あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

個人から政治へと問題意識が変わるとき

 前々から解決したいと思っていた自分ごとの問題を、「あれこれ社会の問題じゃね?」と見立てられるようになる臨界点があると思います。その視点を得られると、それはただの個人的な悩みから脱出され、具体的な行動に移しやすい形になる。

 久しぶりにブログを書き始めるようになり、このブログを始めたきっかけとなった恩師に言われた「ブログを書くことのメリット」を身に染みて感じています。自分の思考過程をどこかに保存しておくことで、後々自分が当時何を考えていたのかが分かるのです。そして、そのことで受ける恩恵がとても多い。しかも日記や手記などとは違い、ブログは人に読まれるものなので、ある程度分かりやすく書こうという努力はするようになる(あれでもしてたんですよ当時の私は!笑)。つまり後から自分で読んでも、まあまあ分かりやすい。

 文字メディアに限らず、音声メディアでもいいですね。とにかくブログを書くことで誰がいちばん得をするのかといえば、他でもなく自分なのです。

 

 で、今日は自分がふだんぼんやり考えていることのベクトルが変わってきましたよーというテーマで書いてみます。

 ここ最近は、正直冬眠していました。もうすぐ(といってももう明後日のことですが)自分の環境が大きく変わるわけですが(おそらく受験勉強以来の勉強をさせられるのだろう! がんばるドン!)、それまでの日にちが長すぎて退屈していました。國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読み返してどうやったらこの退屈を紛らわすことができるのか、いやいやそもそも自分は退屈している場合などではなくて、他に学ぶべき事柄があるのではないか、おいおいそもそもタイ語会話全然できへんぞ(文字はちょっとだけ頑張った)などなど。

 

 とはいえ「自然とやる気になるのだろう」と派遣の準備をすることは諦め、自分が興味のある本、つまりタイに行ったら読めない本が読みたいと思い、図書館・神保町・Amazonからざっくざっく本を大量輸入して読んでいました。

 どうしても好きなこと、しかも「あなたの好きなことはなんですか」という猥褻な直球質問にはちょっと答えられそうもない、いつの間にかやってしまっていることってあると思うんです。文字通りの仕事(事に仕える)が。決してそれをやっている自分に惚れ込んでいるとかそういうんじゃなくって。

 それが僕の場合、本を読むことと音楽を聴くことなんですよね。だからやる気が出ないときもやる気ビンビンのときも、暇なときはだいたいこの2つしかやってません。

 

 で、特に自分が読む本は、自分が考えていることに即する本を読むときと、おおなんだこれ面白そうと思った本を読むときとあるんです。ここで冒頭のテーマ、前者の「自分が考えていることに即する本」の内容がちょっとずつ変わってきましたよ、というお話に入ります。

 

 

 きっかけは、國分功一郎さんの「中動態の世界 意志と責任の考古学」を読み終えたことでした。久しぶりに自分ごとの問題を思い出して、何をしたら「責任を取る」という行為を完了したことになるのか、それを定式化することはできるのか、できるとしたらどのへんまでかというのを考えていました。

 その中でいろいろな「責任が取りづらい」事例を想定してみたんですね。例えば分かりやすいのが、友人とケンカしてボッコボッコに殴り合って友人を殺してしまった人。要は殺人なのですが。殺害した人は、殺害された人に対して責任を感じた場合、この責任を果たした、と思う瞬間というのはどのようなときなのか。

 あとはどこまでが自己責任と言うべきなのか。日本では以前、ISISにジャーナリストの後藤健二さんが殺害されたときにもよく議論になりましたね。その前にも戦地に赴くジャーナリストに対して同情や悲しみの感情を向ける人もいれば、「あなたが行くって決めたんならあなたの責任でしょ」と考える人もいました。他方、貧困や保育所不足など、もう「あなたの家庭が貧しいのはあなたが頑張らないから」「保育所足りないんなら都心から出れば?」なんて安直なアドバイスはできない問題が、けっこうな力で拡散され認知されてきています(未だにそう言う人っているでしょうけど)。

 

 この問題に関心が向いたひとつの原因に、自分が教師という立場になることが現実になったから、というものがあります。私は基本的に教師という生き物が嫌いです。正確には、「私は知らない相手に自分の知っていることを教えてあげるのだ」という考え方で教壇に立っている教師が嫌いです。いや、結果的にそういう行為をしている教師はいいのですが、教師という存在が生徒に対して持つ「権力」性に鈍感な教師が嫌いなのです。

 その自分が嫌いな教師に、自分がなるのです。絶対に、そうした教師にはなりたくない。その権力への自覚を自分にできるのかが、不安で不安で仕方ありませんでした。

 そこで「責任を取るためにはどうしたらいいか」という疑問が湧くのです。私は生徒人生の貴重な時間を一定時間拘束して授業をするわけだけれど、その行為について私はどのように責任を取れるのか、そもそも取れるのか。

(ちなみにこの話は、恩師お二人と先輩と飲みながら考えました)

 

