志が働いているかのように、私は死の状態において敏感になる。死という状態で私がしていることは、この「別の意志」との対話である。この「別の意志」は、生という状態では多くの場合無視されてしまう。目に見えない「別の意志」よりも、目に見える明瞭な「別の意志」(=他人)の方が話しやすいからだ。

 

 おそらく、今よりも前の時代に遡れば遡るほど、その時代に住む人は他人に会うのに苦労したはずだ。通信手段はない、交通手段もない、他人と関わる方法自体を自分で切り開いていく必要があった。そしてその代わりに、「邂逅」の機会が多くあっただろうと思う。その時代に住む人に比べれば、今の時代は、何もせずとも他人の方から関わってくる。多くの場合それは経済的理由である。あなたでなくとも、誰でもいいから関わりたい、という人や団体が増えた。

 そう考えると、前の時代に住んでいた人は生に対する欲求が高かったのだと思う。確かに何もせずとも他人が自分に会いに来ることは当然あっただろう。しかし自分も同じように会いに行かなければ、社会階層などの要因がなければ誰もから忘れ去られてしまう。それでは死の状態が長すぎてしまう。しかし今の時代はその真逆で、死に対する欲求が高いように思う。都心など他人の多いところは特にそうで、ひとりの時間を豊かにしてくれるサービス(ネットカフェ、イヤホン/ヘッドホン、)が急激に増え、死の状態をなんなく過ごすのに苦労しないようになった(しかし先ほど申し上げたように、死の状態とは人と関わらない、人が作ったものにも関わらない状態を指すことにしているため、正確にはこれらのサービスを用いて享受する死は幻である。死には、いかなる他人も関わらないものだ)。

 その原因は、文字という「記録」媒体である。この文字が生まれた当初は、人と時空を超えて関わる目的で使用されていた(書簡、置き手紙、記録など)。しかし、今度はこの文字が独自の世界を持つようになり、世界が文字を中心に回りだした。自分が行ったことのない山の向こうにぶどうがたくさんある、という文字を見た人同士がそれを共通認識(常識)として扱うようになった。ただ文字でしか見ていない、信用するに足りない情報のはずなのに。現代、このことは当たり前になり、共通認識を持たない者は会話するのにも苦労するようになった。

 文字は初めて人類に「仮想世界」を与えた。その仮想世界をもっと立派な宮殿にするべく、音声記録媒体や映像記録媒体をはじめ、さまざまな仮想世界の主人公(媒体)が乱立することになった。

 話が逸れたが、そのようにして今の時代に、死の状態を体験することは非常に難しくなった。これが死の状態だと思っても、それは他人の世界の中(=生の状態)かもしれないからだ。

 

 しかしいつの時代にもある、誰にも奪うことのできない、死の状態への入り口となる行為がある。それが「つくる」ということだ。何かを「つくる」とき、私は必ず死ななければならない。自分の意見や思っていること、空想などを、今まさに私がしているように自分の外の道具(文字)にするとき、私は必ず自分の中の「別の意志」と対話しなくてはならない。そうでなければ、私は何も書くことができない。

 死の状態への「入り口」と書いたのは、何かを「つくる」ためには自分の中の「別の意志」との対話と同時に、他人との対話(生の状態)も必要だからだ。何かを「つくる」ためには道具が必要だ。今の私の場合、「日本語」という道具が必要である。日本語と対話しながら、自分の中の「別の意志」との対話を日本語に翻訳していく。だから「つくる」ということはあくまで「入り口」なのである。

 もちろん共同作業で何かを「つくる」こともあるだろう。それを「つくる」環境には他人が存在する。しかしその場合でも、目の前の作業をするためには自分が死ぬ必要がある。死を以て自分の中の「別の意志」と対話し、それを他人と共有することが共同作業である。

 

 ここまで読んでふと考えると、どうも「人間中心主義(ヒューマニズム)」に過ぎるなあと感じるかもしれない。この考え方(私のフィルター)を通して世界を見ると、その世界は自然を排除しているように見えるかもしれない。

 しかし忘れないでほしい。「私」という存在自体が自然なのである。「私」の中には「私」ではないものが含まれている。「私」でないものによって「私」が形成されているといってもいいだろう。なぜなら「私」は他人によって作られたものだからだ。自然はどこか遠くにあるものではなく、極めて内在的なものだ。自然の風景を見て心癒やされる体験をするのは、普段他人が作った作品ばかりを見ていたところにそれが登場し、自分の中の自然を思い出すからだ。そして当然、この自分の中の自然というのが、先から出ている自分の中の「別の意志」なのである。

 

 本来私は、ひとりでは生きていくことができない。だからひとりでいる状態は死の状態なのである。しかし、死を感じなければ生を感じることもない。もちろん生を感じなくとも、生を意識しなくとも、生きることはできる。しかし自らの生に疑問を感じ、悩み、ふさぎ込んでしまったとき、死を感じてみれば新しく生を感じ、新しく生き始めることはできる。

 疑問を感じないで生きた方がよいのか、それとも死を感じ生を感じながら生きた方がよいのかは分からないし、そのふたつに評価を下すことはできない。しかし、前者は後者の存在を知らないが、後者は前者の存在を知っていることは明らかだ。生は死を知らない。死は生を知っている。死を知っている生は、そのうちに死を秘めている。生と死は決して混ざらない。このふたつは陰陽太極図のように回り続けている。