日本にやってきたマイルス・デイビスと、一日過ごす途中で目が覚めてしまった夢を見た。
ぼくは最近引っ越した、コンクリート造り三階建ての家にいた。その日は母が来ていて、家の掃除を手伝ってくれていた。そのとき、母はぼくが滅多に行かない三階にある花壇で、パンジーやバラの世話をしていた。母がてきぱき水やり等をこなしていくあいだ、ぼくは同じ部屋の壁に見慣れない木の扉があるのを見つけた。開けてみると、家の外壁に沿って歩いて通れる少しの空間があった。隣の大家さんの家も見える。うーん、この家はなんでこんなにいろんなところが開くのかなあ、使い道に困る、と思う。*ぼくが住んでいる現実のコーポもいろんなところがなぜだか開く。
母が「ほっとくとかわいそうよ。息抜きに水やりくらいしてあげたら」という。たしかに、母を見ていると水やりは楽しそうだ、と思いながら部屋の入り口のほうへ振り返ると、ちょうどマイルスがこの部屋に入ってくるところだった。
「エーーーーーーーーー」と驚いたくせに、ぼくはぐんぐん人見知りモードに入った。母の方に目を向け、マイルスだよ!と声を送るけれどポカンとしている。ほらあのジャズの!というと、ああ彼か、まあ、あなたが話してみれば、という顔をする。
どうしよどうしよ、とおどおどしているぼくに、マイルスが「このプレイヤーは誰だ」と聞いた。掃除をしながら音楽を流していたのである。たしか黒田卓也かcro-magnonだったと思う。プレイヤーを教えて、マイルスは「彼はいいね」という。
「君はなにかプレイするのか」
「なにも」
「でも聴く。つまりDJってわけだな。弾きたいのは」
「弾きたいの……、うーん、サックスかな。アルトサックス。昔吹いてみたんだけど、ま、声が出なくてね」
「そりゃ最初はそうだろう!」
会話の最後にやっと、ぼくが「写真撮る? 撮ってもいいですか」と尋ねた。もちろん、と照明など調整して、ぼくのデジカメとマイルスのデジカメで一枚ずつツーショットを撮った。マイルスのデジカメは、iMac G3みたいに青く透明なボディだった。
記憶が飛び、日本村や忍者村のような感じのテーマパークのテラスにて、マイルス、マイルスの彼女(もしかしてグレコ?)と三人で食事をしていた。二人はこの日の深夜に日本を発つらしい。テーマパークの食事。うまいがすこし、既製品の味がする。
彼女がつぶやく。
「ほんとはいろいろ行きたかったんだけどね。だしが絶品の玉子焼きを出す店とかね」
「玉子焼き? なんだ、それは?」
彼女がその店のことを話すと、マイルスはガチャンと机を叩き、叫んだ。
「なんでそんないい店があることを教えてくれないんだ! こんなフランスにもあるような日本風レストランじゃなくて、そういうところに俺は行きたかったんだ!」
このテーマパークに行くのを決めたのが誰かは覚えていない。しかし、そういう店ならいくらでも知っているぼくも、なぜそれを一言か紹介しなかったのかと悔やむ。
一方マイルスはほんとうに悔しかったーー観光地を日本語のわかる彼女やぼくに任せっきりにしてしまったことが悔しかったらしく、突然日本語の観光雑誌を開いてくまなく読み進め始めた。どうやら、自分の知らない言語の本でも「そこに書いてあることを理解しよう」と望んで読めば、だいたいのことがなんとなくわかるといったふうの読み方らしい。彼の悔やむ姿を見て、ぼくもいろいろできたのではと、ありえたかもしれない可能世界へ向けて塞ぎ込んでいく。
沈黙が少し流れた。
なかば幽霊のごとくぼくは立ち上がり、ビバップのリズムに合わせて歌いはじめた。歌詞の内容はよくわからないけれど、とにかく何かを憂いているらしい。
理想をいえばこんなこともできた
あんなところにだって行けた
振り返ってみればこれっぽち
これっぽちの思い出を哀しく味わおう じゃないか
金と時間があったなら……と歌うところで、マイルスもノッてきた。一緒に声を合わせて歌う二人。「ジャズを知らなかったら、仲直りできなかったかもしれないな」とぼくは思いながら、口でサックスの声まねをする。
終