あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

自転車偏愛、の理由篇。

 自転車に乗って少し遠くに行くのが好きだ。歩いてでも回れる距離ではなくて、走った後にちょいと息が上がるくらいの距離。ママチャリではちょっとキツいだろうと思われる距離を、ふらふらと、ときに歩を散らすが如く、ときに原チャリが如くすいすいと。

 

 自分が好きなこと、それも、「好き」と改めて思うよりもはやく、自然にやってしまっていることの理由を問われても、答えづらいものだ。私はただ、自然に起きた波に乗っているだけだから。

 といいつつ、今日もひとっ走りした後、静かにシャワーを浴び、体を拭き終わったところでひとつ仮説を思いついた。好きな理由。

 

 それは「気を抜くと事故るから」、かもしれない。

 

 

 好きな理由の理由を語る前に、少し準備体操をしておこう。

 ものには道理というものがある。例えば、むやみやたらに人を攻撃すれば反撃がくるものだし、毎日同じものを食べ続ければいつか倒れる。カルシウムを取らなければ骨はスカスカになり、田に水を引くのを忘れれば稲は枯れる。

 これらはすべて、変わらない事実である。骨がスカスカになった後で、骨に向かって「なんでお前そんなにスカスカなんだよ!」と怒鳴っても、スカスカのままだ。そういった事実を、一昔前は道理と言って、「ものには道理というものがあってだな…」と説法をまき散らすことがあった。

 

 ものに道理があるのと同じように、私たちの体にも道理がある。忘れがちだが、あくまでも私たちの体は何を言おうと「自然」の産物であり、「人工」ではない。切っても切っても生えてくる都合のよい都会のビルとは違い、自然の産物は一度根絶やしにしてしまえば、もう二度と自然には生えてこない。

 とはいえ、私たちは脳でものを考える(と、いうことになっている)。私たちの意識は常に脳に閉じこもっていて、そこから離れることはできないはずだ(離れたり他のものと一体になったりすることもあるらしいが、俗世界での話、ということにしておこう)。けれども、私たちはよく体のことを忘れる。

 

 体のことを忘れると、何が起こるか。それは、疲れも忘れさせる。自分の感情を押さえ込むことになる。それに気づくのは、だいぶ後のことだ。久しぶりに旧友と話をしたり、昔自分がよく聞いていた音楽を聴いたり、思い出深い場所に帰ってきたりしたときにふと、「あ、自分、疲れてたんだな」と思うことがある。そしてだんだん、そうやって自分の疲れについて、肩の力の入り具合について、思い出すことができなくなっていく。いつの間にか、バリバリの肩パッドが完成している。

 

 

 私たちの精神、知性、思考は、私たちの身体、感情、気分と一体である。少し運動をすれば頭がよく回るし、よく眠れないときは頭に血を上らせると思考が鈍くなって眠れる。決して人間は、脳を運ぶサル、ではない。

 

 

 さて、自転車に話を戻そう。自転車は、自分の体力で車輪を回し、かつ出そうと思えば原チャリくらいのスピードが出せる代物だ。つまり、よく考えれば、自分の体力と周りの状況との、二重の判断が要求されるなかなか忙しい乗り物なのだ。

 しかしこの二重の対話が、なんとも心地いいのだ。この対話は、サドルの上でしかできない。

 

 

 この心地よさの原因を突き止めるために、もう一度別の準備体操をしよう。

 

 「礼」というものがある。もとよりこれは中国で生まれたとされている発想だ。説明は避けるが、ここでは礼儀・儀礼に相当するものとしておこう。礼儀と言われて何を想像するか。例えば、お年寄りの方に席を譲る、ドアに手を掛けたら先に他の人を通す、エレベーターのボタンの近くに乗ったなら「何階ですか」と聞いてみるなど、まあ人によって実践するしないは自由だがとにかくいろいろなものが浮かぶだろう。また、儀礼と言われれば。冠婚葬祭、あとは七五三や学校の始業式・終業式、売上目標達成の祝い酒くらいのものか。

 ところでこの礼儀・儀礼だが、こうしたものはちょいと硬めの言葉でいう「近代化(Modernization)」で忌み嫌われてきた。曰く、「めんどくさい」「無駄だ」「形式的なものに過ぎない」「何も役に立たない」エトセ。効率化、均質化を通したグローバリゼーションを標榜した近代は、「分かりやすいもの」が善とされ、少し勉強がいるもの、つまり摩擦係数の高いものはどんどん姿を消していった。

