あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

責任を保ちつつ、前に進む。そんなことができるのか。/WIRED CONFERENCE 2017 "WRD. IDNTTY." プチ・レポート

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カンファレンスの締めを飾る、國分功一郎さんと熊谷晋一郎さん。

 

 WIRED CONFERENCE 2017 "WRD. IDNTTY."に参戦してきました。カンファレンスの大きな目的は「ダイバーシティ(Diversity, 多様性)」と「アイデンティティ(Identity, 自己同一性)」の現代における再定義。いずれもサカナクションや企業のCSRなどなどの影響もあり一般に知られている言葉だと思いますが、一部の国は(日本も含めて)排他的、自国中心的な方向に動いています。そんな中で、ただひとり歩きしている印象をも受けかねないこのふたつの言葉について議論していこうというカンファレンスでした。カンファレンスは、正面ステージの壇上でスクリーンをバックに発表する形と、中央ステージでWIRED日本版の編集長・若林さんを交えたり交えなかったりして対談形式で行う形とで行われました。

 もちろん副産物もたくさん持ち帰りました。より詳細なレポートは大学ゼミにて別に書くので、ここではその準備体操として、印象に残った順にハイライトでお届けします。まだ自分の言葉になっていないところもありますが、これからしっかり熟成させていくのでご勘弁を。自分が気になった登壇者の方の話をずらずら並べていきますので、まとめは特にありません。

 

 

 

 まずはTENGAヘルスケアの中野有紗さんが、発表の中でポロリンと漏らしたひとこと。

ダイバーシティアイデンティティの集合体。とすれば、アイデンティティ、個をよく見つめるという作業ができていなければ、ダイバーシティは理解できるはずがない。」

 すごい。ふわふわしがちなダイバーシティ論を的確に斬った言葉でした。自己を見つめるためには他者と対話することもひとつの手なので、ダイバーシティアイデンティティの問題はセットで考えるべきだというヒントになったように思います。

 

 

 続いて写真家の小原一真さんとAmak Mahmoodianさん。お二方が共通しておっしゃっていたのは、写真をひとつのツールとして「自分自身の記憶を、Storytelling(ストーリーテリング、物語る)したい」ということでした。若林さんが二人に投げた質問に、「(二人はよもやセンセーショナルに受け取られる可能性のある、人々の痛みや悲しみをテーマにした作品を作っているが)それを自分が制作する権利があるのか、責任(Responsibility)をどう乗り越えるか」というものがありました。小原さんは、写真家という人は最低な奴らだ、被写体の痛みも理解せず、かつ自分は決して写真に写らないからだと前置きをしつつ、自分は被写体にコミットしていく、人間として関わっていき、ここまでやったということで、許してもらおうじゃないですけど、と語っていました。Amakさんは、"Depend on approach(取り組み次第)"だと言い、写真集を作る作業では自分自身を描いたわけではなく、私と被写体の関係、共通のストーリー、つながりを見つめ、発見し、描いたと語りました。

 カンファレンスの後の懇談会で、この点についてもう一度お話を伺ったのですが、やはり「これはあくまでも自分の体験した物語だ」という前提で、自分と、自分と出会った人々の話という設定の中でストーリーテリングをしていく手法が、こうした内容のテーマを扱うのに最も適していると教えてくださいました。

 ひとつ前の記事で、私は「『わたしの』ベトナム、になった。」と題して、自分が積極的に現地の人々と交流していくことで、ただ彼らの生活を観察するだけでは得られない体験をしたと書きました。あれでよかったんだな、と少しほっとした部分もあります。

 というわけでただいまこのWIREDレポートも「あくまで自分が気になったところを選出してお届けする」という前提で、ストーリーをテリングするように執筆しております。

 

 

 バリアフリー研究の第一人者である星加良司さんは、日本においてはまだバリアフリーダイバーシティといった言葉がひとり歩きしている節も見受けられるとおっしゃいました。かたやそうした概念を企業が自らの利益のために漠然と用いていることもあれば、宮崎県日向市のPR動画や保毛尾田保毛男の炎上騒動のように、炎上しつつも意見が割れることもあります。

