あまかけるの巣

今はうんちでも化石になるから。

「外部」に対する見方がぎゅるるんと変わることについて

 突然思いついたので、表題の件、書き付けておきます。

 

 この仕事をはじめるときに設定した自分の目標のひとつとして、タイで1年仕事をすると自分がどうなるのか、周りがどう見えるようになるのかが知りたい、というものがありました。これはこれまで、自分にとっての「外部」、つまり生活圏ではない=自分の共同体ルールが通じない場所では、そこで出会った人と一端の観光客あるいは友人としてしか付き合えなかった。だから、もしこの関係が仕事仲間になったらどうなるのかが気になった、というわけです。

 当然ですが、仕事仲間と友人、あるいはお客さんとの付き合い方というのは、それぞれ違うものですね。そもそも文化が異なる、言葉もあまりあるいはまったく通じない場合に一緒に仕事をするときに何が起こるんだろうということが知りたかったわけです。

 

 その経過報告です。

 

 

 まず、見過ごしてしまいそうな当然っちゃあ当然の変化ですが、大事なこと。自分の周りの人を「外部」の人と思うことが少なくなりました。最初は目新しく、何でも目につくものです。挨拶するときのワイ(合掌)をする基準から声の張り上げ方まで何でも珍しく、何でも意識的にマネしてみようとします。この、周りの人は当たり前で自覚すらしていない、でも自分にとっては珍しい、という観察の時間はとても楽しいものでした。

 ところがそれもある程度習得し、皆さんにも受け入れてもらえるようになった頃、ボーッとしてると自分の目がくすみ始めていることに気づくわけです。周りの人と自分がやっていることが同じだと、それが見えなくなっていくんですね。

 そうなると、僕が大好きな人間観察がやりづらくなり、楽しみが減っていってしまいます。いや、そこでより細かい観察をしていくことができれば楽しいんでしょうけど(もちろんそういうこともあります)、そんなに僕の目は根気強くセットされていない。自分のどこかにきちんと客観的な自分を置き、「今の現実は当たり前ではない」と菩薩のように思い続けるのは本当に根気の要ることで、それができる人は本当に尊敬します。。

 

 これは僕の意見ですが、自分以外の人を「外部」の人だと思っておくことは、自分にとっても相手にとってもいいことだと、より確信をもって思うようになりました。親密な関係が構築できている間柄こそ、これは重要なことです。親しき仲にも礼儀あり、なんて諺がありますが、礼儀・マナーとは基本的に「外部」の人に使うものですね。100%心を許した友人や家族にはそんな潤滑油頻繁に使うことありませんから(ゼロじゃないけど)。

 自分はこの人のことを根本的には知らない、だって「外部」の人なのだから、と思っておけば、その人の人格を尊重することもできます。間違っても変に馴れ合ってしまうことにはならない。そりゃあ、人に安心を求めて寄ってっちゃうこたぁあるけれど、全面的に依存することにはならないはずです。

 

 

 そしてもうひとつ、これは明らかな変化です。そうした自分の身の回りにある独特のしきたりやマナー、文化といったものを、自分がこの社会で生きる生々しい処世術として見るようになった、ということです。

 これまで、特にベトナムに足を向けたときには、そのファーストインプレッションを詳細に記述し、あまりいい言葉ではありませんが珍しがり、「文化」として発表したわけです。これはこれで、もちろん価値があることだと今でも信じています。ところが、その「文化」圏に1年も身を置きしかもそこで働く(生産活動を行う)となると、そうした「文化」を額縁に飾って入れておくことはとてもとてもできなくなります。むしろ額縁に飾りそうになろうもんならすぐにそのガラスを破り去って、自分に染みこませなくてはならない。いや、そんなに大げさなことではないですけどね。

 例えばワイをする基準やその形について。ネットでも調べれば分かりますが、同じワイでも自分と相手との関係性によってワイをしたりしなかったり、しても位置が違ったりします。また、小さいときに「模範的なワイ」として習うワイもあります。初めの頃はまったくうまくできませんでしたが、慣れていくと、初めて会う人との会話が比較的なめらかになったりします。

 当然ですが、これは1対1のコミュニケーションでもそうです。いつまでも「あー、タイ人ってホント時間守んねえわー」なんて言ってられないのです。タイ人は××だからという幻想を脱ぎ捨てて、目の前の人はどうなのかを考えて、じゃあこの人に動いてもらうためにはこうしなきゃ、というプロセスをよいしょよいしょとこなしていくんです。

 よく言えば、その「文化」はそこで初めて生きた「文化」になり、処世術になります。枠に飾った「文化」は知的好奇心をくすぐり、それは間違いなく素晴らしいのだけれど、この生々しい方も自分は好きなんだと気づきました。

 

 逆に考えれば、「自分の力で見聞きし、全身で感じて、自分で考えて文章にする」というあのプロセスは、とても貴重で楽しいことなんだと改めて思います。第一、大多数の人はそこで生きていかなくてはいけない状況だからそこにいるわけで、つまり自分がこれまで珍しい「文化」だと興味津々だった物事を、処世術として使う必要があるわけです。あるいは道徳として教わって、自然に身につけてしまう。いちいち客観視する悠長な時間も必要もない。

 自分が恵まれていたこと、そんな時間と方法を自分に恵んでくださった方に感謝でいっぱいです。