あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

自分の説明書

 今回は久々に自分についてのお話です。

 

 私が究極的にやりたいことといえば、自分を含めた人はじめ動物や自然の理をすべて理解することにあると思います。当然それは実現不可能ですが、そこに近づけたときに、一般的な「楽しい」ときに感じるもの以外の快感を覚えます。知識欲が満たされるときの快感ともいえます。

 なぜそんなことを知りたいのかについて。なんでそんな「理」を知りたいのだろうか。そのはじまり、きっかけのようなものは私の人生にあったのかしら、と思い、過去の記憶を漁ってみました。

 特に強く、「他人が何を考えているのかを知りたい」と思ったのは、やはりいじめに遭ったときでした。自分をいじめている子が何を考えているのか、それが中学校を卒業するあたりまで、ずっと私の「学ぶこと」に対する意味づけでした。そのときの私にとって、「学ぶこと」というのは、他人が何を考えているのかが分かるようになること、即ち占いや心理学でした。当たり前ですがそんなものが単独の理論で説明できるはずがなく、何度も何度も「きっとこうだ!」という一概な理論にすがりついて自分を慰めてきたわけです。これが今の私の知識欲に繋がっていると思います。

 具体的なことを晒しますが、当時私はクラス全員の友人の名前をExcelで表にし、誰が自分の味方であるのか、敵であるのか、なぜそうなのか、私が何をしたのか、味方から敵あるいは敵から味方に変わったのはいつでなぜか、などなどを逐一メモしておりました。中学の頃には、そういった蓄積を分析・分類し、こういった体型や目をしている人はこういう人で、味方になる可能性が高いか敵になる可能性が高いかを予測していました。

 そこまで行ったところで、ある日その分類メモを自分の席の引き出しに入れて帰宅し、翌朝学校に来たらすべてペンで塗りつぶされおり、大人の字で「見たけど君って ひどいんだね 見損なったよ」というメッセージが書かれていました。

 今考えると恐ろしい限りですが、当時はこうでもしないと学校の中で安心できなかったんだと思います。誰がどういう人なのか、つまりは自分に攻撃を仕掛けてくるのかこないかを早く知る必要があったんです。

 今はといえば、こういった「こういう人はこうである」という基準をいったん客観的に見つめる技術を会得したため、極端にひとつの基準を思い込むことは少なくなったように思います。むしろ、そういった基準、理論を多く、深く知ることに快感を覚えるようになりました。しかし考えてみれば、自分が「学ぶ」ということに対して少しでも誠実になろうと思えたきっかけは、ものすごく乱暴で攻撃的な目的から始まっていたんですね。

 

 これは「平和」や「平等」という概念が生み出される過程と似ているような気がします。「全人類が平和でありますように」「すべての人が平等な社会を目指す」という言葉に代表されるように、この言葉は「平和でない(not平和)」「平等でない(not平等)」ときに生み出されたものです。本当に平和な社会に住んでいれば、「平和」なんて言葉は生まれなかったはずです。当たり前のことは、人間の意識には上らないのですから。

 

 抽象的な話にしますが、人間に限らず生物が進化するためには、一般的に私たちの考えるマイナスの出来事が必要になると思います。長期的な進化においても、短期的な、個人的な成長においても。厳しい環境においたトマトの方が甘くなりますし、今生き残っている生物は地球のあらゆる場所で起こった気候変動に耐えられたから生き残っています。

 なんてなことを言いますが、だからといって自ら苦行に取り組もうなどとストイックになる気は毛頭ありません。楽になりたい、安心したいという純粋な欲望があってこそ苦行に取り組むことができると思うので。

 

 

 その自分のはじまりを見つけたとき、少しだけ自分がやるべきことが見えたような気がしました。私が注目すべきは人類学です。人類学(自然人類学、文化人類学に大まかに分けられる)がどんな学問なのかは私もあまり分かっていないので説明を割愛します。人類学という視点からいろんな学問を見てみると、個人的にはそそる学問が多いように見えます。人間が生み出す「文化」の様態にはどんなものがあるのか(文化人類学)の理由を探るためには、そもそも人間とはどういう動物なのか(自然人類学)を知る必要があります。そう考えると、人類学は理想の体系をしているなあ、と。

 

 

 ときたま自分の所属している「キャリアデザイン学部」の言う、「キャリアデザイン学」が何を目的としているのか、よく分からなくなることがあります。キャリアデザインという概念自体、日本では平成になってから活発に使われだしたようなので、よく分からないもので当たり前と言えば当たり前なのですが。

 学部のホームページを見ると、

 

法政大学キャリアデザイン学部は、このような社会の急激な変化に力強く、かつ柔軟に対応するために、自ら学び、考え、行動できる自立/自律的な人を育てています。同時にまた、そのような自立/自律的な生き方を求めている人たちを支援できる「人の専門家」を育てることを目ざしています。

(キャリアデザイン学部とは | 法政大学キャリアデザイン学部より引用)

 

とあります。

 ここで書かれている「人の専門家」という文字に、入学当初私はとても興味を惹かれました。その理由が今になって分かったように思います。

 

 

 またひとつ、自分がどういう人間かを捉える枠組みを得ました、というご報告でございました。