あまかけるの巣

雑記など

隙をつくる

 ここ1ヶ月くらいで、自己紹介をする機会の人生最多記録を突破したと思います。少なくとも150名は超えていると思います。人間が記憶できる人数を遥かに超えていますので、記憶力の悪い私には到底全員覚えられるはずがない人数です。
 さて、せっかく自分の第一印象が、自己紹介――はじめて会ったときに話した自分の説明――によってどのように変化するのかを試す機会を大量に得たので、実験してみようと思い、ちょこちょこ自己紹介の内容を変えてみました。どれも嘘ではありませんが、切り取った場所がそれぞれ異なります。
 特段厳密に実験する気はなかったので細かなデータはありませんが、紹介を終えて相手の印象が良かったなあと感じるのは、自分の大学での専攻内容を説明したときでした。私の学部は工学部や経済学部など、ある程度の偏見をもって大枠をつかめる学部ではないので(名前もカタカナだし)、大学の話になるとだいたい説明を求められます。そこでの説明内容に、自分の価値観もちょいとくっつけて話すと、自分も話しやすいし(少なくとも「音楽が好きでしょっちゅうイヤホン耳に突っ込んで聞いております」から始まる自己紹介よりはかんたん)相手の印象も良かったように思います。
 
 自己紹介実験を終えて、自己紹介をする前とした後の相手の反応を比べてみると、自己紹介は「話しかけてもらえる意識的なすきをつくる」作業なんだなあとつくづく思います。私の情報伝達の原則は「さっさと伝われ」「さっさと分かれ」でありまして(それが自分や相手の誤解や早とちりを生む原因になっているところは反省)、加えて自分から話しかける・話を始めるのはめんどくさいという本音を持っています。何も言わないと誰も話しかけてくれなくて、仕方がないから自分から自己紹介をする、話しかけるという思考プロセスです。ああ、めんどくさい。
 心の底からめんどくさいのだけれど、ある程度自己紹介をしておけば、それを元に話しかけてくれる人がぼちぼち出てきます。話しかけられさえすれば、あとはこっちのもので、ああなんてこの会話楽しいんだとなります。そこからは情報伝達から一歩進んで、感覚の共有も入ったコミュニケーションが始まります。つまり楽しい時間のはじまりだぜ!なわけです。
 この楽しい時間のために、ドライな情報伝達ーー自分のことを客観的に説明し、相手にもそれを求めるーーをする。このことを、「意識的なすきをつくる」作業と呼びます。意識的なすきではない、無意識のすきというものは、例えばバッグの中の財布をすられるすきとか、SNSのアカウントを乗っ取られるすきとか、そういった類いのものですね。だいたいの方は「すき(隙)」と聞くとこちらのネガティブなすきを思い浮かべると思います。
 けれど、相手に情報を与えるということはそもそもすきを作るということです。もう少しツッコんで言えば、おしゃべりな人はすきだらけなわけです。ただ、そのすきは、他者に安心感をもたらしたり(少なくともこいつは危ない人ではなさそうだ)話しかけるとっかかりを与えたりすることになる。
 
 この「すきを作る」というときの「すき」という言葉は、2年ほど前に書いたこの記事(自由さ-作品-自由さ)の発想に基づいています。
 この記事には、作者と作品は切り取って解釈される自由がある、また作者も、作品と自分を切り取って考える自由があるといったことを書いたつもりです。当時は芸術に興味を持ち始めていた時期でした(このころに芸術に精通している教授のゼミに入ったと思います)。人の思いは決して三次元化されることはなく、常に目に見えず触れることはできない。しかし私たちはそれに似せた三次元のモノをつくることで、なんとか思いを共有しようとする。それが作品である、というようなことを考えていたと思います。
 つまり、コミュニケーションの基礎を論じていたわけです。私たちが日常的に行うコミュニケーションも、自分の思いを声(空気の振動=三次元)や身振り(身体運動=三次元)にして行います。これを通して私たちは相手の思いを「理解した」と錯覚する。その錯覚のすりあわせがコミュニケーションなのだと。このブログも、私の思っていることをとりあえず言葉にしてみようという試みの連続です。その試みに別の言葉がやってきて、それが連鎖する様子を見ているのが楽しいのです。
 自分の「すき」というのも、他者が自由に解釈し利用してよいものです。私たちが行うSNSの投稿のひとつひとつも、基本的には他者に開かれており、それは自由に他者に利用される。そういう性質を持つものだと思った方が気が楽だと思っています。
 
 さて、自分の「すき」を他者に利用されるためには、それを自分が容認する必要があります。方法は大きくわけてふたつ、ひとつは利用されていることに気づかないことあるいは気づいていないふりをすること、もうひとつは気づいていてもそれを受け入れることです。そして、容認するためには「ここまでは容認してよい」「ここからは絶対に容認できない」という自分なりの基準が必要です。この自分なりの基準があるからこそ、その基準を超えない「すき」を放っておくことができる。
 とかなんとか言っておきながら、私は部屋の窓もドアも徹底的に塞いで、ヤモちゃんが入れないようにしています。すきなし。すると今度はヤモちゃんが入れなくなったおかげでありさん天国になっている。すきまがあった方がいいなあと思いつつ何もせず。

 最後にその先のことについて。まだ言葉にすることができず、その過程を説明できずにいるのですが、「すき」をつくるために必要な自分なりの基準は、突き詰めると同一律になります。いわゆる信仰です。「だって、AはAだもの」というわけです。その基準を人がどこに置いているのかなーというのを観察するのが、私の趣味であります。