「女性を軽視した出版を取り下げて謝って下さい」に署名しなかった理由 / 謝罪しても事実は消えないから

 年末年始に話題となった表題の署名に、僕は署名しない選択をしました。

 

 


 まず大前提。僕が直接見たのは、Change.orgでKazuna Yamamotoさんが出したこの署名に、一人の女性の友人が署名をして、自分のSNSで署名したことを発信していたこと。それに、その投稿に何人かの友人が反応を示していたことです。
 見ていないのは、週刊SPAの当該の記事、です。


 さて、自分はこの署名には参加しませんでした。ですが、僕はこの署名運動に反対しているわけではありません。
 今回は、「自分がこの署名になぜ署名しないと決めたか」という、特に誰から求められたわけでもないその理由をまとめてみました。
 理由は二点です。

 

 


 まずは一点目、「署名の説明文、及び署名についていたコメント(署名ページ内で「賛同者のコメント」とあるところ)に賛同できなかったから」です。
 まず説明文。日本語の説明文では、まず「『ヤレる女子大学生RANKING』が先日、週刊SPAにより10/23日に出版されました。」と事実が述べられています。また、「週刊誌および出版社による、女性の差別用語、軽視する発言を今後一切やめる他、今回の記事の撤回及び謝罪をお願いします。」と今回の署名の目的がありました。


 しかしその後、性犯罪、性暴力、レイプ、痴漢、女性の投票権SNSでの発言、W20・G20など、自分にはとても意見を言える代物ではないほど大きな社会問題の存在が列挙されていました。
 この社会問題について特定の意見が言えるほど、僕はこのテーマに明るくありません。つまり今回の件についての意見ならまだしも、こんなにたくさんの「社会問題」については何も知らない、というのが僕の現状です。だから署名しませんでした。


 次に署名のコメントには、「日本人男性はダメだ」と逆に日本人男性を軽視・蔑視したり、「国の一員として恥ずかしい」「なぜ女性差別はなくならない?」など今回の件から内容が飛躍したりしているコメントもありました。
 僕は「日本人男性は本当に女性差別というものを理解していない」「女性差別は社会から今すぐ抹消すべきである」というメッセージへの署名をしたいわけではありませんでした。

 

 


 次に二点目、こちらの方が主です。「出版社が記事の内容について謝罪したとしても、自分が出版社を許す=今回の騒動を帳消しにすることはないと思うから」です。
 今回の署名では、そのタイトルに「女性を軽視した出版を取り下げて謝って下さい」とありました。このメッセージが、自分には当てはまりませんでした。特に、「謝って下さい」というところ。自分は出版社に特に謝罪を求めているわけではないのです。


 さてここで一度話の本筋をずらして、「謝る」→「許す」という行為について私が持っている違和感について、これまでに考えたことをまとめてみたいと思います(長くなります)。

 

 


 それなりに20年近く生きてきた中で、自分の思いをすぐに顔に出してしまう性もあってか、何度もいろんな人に謝る経験をしてきました。そんな経験の中で何度か、僕は「いくら自分が謝っても許してもらえなかった」経験をしました。そのときに、僕は自分にとって「謝る」ということは何をすることかを考えました。


 僕にとって「謝る」ということは、自分が相手にしたことで、相手がどんな気持ちをもったかを精一杯想像して、それを追体験することです。「もし相手が自分だったら」という想像力を働かせ、自分も相手の体験を想像を通して体験することで、もう二度と自分がそんなことをしなくなる、しようとすら思わなくなろうだろうと思うからです。言い換えれば、「謝る」ということは「二度と同じことをしないように自分を変える努力をすること」です。


 その前提には、自分のどんな考え方があるか。それは、「過去の事実(過去に起こったこと)は絶対に変えられない」という考え方です。
 過去の事実は絶対に変えられません。昨日自分が夜食にラーメンを食べたという事実は、変えようがありません。そのラーメンをなんとかして吐き出すことができたとしても、食べたという事実は変わらない。これと同じで、相手が自分に謝罪を求めたくなるようなことをした、という事実は、いくら自分が謝って相手の気持ちを「なだめよう」としても、決して変わりません。
 だから、過去は変えようとせず、今後自分がそうしないようにする、つまり未来の自分を変えていこうとする。その姿勢を精一杯見せることしか、自分には謝罪といえる方法がない、というわけです。

