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あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

記憶に残るのは悲しい方

 嬉しい、楽しい、気持ちが良い、快い、俗に言うプラスの感情を伴う物語は似たり寄ったりで、悲しい、辛い、気持ちが悪い、妬ましい、羨ましい、つまらない、退屈な、皮肉な、俗に言うマイナスの感情を伴う物語はそれぞれ違う。多様性至上ではないけれど、私が「おもしろい」と感じるのは、断然後者。「他人の不幸は蜜の味」と言うし、少林寺拳法で出会った私の師範は「お前の不幸は俺の幸せ、お前の涙は俺の栄養」と言っていた。なんちゅうやっちゃ、と思っていたけれど、自分もそうだった。

 実際、ドラマや映画、とにかく「物語」という看板を掲げて繰り広げられる珍道中のほとんどは、プラスもマイナスもない平坦な時間に、突如マイナスが訪れ、それを克服してプラスに持っていったりその結果マイナスに戻ったりする。日常生活をただ映すだけのドラマに興味を抱く人はなかなか少ない、そんな内容のドラマがヒットしたことは未だかつてない。

 少なくとも、私にはそのように見える。

 

 「プラスの感情を伴う物語『は似たり寄ったり』、マイナスの感情を伴う物語『はそれぞれ違う』。」この構造が当てはまるものがもうひとつある。新しいものと古いものである。「新しいもののもたらす物語『は似たり寄ったり』、古いもののもたらす物語『はそれぞれ違う』。」

 今、というより、その時代その時代に生きていた人々にとっての「今」は、いつだって激変の時代である。今はそれが空間を超えて、可視化されやすくなっただけだ。その時代その時代に生きていた人々にとっての「今」、つまり歴史は、多種多様である。日本の歴史でさえ、数十種類の時代に分類されるし、地域ごとの歴史認識がまるで違うことなど当たり前である。しかしそれが、「激変」であったことには変わりはない。これが、新しいもののもたらす物語が似たり寄ったりである、ということの根拠である。同時に、古いもののもたらす物語、つまり歴史はそれぞれ違う。温故知新とはこのことを述べているのかもしれない。一般的に、古いものに焦点を当て、その古いものが人々の注目を集める手伝いをするのは新しいものである。そう考えると、新しいものも古いものもあまり価値としては変わりないとも言える。

 

 

 

 私は物事が、物語(Narrative)として自分の中に消化されないと、その物事を記憶に止めておくことができない。私が追憶できるすべての思い出は、物語という形で残っている。ここで使っているNarrativeという言葉は、当方感覚的にしか意味を理解していないので、こちらの記事を読んで自分なりの定義を見つけてほしい。別の言葉で言い表すならば、例えば、自分が写っているある写真を自分が久しぶりに見つけたとしよう。その写真に撮られたときの自分の感情、自分がそこで何をしていたのか、そこはどこなのか、なぜそこにいるのか、撮影したのは誰か、自分とその人はどんな関係か、そういったことを、瞬時に思い出すことができたなら、それがNarrativeである。そこで自分が思い出した物語は、例えば「祖父母の家に帰省する」という物語(Story)の一部かもしれない。Narrativeという言葉を、そうした始まりと終わりのあるStoryの一部分のことの意味として使っている。

 そのようにして物事を認識しなければ、私は物を学べない、記憶に残ることもない。物理や数学、化学など、ややもすれば数字のみ扱い始める学問を学ぶのには本当に苦労した。その公式によって、例えば車のエンジンがどのように作動するのか、それが分からなければ、その公式を覚えることができなかった。

 

 以上のことからなのか、私は自分の幸せだった時間(今思えば幸せだったんだなと思う時間)を思い出そうとしても、あまり鮮明に思い出すことができない。特に、激しい嬉しさ、涙を流すような感動体験のない、いわゆる「平凡な幸せ」はほとんど思い出せない。しかし、今も含めて、この種の幸せを感じている時間の方が物理的には長いはずなのだ。

 「あなたは何をしていますか(What do you do?)」と聞かれて、「基本ぼーっとしていますが」と答えるのは、私にとってはあながち間違いではないのかもしれない。時間も記憶も、それほど盲信するに値しないものなのかもしれない。