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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

 私は「すっとやる」ができない症候群だ。何をするにも仰々しく取りかかっているなと思っている。

 冬の今など、外に出るのにも一苦労だ。まず自分が何をしに外に行くのかを考える。外に出るのに必要なものを揃える。そして身につけたり用意したりする。午前中には出かけようと思っていたのに、午後2時を回る。もちろん人と約束をしているときなどはこんなことはしないが、自分の用事で、いつ行っても特に何の問題もないものは、大抵こうなる。

 掃除をしようとしても体は動かない。しかし一度何かのきっかけで部屋を掃いたりすると、とたんに掃除欲が湧く。だから私の部屋は、「洗濯物が詰まった洗濯機、洗い物がそのままになっているシンク、埃のかぶった床や机」の状態になっている日と、スッキリしている状態になっている日との差が非常に激しい。

 雨の日など、今のご時世100円で傘やビニール袋を買える時代なのに、それを買うのを面倒くさがる。ちょっとの雨だからこれくらいいいだろう、と、雨の中に自転車で繰り出す。そしてちょっとどころじゃないほど濡れる。家に帰り、ああ雨に濡れたけど100円損せずに済んだ、などと正当化していく。

 こういう記事を書くのにも一苦労だ。「こういうことを書いておきたい」と構想が浮かんだら、すっとパソコンを開けばいいのに、開かない。そうしているうちに、別のことが頭を埋め尽くす。あの本を読みたい、コーヒーを淹れたい、音楽を聴きたい、クリーニングも出さなきゃ。こうして私の脳の彼方へ消えていった構想は計り知れない。

 

 私は何かに「自主的に」執着する、ということをあまりしない。「こいつを持ってないと外を歩けない」とか「手を洗わなきゃご飯を食べられない」ということもない。体一つで駅まで出てこいと言われればできる。

 しかし、一度何かを所有して、それを手放すとなると話は別だ。すっと手放すことができない。本ならブックオフや別の持ち主へ、服ならフリマや買い取りへ持っていけばいいのだが、それができない。執着心や愛着心は微塵もない。それらが自分のものならば、たとえ火事で焼失してしまっても悲しくなることはない。けれど自らそれを手放しに行くことは、結果的にしない。

 

 メールなどもそうだ。近頃は「メッセージを送り合う機能」を担うサービスがメールからLINEへと移行しつつあるが、私はLINEでさえ送るのが面倒くさい。まずスマホを開くのでさえ面倒くさい。私の使っているiPhoneは、一年ほど前から指紋認証で端末のロックを開けるようになったが、それすら面倒くさい。何かをし始めることが面倒くさい。

 

 面倒くさいだけなら、ただの面倒くさがり屋ということで「そうか、自分は面倒くさがり屋なんだ」と落ち着けるのだがそうはいかない。そうやって面倒くさいことをやらないでいると、次第に鬱々としていく。LINEのメッセージが自分に何も来ないことにさみしさを覚える。「人とつながりたい」という何とも侘しい願いを真剣になって思い浮かべる。寒くなったから窓を閉める、という行為ですらありがたみを感じる。そして外の音が聞こえなくなることにさみしさを覚え、また開けに行く。この行為自体うっとうしいものであるはずなのだが。

 

 さらにそういう「すっとやらない」自分を気にする自分もいるから厄介だ。「もっとすっとやっていれば…」とないものねだりを真剣にする。一通り考え尽くしたところで、「ああめんどくさ」と諦める。

 

 

 

 

 物には流れがある。この「物」というのは、生きていても死んでいても、生死が感じられないものでも関係なく、すべてを指す。葉っぱも人も、コオロギも電線も、すべて物とする。物には流れがある。

 その流れが止まると、その物は腐ってしまう。廃墟は、人が建てたのに人がいなくなったことで人の流れが止まり物の流れが止まった空間である。よく大企業でも、社員同士の癒着を解消するために社員を定期的に入れ替える(転勤させる)という話を聞く。

 しかし、後者の人の例のように、私たちはそうやって腐った空間に安堵する感性も持ち合わせている。長年使っているものに愛着を抱いたり、長年付き合っている人が失われると悲しみを覚える。特に日本では、「古い物」は役に立たないものでも価値が高いものと見なされる。もちろんここでも、「物」は、人や動物などすべての物を指す。