 こんなあたりのことに考えを巡らしていたところで、「これは個人という視座を一度外して考えなければいけないのではないか?」と考えるようになりました。

 私は、これまで自分の視座を「個人」に設定していたわけです。もし私が他の誰かを攻撃したら、私はどこまでその反撃を受けるべきなのだろう。逆も然り、私が何か不道理なことをされた場合に、私はどこまでその被害を主張することができるのだろう、などなど。

 ところが、その思考の臨界点を迎えました。それって一人で(個人で)解決する問題ではないよね、と思ったのです。

 

 ここで初めて「個人」という視座が外れました。これは私にとっては大きな事でした。

 私は自分の所属学部を決定したとき、「個人が幸せに生きていけるような社会を築くための勉強をしたい」というような拙文を提出しました。大学でいろいろなことを学んできましたが、その基本視座は「個人」に置かれていました。自己なら自己、ある他者ならある他者が、どのように社会(他者の複合体、という程度の意味で使っています)を捉え、どのように社会で生きていくか、その社会はどのように設計されるといいか、というようなことをバカみたいに大真面目に、本気で考えてみたかった。

 もちろんその伏線はところどころありました。「個人」がどのように生きていくべきかを探りたいと思っているのに、「社会」を基礎に置く社会学に後ろ髪を引かれるのはなぜなのか。ベトナムホーチミンでのフィールドワークの後には、他者を理解したければ、それと並行して他者に自分を理解してもらわなければ、他者を理解することなどできないというジレンマにぶち当たりました。つまり、自分をある社会の「構造」の中の人間と捉え、かつそれを他でもない自分が他者に説明してみるわけです。当然ですが、これはとても難しいことです。

 

 個人の責任問題をなんとか「個人」の問題として解決しようとしていたときに、松岡正剛さんやドミニク・チェンさんと本を通して出会いました。ドミニクさんの早稲田大学の講義に潜ってみたり。一度だけゼミに伺ったのですが、その後勇気が出ず座学の授業だけ出ることにしてみたり。

 どうもお二人は、ある個(人)、ある主体にというより、その個、主体を結びつける線、つまり関係、システム、機構を設計することに注目しているみたいです。ロボットが垣間見せる人間味に対して、なぜロボットのこの動きに我々は「人間っぽさ」を感じるのか、この「人間っぽさ」とは、といったような、マツコロイドを作った石黒さんのような見方。あるいはドミニクさんが注目した「発酵」。松岡正剛さんは今でもあらゆる知・情報をくっつけたり並び替えたりして「編集」することをライフワークとされています。

 で、当時「責任問題は自分ひとり(個人)では解決できないのではないか?」と思っていた私は、お二人はじめ、お二人からリンクした皆さんの術中にまんまとハマっていったわけです。とはいえ当時の私は「なんかおもしろそー」ぐらいにしか思っていませんでしたが。

 

 

 そして極めつけは、國分さんの登場されている他メディアを覗いたことでした。國分さん、現在は高崎経済大学で哲学の研究をされていますが、ご自身は大学で政治学を専攻されていたみたいなんですね。当時はまだまだ「政治」と聞くと、権力争い、支配被支配などなど、荒々しい体育会系の筋肉マッチョな分野なんだろうなあと、お子ちゃまバリのことしかイメージしていなかったのです。

 ところが「中動態の世界」の後に「暇と退屈の倫理学」を読み返し、同時に読んでいた東浩紀さんの「ゲンロン0 観光客の哲学」(これも出会いは単に「なんかおもしろそー」だったのですが)も手伝い、ああ俺が考えていた問題は政治学にヒントがあるかもしれない!と妄想し始めました。

 こんな適当なことを書いていると政治学や現実の政治をバリバリやられている方に怒られそうですが、こりゃあうまい学問分野を見つけたぞと思いました。試しに政治学科の先輩とナショナリズムグローバリズムの両立について議論してみると、捗る捗る。

 

 やっと自分ごととして、政治学を学んでみたいと思うことができました。政治学を自分の引き寄せられるようになったのです。

 

 これまで全く関心が持てなかった知識に、余裕顔でアクセスできるようになることほど、楽しいものはありません。「スタバに行きたいけど、オシャレすぎて俺にはムリだ…!と思っていたけど、勇気を出して一回行ってみたら案外行けた!」みたいな話です。

 ちょっとだけ先が見えた代わりに、知りたいことは山積みになります。そもそも僕は高校時代政治経済をまったく勉強していない(理系クラスだったので。理系に政治経済教えないのどうかとは思いますが、今の学校のカリキュラムでは、先生も生徒も余裕なさそう)ので、国内外の選挙制度や経済発展の基本要素なんてまったくと言っていいほど知りません。これから勉強じゃ。

 

 

 というわけで久しぶりに個人の問題が政治の問題、個人がたくさんいる社会の中での問題に変わってきたよーというお話を、4000字、1時間ちょっとでババッと書いてみました。タイに教師しに行くっつってんのに、何やってんだ己は。トホホ。