「ブッタとシッタカブッタ」という本がある。小泉𠮷宏さんという方が描かれた、4コマ漫画だ。
実家に帰省して、自分の部屋の本棚から見つけ、本当に久しぶりに読み返した。
この本は、私がまだ漢字もろくに読めないときから、枕元に置いてあった。当時は母親と同じベットで寝ていた。母親が好んで置いていた本の中に、この本があった。はじめはなんか面白いブタだなあ、ふんわりしたブタだなあ、という感覚しかなかった。このブタをマネして描くのが楽しかった。読み返していくうちに、だんだんとこの本が、帰ってくる場所のような存在になった。学校や家で嫌なことがあったとき、この本を読んで落ち着くようにもなった。
まあこの先、この本を深刻に受け止めすぎて自己啓発本中毒者になっていくのだから、なかなか皮肉なものである(何が皮肉なのかはこの本を読んでいただければきっと)。
話は変わるが、私は他の人が欲しがっているものを作ってあげることがとても好きだと思う。たぶん。
そうなのかなあと思った発端は、年賀状を手書きで書いたときだった。年賀状の裏面のデザインを父から任され、イラレでいじいじ作ったのだが、肝心のプリンターの調子が悪い。プリンターを直すのに少し時間がかかることになり、年賀状は見送りになった。
ところが私宛に、正月、ひとり友人から年賀状が届いていた。そもそも友人同士で年賀状を送り合うことも珍しい時代だから、こうして年賀状を出してくれた友人には早めに返事をしておこうと、手書きで年賀状を書くことになった。思えば、まっさらの年賀状をすべて手書きで書くのは初めてだった。新年の挨拶と、自分の近況と、ちょちょいとイラストなどをちりばめて書いておいた。
そのとき、自分が思いの外自らの近況を書けたことに驚いた。なんだか、改めて自分の状況を自分で見つめた気がした。こんなことは、自分が常日頃「自分は何をしているんだろう?」と考えている間には出てこないことだった。
スマホやパソコンで年賀の挨拶を済ませてしまう時代だから…というよりも何よりも、手紙の良さは、手で自分について、自分の思いについて、伝えたいことについて、きちんとまとめることによって、それらをきちんと客観視できることにあると思う。結局、手紙は人のために書くものではなく、自分のために書くものではないか。
高校生の時から映像制作を断片的に続けているが、自分が作りたい映像というのはあまりうまくいかないことがほとんどだった。うまくいっても、後から見るとおもしろくなかったり、何がしたいのか分からないあるいは何がしたいのか分からないということすら伝わっていない動画になってしまったりしていた。自分のために何かをすることは別段何を思うわけでもなくすんなりとこなせるのだけれど、こと何かを「作る」ということに関しては、特定個人(対は不特定多数)が要求するものを作ることしかできなかった。
同じように、私は「日記」というものを持続させたことがない。自分の近況をただあてもなく綴ることにあまり興味が持てなかったのかもしれない。けれど、手紙には宛てがある。しかも手紙は、このブログのように不特定多数に読まれるものではなく、極めて個人的なものだ。そこでしか出てこない、自分の言葉の言い回しなどもあるだろう。手紙を書くことによってしか、自分の中にあるその言葉には出逢えない。
特定の「誰か」に向けて何かを作ることには、ある程度の制限がある。例えばまず、少なくともその「誰か」には、自分の伝えたいことが伝わらなければならない。この制限が実は心地よいのかもしれない。自分の制作意欲を前に進めてくれるのかもしれない。その反対に、自分の考えていることをあてもなく綴るというのは、思いの外時間がかかるし、頭を使う作業だ(しかしこのブログの文章はすらすらと書くことができる。読みやすさなどはあまり考慮していないにせよ、あまりにもすらすらと書ける。なんでだろう)。
このことは、映像制作や物書き以外にも当てはまると思う。料理も、話も、ちょっとしたDIYも、特定の相手がいなければうまくいかないことが多いなあと思う。それは、「その人のために作ったものだから」というほんわりハートウォーミングぅな理由からではなく、とても切実な理由からだ。人に悩みを打ち明けるとすっきりする、というのも同じだ。
「ブッタとシッタカブッタ」は、読み返すと「ああ同じこと考えてる人いるんだな」「こんなにすっきり言ってもらうと分かりやすいなあ」と思う。この本は、作者小泉さんなりのひとまずの完成品なのだ。私が共鳴することのできる完成品に出逢えたのも、何かの縁なのだろう。
まったくまとまらなかったが、「伝える」というのはほんとに難しい。