 

 

 ところで、欧米の文化の中には「個」を重視し、異質な人たちと触れあうことにある程度の価値をおく感覚が未だ残っているといいます。それは例えばアメリカの場合、開拓者、侵略者としてヨーロッパから渡ってきたという自国の歴史からもたらされる「根っこ」があることがひとつの要因です。星加さんは、異質な人たちと触れあう文化の「根っこ」を、日本文化のどこに接続していくかを探すべきで、日本独自の(よもや異質な人々に対して排除的になりがちな)同調圧力ダイバーシティをどう接続していくか、という問いを残してくださいました。

 「異質な人を受け入れる」姿勢を持つために、その意味を自覚することは有効だと思います。もちろん国内にそうした感覚を持っている人は多数いらっしゃいますが、日本文化の中に、既に異質な人を受け入れる文化的な「根っこ」がもしあるとすれば、そうした感覚はより強固で安定したものになると思います。

 

 "ReThink"という、メールを送ったりSNSで投稿する前に「その投稿大丈夫?」「送られた相手がどう感じるか考えた?」などのメッセージを表示し考え直す(ReThink)ことを促されるアプリを開発したTrishaさんは、ご自身の活動と同時に、インターネットとアイデンティティの関係について語りました。インターネットのログ(記録)は人々のアイデンティティになる、とおっしゃいました。

 私は、人を中傷する投稿を止めさせるコンセプトのReThinkには大賛成ですが、「ログがアイデンティティになる」というインターネットの発想をなんとか変えられないかなあと考えています。彼女は「ネットで私が発言したこと、私がつぶやいたことはすべて私のアイデンティティになる」とおっしゃいました。それでも私は、そうしたことがアイデンティティとして強制されない環境を、インターネット上に構築できないかな、と考えています。日常生活で私たちは、過去を洗い流したり、忘れたりします。中二病や若気の至りといった過去の黒歴史も、そうして時が解決してくれることもあります。しかしインターネットではそうはいきません。過去のそうした行動がいつまでも追っかけてきます。少なくとも私にとって、インターネットでの行動や発言は、常に自分のファッション、アクセサリー(アイデンティティを誇示するもの)を形作るものとして行っているわけではありません。むしろ、すべての言動がそうしたものとして捉えられることの方に違和感を感じます。現実はそう捉えられることの方が圧倒的に多いのですが。

 私は、自分が地理的・社会的・精神的に位置している場所では決して得られない情報を得ることができるという点、そして同じように偶然何かの情報を探していた人が自分の発信している情報に辿り着き、その人の役に立つことができるという点で、インターネットが大好きです。けれど、あまりにも個人を時系列的にIndividual(分けられない個人)として位置づけたがるユーザーの発想は何とかならんものかなあ、とも思います。

 私のこの発想は、平野啓一郎さんが『私とは何か』で取り上げている「分人主義」という考え方に影響を受けています。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

  

 

 最後に登壇されたのが、哲学者・國分功一郎さんと医師・熊谷晋一郎さんです。國分さんは4月に『中動態の世界』という新著を発刊されましたが、今回のお話はその本の内容からスタートしました。中動態の話については既にインタビュー記事などで解説されていますので省きます。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

 國分さんの問題意識は、「中動態」という文法を研究する中で浮かび上がってきた、「私たちはすべての行為をどこかに所属させたがっている」というものでした。

 ふたつ例を出します。例えば私は今このブログにプチ・レポートを書いていますが、一般的に見ればこれは「私が書きたくて」書いているものだと捉えられます。「私が書く(I write)」という言葉にはそうしたニュアンスが加えられています。しかし、私は本当に「ああ、レポートを書きたいな」と思って実際に「書く」という行為に移っているのでしょうか? ふたつめの恋愛の例ならもっと分かりやすいかも。あなたは「あの人が好きだと思いたいな」と思ってから「あの人が好きだ!」と思いますか? そこには違和感を覚えると思います。ものを書く、人を好きになるなどの行為すべての源泉がこうした「意志」(文章を書きたいな、あの人を好きになると思いたいな)にあるとは思えません。つまり、すべての行動には意志が伴っている、という考え方は実はいつも真とは限らないということです。

