傷を認めることが切実な課題になってきた

 ここ3ヶ月ほど、ほぼまったくここに文章を書くことができなかった。書きたいことはたくさんあったが、文字にしようとワープロソフトを開く。一文字打つ。すぐに消してしまう。それを繰り返していた。やっとのことで書いた7月の文章も、結局宣言に終わってしまった。
 それと反比例するように、人にはそうそう見せないことにしている自分の日記には、三日坊主のぼくにとっては最も長く、継続的に出来事や思考などを書きつけることができた。
 ブログと日記とを使い分けている人には当然のことかもしれないが、ブログと日記は、「誰か」という読者に向けて書くのと「未来の自分」という読者に向けて書くという点で、まるで違う。たとえいま目の前に読者がいなくても「いつか誰かに見られるのだろう」と想定して文章を書くのとそうでないのでは、ちょうど鏡の前の練習と実際に観客を前にする本番とがまったく違うように、仕上がる物がまるで違ってくる。
 「誰かが読んでいるかもしれない」という場所に文章を残しておくことは、本当に自分の宝物になると最近は心から信じている。それはまだぼくにとってはとても恥ずかしいことで、痛みを伴うことだけれど、あのときの自分は自分以外の人々に向けてこんなことを書き残しておきたい心境だったのだ、と振り返る場所を用意しておくことは貴重なものだ。それに、実は「誰かに向けて書いている」という緊張感が心地よい。この「誰かに向けて書いている」という状況でしか書けない文体というものがある。この状況でしか出てこない言葉というものがある。

 

 自分のブログという場所のありがたみをかみしめたところで、少し、自分がなぜしばらくここに文章を書くことができなかったかを反省してみたい。その結論はつまり、「誰か」という読者に向けて書くのを異常なほどに恐れていた、ということになる。

 

 ぼくはここ最近、加害者が加害者として生きていくにはどうすればいいんだろう、という問いに囚われて、漫然とその問いについて考えることがやめられない状況にある。
 この問いについてぼくが考え始めたちょうど同じ時期に、東浩紀が「ゲンロン」という雑誌でまさにその問題に取り組み始め、文章を発表し始めた。彼は被害者への配慮が絶対的な現代社会を批判し、「加害側が害の存在を記憶し続けていること」を重要な課題として打ち出している。ぼくは彼の提示した問題を、弁えの足りないことではあるが自分ごとのように読んでいる。

 


 ぼくは、この問いを考え続け、たった1割でもいいから何かの答えを見いださずにはいられない。
 まぎれもなくそのきっかけは、タイでの教員経験にある。そもそもぼくはこれまで、教育というものをまともに正視したことがなかった。タイに行った理由は、現地の人々の一年間の暮らしを、一緒に時を過ごすことでまるまる知りたいというものだったから、教育には着任当時は無頓着だった。
 しかし当然のことながら、仕事として教員生活を送ることになった。現地の日本語の先生がいて、自分は彼を支える。そういう役だと聞いてはいたが、もちろん現場に出てみればその支える-支えられるの関係がいくらでも入れ替わったりなくなったりする。その度に、現実的に自分はどうしたらいいのかという細かい回答を日々求められる状況に置かれたのだった。

 

 ぼくの携わった教育という仕事が他の仕事と違うところは、「発注者」「受注者」の関係で仕事をする/される側が結ばれるのでは決してないところだ。先生は生徒を「顧客」だとは思っていない。ましてや自分にサービスを求める「発注者」だとは思っていない。そういう側面もあるかもしれないけれど、それは教育という営みの一部分にすぎない。
 この関係性は、これまで「発注者」「受注者」の関係で仕事をしてきたぼくに大きな戸惑いを与えた。現実にどう答えればいいのか分からなくなった。「ひとつの答えはないのだから、あなたなりの答えを出せばいい」という文句が疎ましく思えるほど、分からなくなった。そうやって毎日落ち込んだり考え込んだりしていた。
 そしてさらに悪いことに、落ち込んだこと、傷ついたこと、いわゆるストレスをすぐに忘却し、回復することは、ぼくの得意技だった。いわゆる静観に徹すること。そうやってすべてをリセットして回復しようとする習性が、どうも身体の奥深くに根付いているらしかった。

 

 この習性は、一方では自分を防御するためにとても役に立つ。しかしもう一方では、問題の本質にきちんと向き合うことを妨げる。目の前の人にきちんと向き合って、自分が何をそんなに恐れているのかをきちんと見極める機会を奪う。結局、日本に帰国してから、本質に向き合わなかったツケが回ってきたのか、自分が誰かを傷つけてしまうかもしれないことに、ほとんど神経症のように恐れを感じるようになってしまった。人と話していても、どこかへ出かけていても、とにかくそこに他人がいれば、彼を傷つけないようにと異常に神経を使うようになった。そして傷つけたと気づくと、ふうむと落ち込んでしまった。もちろんそんな失敗や落ち込みは誰にでもあることだと、そんなことで傷つくほど他人は「ヤワ」ではないと、言葉では分かっていても、何度も呪文のように理解しようとするのだけれど、それができなかった。
 

 おかげで、ぼくは自分のこれからのことを、まったく考えられなくなった。寝ても覚めてもなにか不穏なものが肩に乗っかっていた。あまり眠ることができなくなっていった。

 

 高3と高1の日本語クラスの生徒に先生とともに日本語を教えたあの1年の生活。帰国してすぐに電話をくれた叔父が、「君はいい経験をしたな」と言ってくれたがそのときにはまだその自覚がなかった。今ではまったくそう思う。そこで起こったことの半分は、ほとんど日記にもブログにも書き残すことができていない(もう半分はSNSに投稿した)。それは、その期間の出来事が自分自身の立ち位置を揺るがす大きなことが起こったことを意味するかもしれない。
 ここに文章を書くことがやっとできるようになったということは、それらにきちんと向き合うための体力が少しずつついてきているということだと思う。体力があるうちに、きちんと向き合ってひとまずけりをつけられたらと思う。