 

 

 

 

 私はこの年末、上京してから3度目の帰省をした。祖父母の家にも顔を見せに行った。祖父母の家も、私の実家も、そして私の地元も変わらない顔で私を迎えてくれた。しかし以前私が暮らしていたとき、以前私が帰省したときと一緒ではなかった。当たり前のことなのだけれど、その違和感は私の中に残り続けた。以前と同じようにはできなかった。以前と同じように居間に集まって正月料理を食べることはできなかった。家族で神社に初詣に行くこともできなかった。市街地をぶらぶら歩くこともできなかった。友人と自転車を漕ぎながら話すこともできなかった。それ自体はしたのだけれど、依然と同じようにはできなかった。なぜなら私は地元にはもう住んでいないし、地元の学校には通っていないし、定期的にその店に顔を出しているわけではないからだ。

 自分がどれだけ無知で、安全地帯に暮らしていたのかがありありと分かった。それに気づくことができるということは、自分が(人間的に?)成長したということだ。上向きの成長ではないかもしれないけれど、少なくとも自分が以前とは変化したということだ。けれどそのせいで生じた「違い」が、無性に寂しかった。自分が帰ってくる場所を失ったようだった。

 

 先に書いたように、私はすべての物に執着をしない。けれど、そうやって「いつの間にか」失われたものに対する執着心、失われていく過程を自覚せず、ある日突然それが失われていたことに気づくときに生じる恐怖は、自分の中に激しくあった。足元の地面が崩れていく感覚がして、怯えた。

 

 何かをやるには、何かを失わなければならない。おいしい料理を赤の他人に作ってもらうと、お金を失う。外の世界を知れば、自分がいる世界を盲信する幸せを失う。若い自分が年を取ることに歓びを感じていれば、私を育ててくれた人たちが老いるのを感じる。何かをやるには、その恐怖を忘れるか、知らないでおくか、正当化するか、とにかく何かしらの方法で克服しなければならない。

 

 

 

 

 山が好きだ。実家は山の麓にあり、私の地元はどこへ行っても山が見える環境だった。地元が扇状地にあったからだ。そのおかげで、山の見えない関東平野に暮らすのは大変である。山を求めて平野の淵まで行かなくてはならない。海も好きだが、やはり住むなら山の近い方がいい。

 衛星写真を見れば分かるけれど、日本の国土のほとんどは山だ。平野(=都会)に住んでいると忘れがちなことだ。だから日本には、山を神とする風習が今でもある。山の頂上に神社が建っているケースは本当に多い。

 山の何が好きなのか、いまいちよく分からないけれど、ひとつの理由として、死んでいる物に囲まれる空間が好きだというのが挙げられる。山は、土が重なってできている。土は、死んだ物に固まりである。「土に還る」という表現があるが、人だろうが物だろうが化学製品だろうがなんだろうが、時間の長短はあれどすべての物は必ず土に還る。かつて生きていた物が、誰かに使われることで生きていた物が、土として死んでいる。その大量の土に会うことができるのが、山だ。

 その土の上に、今生きている私、そして生きている植物が生えることもある。なんとなくその構図がいい。

 

 山に行くと、特に登る人が少ない山の場合は、先人たちが歩いたことで踏み固められてできた道がある。そこだけは少し凹んでいて、植物も生えておらず、歩きやすくなっている。その道は何千回も先人たちが歩いたことで残されたもので、さらに今も私がその道を歩くことによってその道を作っている。

 

 いろんな流れが山にはある。

 

 

 

 私は、自分が何かをするというより、何かをさせられていると感じることの方が多い。そして、何かをさせられていると感じて何かをするときの方が、大抵うまくいく。やり遂げられるし、なんとなく楽しい。Mなのかもしれない。

 とはいえ、ずーっと変わらず働き続けるとか、ずーっと同じ場所に閉じ込められるとか、ずーっと同じ人と話すとか、そういったことは大嫌いなわけで、そういうときはそういうのを嫌がっている自分の話をうんうんと聞いてあげて場所を移らなければならない。

 非常にうっとうしい。非常にうっとうしい。でもそれに、私は反応している。