賑やかなバーで歯の話

 バーはいつもより少し暗く、多くの人が集まり、賑やかだった。主催のUさんの珍しく本当に役に立つお話を聞けるとあって、どこから聞きつけたのかみないつの間にかぞろ、ぞろと集まってきたのだ。


 Uさんは歯科医師をしている。そのUさんが、お仕事で一般の方向けに歯にまつわるいろいろな話を講義してきたらしい。今夜は、そこで作ったパワーポイントを使って、われわれ呑んべえにもその話を教えてくださる日なのだ。


 今夜のUさんは仕事の顔をしていた、わけではないけれど、いつにもましてピリリとした「先生」らしい真っ直ぐさを感じさせた。奥さんも同様で、いつもバーでお会いするときはもうお疲れの様子で、口を固く縛ったふうせんのようにUさんの隣に腰掛けているといった様子だったのだが、Uさんをはじめ集まったお客さんひとりひとりにマスターのように目をかけていた。

 そんなふうにして、Uさんの「歯磨きは裏切らない」講座が始まった。

 

 講義の内容を逐一ここに書いていくことはしないが、大事なことは「一日一回、きちんと頭を使って歯のすべての表面と歯と歯の間を歯ブラシや糸ようじなどでこすること」のようだ。

 さて当のぼくは、根っからの無精で、歯医者に行くのが面倒くさくて、何度も歯医者さんが驚くほど虫歯を大きくし、銀歯に取り替えてもらっている。けれども実はタイに滞在していた一年間は一度も虫歯に悩まされなかった。なぜかといえば、それがなぜなのかは分からないが、ある日ふと気づいたら歯をしっかり磨くことができるようになっていたからだ。
 考えてみれば技術というのは不思議なもので、いくら練習してもうまくいかなかったのに、ずっと練習していてある日ふと気づいたらできるようになっていたということがある。歯磨きも大げさにいえばその種の技術であって、実はけっこうな人がそれをきちんとできるようにならないまま大人になっているんじゃないか、と思う。

 

 Uさんはこの講座に限らずふだんのバーでもよく話してくれるのだが、「医者から見てあたりまえのことをふつうの人は知らないということにハッとさせられるときがある」という。歯医者さんは若干10代後半から20代にかけて歯について猛勉強をして歯医者になる。そんな彼らにとって、エナメル質が人体で最も硬い部分であって、それをいくら歯ブラシでゴシゴシしようが歯が削れるなんてことはまずありえない、ということを、常識として知っている。それはもはや卵から手を離せば卵は地面に落ちて割れるのと同じくらい、あたりまえのことなのだと思う。
 それでも、歯医者をやっていないと、また歯についてきちんと「知ろう」と向き合うことをしていないと、それを理解することは難しい。だからなんとなく、あんまり歯ブラシで歯をゴシゴシすると歯が削れてそこに汚れが溜まって逆効果になるのではないか、なんてことを考えてしまう。

 

 でもぼくは、そのどちらもが人というものなんだろうと思う。歯について分かっていないということが分からない。反対に、歯について勉強して分かってしまったら、今度は歯について分からないということが分からなくなる。
 だからこそ、Uさんのようにきちんと勉強をして、現場を見ている方が、そうでない私たちに向けてきちんと教え、質問に答えようとしてくださるのはとても貴重な機会だと思う。そこに「教えてください」と集まる人も、その機会には不可欠だ。

 

 集まったお客さんからは、一通り説明が終わるなり矢継ぎ早にUさんに質問が渡された。Uさんは自分の見解も交えながら、丁寧に質問に答えていた。Uさんが「口の中に食べ物が何もない状態をできるだけ長く保つことが大事だ」と言うと、子連れの奥さんは飴玉をなめていた子どもをほらっとおどかした。

 バーは最後まで賑やかだった。それはいつもと変わらなかった。