 


 さて、ここから、僕の謝罪の欠点が見えてきます。それは、自分と相手の見ている視点が違うこともある、ということです。
 自分は、「過去は変えられない」から「未来を変える」=もう二度としない、つまり未来を見ています。しかし、相手は真逆であることもあるでしょう。すなわち相手が「過去」を見ていたら。過去に自分が受けた仕打ち、それに対するイライラやわだかまりなどを、それを与えたあなたになんとかしてほしい、と思うことだってあります。
 まずそこをなんとかしなければ、とてもじゃないけどあなた(自分)が今後こんなことをしない=あなたの未来のことなんて考えていられません。


 ではなぜ、それがわかっているのに、自分が「未来を変えていこう」という方向性で謝罪をしてしまうか。それは、仮にこの立場が逆で自分が謝られる側に立ったとき、いくらいわゆる「謝罪」をされても自分が相手の行為を許すことは決してないから、です。目には目を、歯に歯を、ですね。自分がされて嬉しくないことは、自分もしない。というより、できない。

 


 自分が謝罪をされても嬉しくない、許すことはないという自分の価値観が、人に謝罪を好んで求めない自分の姿勢に影響していることが分かりました。


 なぜ嬉しくないのか、まあ自分がひねくれているからと言ってしまえばそうかもしれませんが、やっぱり謝られても困るのです。
 いわゆる「謝罪」、例えば「ごめんなさい(謝罪)」だとか「どうやったら、何をあげたら許してくれる?(代償)」などと言われても、僕はいっこうに許す気になりません。正確には、僕がその人の行為を許すか許さないかというのは、その謝罪はあんまり関係ないんじゃないかなあと思っています。ちょっと気持ちが高ぶっていたなら、「とりあえず僕にかかわらないでくれ」とさえ思います。

 

 謝罪の何が嫌いかといえば、謝られたがゆえに「謝ったからもういいよね」と事実を「帳消し」にされることがあるのが嫌いなのです。謝罪されても「そんな口ひとつでなかったことにするなんてできないよ」と思うし、代償されても「あなたが苦しんでいる姿を見ても僕はちっとも嬉しくない(むしろ自分のせいであなたが苦しんでいる状況は辛いです)」と思います。
 謝罪でもなく代償でもなく、その過去の行為はそれとしておいてほしい。変にほじくり返して「記憶から消してください」と求めてこないでほしい、ということです。僕の頭にデリートキーはついてないので。

 


 さて、自分が謝られたときにこう考えるので、僕は「謝罪の意を示してほしい」とは言いません。僕は、人が謝っている姿を見ても楽しくないし、それを真に受けるつもりもない。


 もちろん相手のした行為を不愉快だと感じ、それを表明する権利は保障されるべきです。少なくともこの記事で槍玉に挙げられた「女性」が出版社に謝罪を求めるのは、そりゃ、そうだと思います。その権利にふれるつもりは全くありません。けれども、仮に自分がその「女性」だったとしても、出版社が出す謝罪文を読んで満足する自分は想像できないから、僕は謝罪は求めない、という結論としました。

 

 

 


 最後に。当初は当該記事の取り下げと謝罪を求めていたこの署名ですが、1月13日に、KazunaさんがChange.orgにて「対談を行います・We will be taling with the publisher」というタイトルのアップデートを出されました。署名運動がいい形で進んだと思います。Buzzfeed Japanによれば、1月7日に「SPA!」編集長が謝罪コメントを発表。1月9日に編集長、発行人が扶桑社のサイト上に「お詫び」を掲載したそうですが、やはりそれでは収まらなかったみたいですね。
 引き続き情報はアップデートされていくと思うので、気になる方は続報を追いかけましょう。