あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

自分のことばを失うことなんて日常茶飯事なんですよ

 何かを始めようとするときに、腰が重いのはもはや我が性としか言えないようになってきています。
 私にとって日常的に「やること」、例えばある友人に会うこと、学校の授業に出ること、料理をつくること、最近で言えば面接をすることなどなど、というのは、少しやらないとまた始めることがおっくうになることばかりです。ブログを書くのもそう。前回の記事で、なんとかその最初のハードルを下げたという体です。読者のことを一度忘れ、自分が書きたいことを書く。いつもブログをつけている時分にはまったく気も付かないことですが、「人様の目に触れるところに自分の思いの丈を綴る」という体験は異常なのです。
 
 それはともかく、その異常な体験をしばらくやらないと、自分がどうやっていたか忘れてしまう。そういった種の体験を失うことに一抹の寂しさを覚えます。それを失うことにすら鈍感になってしまうものです。
 私は自分の方言、つまり「自分のことば」というのを常々意識するようにしています。いや、意識しているというより、それを失うことへの恐怖心が意識「させている」というのでしょうか。たまに里帰りをして、自分の慣れ親しんだ方言で会話をしていると、どうも自分が方言を話すことは自然にできるのだけれど、聞くことがたまにできないことがあります。内容は理解できるのだけれど、ちょっとこうズレた感じがする。それで、話が途切れてしまう。そういうときに、自分の言葉が失われたというか、おっと少し忘れているようじゃな、と思います。
 話し言葉と書き言葉というのはそもそも違います。さらに話し言葉の中でも相手が年上・同輩・年下なのかで、相手との距離感で、話す場所で話し方を変えることはしょっちゅうですし、書き言葉の中でも学術的文章、エッセイ、メールや手紙、SNSではそれぞれ書き方が違います。案外、そのことに鈍感になりやすい。そして、いつの間にかどれかの話し方や書き方を失っていく。最近それをまた自覚したのが、このブログなのでした。
 
 ちょっとやらないと、自分がどうやっていたか忘れてしまうというのは、予想以上にたくさんあります。例えば楽器を演奏するだとか、人前でちょっとしたスピーチ(今はプレゼンの方が一般的でしょうか)をするといったようなこと。それなのに、それをやって「あれ、意外と自分、忘れてるな」と自覚する機会がないと、いいやそれくらい自分はできると思い込んだままになり、忘れます。

 そういったときに役に立つのは、自分が以前どのように書いていたのかを眺めてみることです。記録に残っていることならそれができます。つまらない映画を撮る監督は(素人の作る)学生映画を見ないからつまらないんだ、なんてな話を聞いたことがありますが、まさにそのことなのです。そこからまた書き始めることができる。
 困るのはいつでもそうやってリカバリが効くわけではない技術。方言での会話、というのもそうです。一度親戚との会話をスマホのレコーダーで録音してみようかとも思いはしましたが、ちょっとせこいかとやめました。
 
 そういった種の体験、皆さんにもありますでしょうか?