責任と権利を持つ教員になる!
いよいよ明日から、私は「先生」と呼ばれることになります。つまり教員*1」のみなさんと出会ってから、私は自分の小中高の教員を、何名かを除いて嫌いになりました。教室という絶対的権力空間の中で、自分の権力を振りかざすことはおろか、自分が権力者であることの自覚すらない教員には、絶対になりたくない。自分が教育した生徒が社会に出ていき、自分を含めた社会の行く末を作っていく。生徒の裏に(文字通り)明日の社会が見えない教員にだけは、なりたくない。
そうした重い責任と権利を持つ教員に、明日からなります。自分がこの、タイの片田舎で教壇に立つプログラムに選ばれてから、この重い責任をどう乗り越えるのかをぐるぐる考えていました。結局明確な答えは出ませんでしたが、同じ教員仲間としてタイ各地に派遣されている方々とのお話で、ぐるぐる堂々巡りしていた状態が、少し前に進んだような気がしています。
まずは自分の望み通り、このワンヌアという町を知ることからはじめます。空間的―時間的要素、人、生き物たち。ワンヌアの人たちを知るために、ひとつ手がかりとなる問いも作りました。それは「ワンヌアの人々にとって、何がマイペンライで、何がマイペンライじゃないのか」というもの。つまり、何が大事なのか、何を大切にしているのかを見つけることを、この10ヶ月の目標にします。
ひろーい問(大問)ですので、少し細かく小問を見てみますと…。
- ジェンダーの違い、クィアの人について何も気にしない(マイペンライ)のか。
- 軍事教育、宗教教育など、日本にない教育はどのようにして成されているのか、実践的か理論的かあるいはどのくらいの配分か(おそらくマイペンライじゃないところ)
- ウチ/ソトの感覚はいかなるものか(例えばチェンマイ、バンコクをどのように表現する?「人が多い」「危ない」など。周辺国に対してどんな感情を抱いている?)
- なぜ言語教育が盛んなのか(そもそも日本語なんかなんで学ぶの? 日本が好き以外の理由があったりするのか?)
- ふだん何をしているのか、休みの日は何をしているのか、ON-OFFの感覚はあるのか、あれば何をする?
- 階層をどう捉えているか、普遍的なものか変更可能なものか
- 自分はどこまで彼らの感覚を「感覚的に理解できてしまう(できた気になってしまう)」のか
メモ書き程度でまとまってないですね。
目の前の人を「人」として見ることを大前提としつつ、学んでいこうと思います。なにか答えになりそうなことがあったら、また書くぞ。
*1:になります。
大学に入り、自分にとっての「本当の教師((彼らこそが「教師」の例だ、現実態だと思い込みたい、信じたい方々のことです。自分が教員になるのなら、ぜひ彼らを目指したいと思える人たち。