あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

1年の振り返り。「文体」が増えた。

 元々は大学のキャリア体験実習で、ベトナムホーチミンに滞在する間、日記としてつけるようにと言われて作ったこのブログも、そろそろ3年目に突入しようとしています。記事の数で言えば、実習のあった2016年の3分の1程度になりましたが、それでも案外続くものだなあ…と、ひとり哀愁漂わせてみたり。今年も10日をきり、私のはったっちー♪も、きゃりぱみゅの名曲を一度も歌うことなく終わりに近づいています。

 去年は、「今年一年で得たもの、「責任」。今年一年で失ったもの、「期待」。」とまるっと一年をまとめました。今年はどうまとめようか。

 

 個々の出来事はともかくとして、大きく捉えれば、今年は「文体が増えた」一年だと思っています。ここで言う文体とは、表現形式の種類のこと。例えば、文章では伝わらないことも、写真なら伝わる、とか、そういったことです。こうした、○○では伝わらないことを、○○で伝えたら、伝わった嬉しい!という体験が非常に多かった、豊作だった年でした。

 

 何があったか。いくつか今年起こった出来事を描いてみます。

 まず、今年の4月〜7月、大学の春学期中に、自分が所属している荒川ゼミ(荒川 裕子先生)の他に、遠藤ゼミ(遠藤 野ゆり先生)にもぐりました。人の説明というのはどうも苦手なので引用しますが、「専攻は現象学的教育学、教育実践学、児童福祉学で、子どもたちが学校や社会や家庭の中で抱える生きづらさを、どう経験しているのかを現象学に基づき解明する(法政大学教員紹介ページより)」先生です。私の印象としては、個人が社会で生きていく上で感じる「生きづらさ」ということばに思い入れを持っていらっしゃるのかなと思います。

 遠藤ゼミのゼミ生の多くは、自分が研究対象の当事者となって研究を行ういわゆる「当事者研究」を行います。例えば、中学校時代に登校しなかった人が、なぜ自分が登校しなかったのか、登校したくなかったのかを掘り下げて考え研究する、というような。そのためか、ゼミの議論は本当に興味深く、(誤解してほしくはないのですが)知的好奇心が揺さぶられました。迂闊なことやテキトーなことは人として言えない、だって当事者が目の前にいるんだもの、という適度な緊張感の元行われる議論。毎週レポートという形で自分の考えをアウトプットするよう求められ、なかなかハードな時間でしたが、充実した時間を過ごすことができました。改めて感謝。

 ここで、遠藤先生のことばを借りますが「生きづらさ」を抱える人とどのように接すればいいか、言い換えればどんな文法で会話すべきか、を失敗もしつつ学べたと思います。「そんなところで悩むんだ!」という第一印象から、なぜそこで目の前の人は悩んだのか、そしてそれに自分も共感できたときに、なるほどこの人にとっては「そんなところ」ではなかったのだな、と理解できる。何度もこういう経験がありました。

 この経験は、自分自身に対しても起こりました。私も小学生のころいじめられていた経験があり、それをずるずる引きづったまま大人になりました。遠藤ゼミの「これまでの人生で一番辛かったことと、それを乗り越えた経緯を述べなさい」というレポートで、自分のいじめ経験、そしてどのようにそれを「気にしなくなった(×忘れた)」のかを順を追って文章にアウトプットしてみました。それを書き終えた瞬間に、「あれ、これまで自分はこの出来事を、自分の人生を大きく変えてしまった出来事だなんて思っていたけれど、全然そんなことないじゃん」と思うことができました。それをゼミに持っていき、一緒に議論した友人とも、「誤解してほしくないんだけど、今のお前(私)を見てると、こんなの全然たいしたことないように見えるよ」と言ってくれました。

 

 この現象に、今年9月下旬くらいに自分で名前をつけました。「記憶のアップデート」。横文字にした方が扱いやすいなかあと思ってつけてみました。

 

 自分の記憶は、時が経つにつれてその人自身にとっての明確で不動でソリッド(固形)な「過去」になっていきます。でも、それをもう一度曖昧で動的でリキッド(液体)な「記憶」に戻す作業。アップデートというのは、ソフトウェア・アップデート、アプリのアップデートのことですね。アプリの大枠は変えずに(Twitterというアプリの大枠は変えずに)、構造を「今」にアップデートしていく。これが「記憶のアップデート」です。

 

 名前をつけてから数日経って、10月にWIRED CONFERENDE 2017に参加したときに、國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんの対談で(恐れながら)似たような話が出て驚きました。詳しくは過去記事で。

 

 極めつけは11月上旬の、ご存じ市ヶ谷のウィスキーバー・タングラムの恒例行事、人を笑わせる下ネタを発表し合う「下ネタナイト」の学生版でした。荒川ゼミの友人男女4人を連れてこの学生版を開いたのですが、私のネタをマスターが批判してくださり、結果とってもおもしろい「持ちネタ」ができました。

 当時私は女性関係でまたひとつ、正直あんまり触れたくなかったソリッドな「過去」を持っていたのですが、それを惜しみなくマスターに明け渡すことで、マスターと常連の皆様の手により、誰もが笑える「記憶」のストーリーになりました。

 ストーリーが完成したときに、マスターがおっしゃったこと。「楽しいでしょ? 下ネタナイトって、自分のそういう『バカ』な話を、笑い話にして昇華するっていう作用があると思うんだよね。治療だよ治療」

 もちろんすべての「絶対触れたくない嫌な話」を笑い話にして昇華する必要はないと思いますが、ひとつの解決策として「笑い話にする」という選択肢がある。この文体に気づけたことは、大きな実体験でした。

 

 

 この他にも、今年の夏は、またベトナムに行きました。今度は正真正銘、ひとり旅。言葉に頼りつつ、言葉に頼りすぎないコミュニケーションを身一つでやってきました。どんな風にひとの懐に潜んでいくのか、どんな風に面倒い人を手の内に収めるのか。失敗してもう二度と会えなくなってしまった友人もいますが…、これも大きな体験です。

 

 文体が増えると、端的に言って、楽です。自分ひとりで抱え込む必要がなくなるから。そして、何を自分ひとりで抱え込むべきか、その優先順位も自然とつけられるようになっていく。抱え込むべきときなのか、アップデートすべきときなのかの区別も。直接お礼を伝えたりするのが照れくさくてできなくても、贈り物をする、とか。「きみのことを大事に思ってるよ」なんてキザな台詞を言わなくてもいい。超、楽。

 

 来年の予想もしておきます。12月に入って、ある事件があって(発端は僕の不注意というか、礼儀知らずでした)家族と親戚との距離がグッと近くなりました。距離を近づけておくことが本当に大事なんだと、身を以て知りました。文法が増えると楽だと分かった私は、たぶんこの先、「気配り」について真剣に考えるようになるのではないかなーと考えております。建前ではなく、取り急ぎのものでもなく、楽観的なものでもなく、心からの気配りってどういうものなのか。はやく体験してみたいものだ!