 薬物依存症患者のようすを語る熊谷さんの話は、特に腑に落ちました。薬物依存状態にある方の中には、子どもの頃虐待を受けた方もいらっしゃいます。そうした方々の中には、他者に依存するスキル、方法を持つことのなかった方々がいます。そうすると、その方はひとりで頑張らなければと思い込んでしまいます。しかし人間はどこか、誰かに依存する生き物です。そう思い込んでしまった結果、依存先は自分の意志のみになります。自分の意志を強く持つことに依存していきます。

 ところが、意志というのは生ものであり、現在進行形です。時により移り変わります。例えば退屈が訪れたり、眠くなったりすると意志が弱まります。そうすると、意志を持つ前にあった過去の記憶が戻ってきます。虐待を受けた経験のある方の場合は、その記憶は例えば虐待の記憶です。そうすると、その過去を今の自分から切断しようとし、より「今を流れる」意志に依存していきます。「私には過去など存在しない! 今がすべて!」という発想になります。そうした戦いの中で、自らの意志だけに依存することが難しくなり、薬物に依存していく、というのがひとつの大きなパターンとして見受けられるそうです。もちろん、一概に意志を強く持つこと、過去を切断することを悪くおっしゃっているようには聞こえませんでした。

 そこで、國分さんのスライドに登場したジョルジョ・アガンベンの言葉が光ります。

 

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「意志は、西洋文化においては、諸々の行動や所有している技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置である。」

 

 哲学の中では「自由意志は本当にあるのか?」と題される命題が多数議論されていますが、お二方は意志はひとつの信仰だとバッサリ斬っておられました。今の「能動/受動」的なものの考え方、「私がやるのか」「私がやられるのか」という言葉のしくみは、すべての行動に責任の矛先を求める尋問をするような性質を持っており、現実を捉えるには不十分だとおっしゃいました。

 私は自分のアイデンティティ、やりたいことなどなど就活セミナーでごくごく一般に投げかけれる質問を考えるときに、この落とし穴にハマってはいけないと強く思いました。そうしたものが、短くスパンと自分の中にある方がおかしい、と。もちろん他者に自分を理解してもらうのにその中の一部分を切り取って説明することは大切ですが、本当はもっと複雑なのだと思っておいた方が身のためだ、と肝に銘じました。

 

 

 このカンファレンスを終えて、私も自分のアイデンティティがどこにあるのかをうんうんと考えてみました。明確にこれだ!という答えはまだ出ていませんが、暫定的に言えば、私のアイデンティティは他者との関係の中にあるように思います。

 私は幼い頃からかなりの飽き性で、私にはギタリストにとってのギター、サッカー選手にとってのサッカーのように「これ」というアイデンティティになりうる技術やモノがありません。けれど(抽象的な物言いですが)他者と対話したり、他者の作ったものを鑑賞したり、他者に自分の作ったものを見せたりと、他者と関わっている時に強く安心感を覚えたり自分の存在意味を見出したりします。それは承認欲求(私の存在を、私がどれだけすごいかを認めてほしい!)や所属欲求(ここにいていいんだ)からもたらされるものを超えた感覚であり、快楽です。

 もしそうだとすれば、自ずと自分が大切にすべきもの、自分がとるべき行動も少しずつ見えてきます。少しずつとりあえず前に進むことができる。深いところから背中を押してくれるようなヒントを、たくさんいただくことができたカンファレンスだったなあと思います。WIREDスタッフの皆様、登壇者の皆様、カンファレンスと懇談会中にお話しさせていただいた方々に感謝感謝。

 

 ちなみに、このカンファレンスの内容が既に速報記事としてWIREDの方に上がっていますし、雑誌WIRED次号12月号の特集は「アイデンティティ」で、このカンファレンスの内容をはじめよりアイデンティティを深掘りする記事が掲載されるそうです。このテーマにご興味のある方はぜひご一読を。

 

 まだまだ考えなければいけないことは山積みで、特に明確なまとめもなく恐縮ですが、ひとまずプチ・レポートはここで締めたいと思います。