 

 ここに「礼」を出したからには、ご想像の通り、私はこれから「礼」を大事にすべきだ、「礼」こそ楽しいという話に持っていきたい。しかしこう言うと、どうしてそんな面倒くさい古くて廃れた習慣、博物館と図録でしか見たくない風俗・習慣・文化をほじくり返すのかと思う方もいるだろう。

 

 例えば、「挨拶」も立派な儀礼のひとつだ。それ自体に意味はないし、そんな言葉を口にしていないで、早く本題を切り出せばいい。コミュニケーションとは意思の疎通だと定義するのなら、開口一番「今日も暑いですね」ではなく「先週のお金返せる?」と言えばいい。しかし多くの場合そんなことをせず、とりあえずまずは「こんにちは」や天気の話から始め、緩衝材を撒くだろう。

 なんとはなしにやっている挨拶であるが、私たちはこれを他人から教わったことを忘れてはいけない。決して自分で思いついて始めた習慣ではないはずである。つまりそれは立派な儀礼のひとつなのだ。

 

 さて、儀礼があると何がいいかと言えば、無理に0から1を生み出さずとも、自然に段階を踏んで何かを成し遂げることができることだ。ここで、助っ人の文章を引用しよう。

 

 なんとなく落ち込んでいるなら、ちょっと時間をとってだれかに「やあ」と声をかけることが、負の感情の悪循環を断ち切ってくれる場合がある。仲たがいしている人に挨拶するのなら、より礼儀正しい自分の一面を出して、一時的に不和のパターンを打ち破ることができる。そのつかのま、わたしたちはいつもと違う人間関係を結ぶ。

 しかし、社会の大部分のしきたりを機械的にこなして人生を送るだけでは、しきたりは、わたしたちを根底から変えうる礼になる力を失う。わたしたちがよりよい人間になる助けにはあまりならない。自分を変える力にするためには、通常のあり方を離れることが、自分のさまざまな面を育てることにつながると気づかなければならない。孔子のいう礼には変化させる力がある。少しのあいだわたしたちを別人にしてくれるからだ。

 礼はつかのまの代替現実をつくり出し、わたしたちはわずかに改変されたいつもの生活にもどされる。ほんの一瞬、わたしたちは〈かのように〉の世界に生きることになる。

 『マイケル ピュエット&クリスティーン グロス=ロー. ハーバードの人生が変わる東洋哲学 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』 (早川書房) (Kindle の位置No.470-478). . Kindle 版.

 

 

  礼があるからこそ、私たちはつかのま「別人」になれ、そこで自分の感情や互いの関係をよい方向に持っていくことができる。私が大切だと言っているのは、「しきたり」ではなく、そうした「役に立つ」礼である。

 

 

 さて、ふたたび自転車の話に戻ろう。ブランコのように話の筋が揺れているようだが、頑張ってついてきてほしい。

 こうした礼を、自転車ライダーに当てはめてみよう。もっとも直接的なものは、車や歩行者などとの対話である。このとき、私は目と目で合図したり、アゴを使ったり、手で道を譲ったりする。これがうまく疎通できれば、私は決して事故を起こすことはない。

 また、死角や路上の危険物(画鋲とか)の素早い発見は、路面との対話によるものだ。ものに礼儀を尽くす、というのはなんだか不思議な表現だが、それをいち早く見つけてスピードを落としたり十分に距離を置いたりするだけで、事故の確率はガクッと減る。

 自分の体との対話もそうである。疲れたのなら休み休み行く。喉が渇きそうなら水を飲む。一度立ち止まって休み休み進むことで、がむしゃらにスピードを出して走るよりも速く目的地に着くことができる。

 

 この礼は、サドルの上でしか使えない。そしてこの礼が十分に使えるから、結果として事故を起こさず楽しくサイクリングできる。これが、私が自転車に乗ることを止められない理由だ。

 

 

 ちなみに私にとってのこれは、精神統一の一種である。ヨガや瞑想や料理と同様、これをやれば、気持ちが落ち着く。物事に集中できる姿勢を整えられる。

 ぜひみなさんも、ママチャリで東京から水戸市まで行ってみてください。ここまで読む体力があるならきっとできるはず。